咲かない薔薇

瀬戸安人

咲かない薔薇

 深く生い茂る森。

 大木の根元にギドは力なく腰を下ろして首をうなだれた。叩きつける驟雨は幾重にも重なる枝葉をものともせずにギドを嬲り続けた。

 ずぶ濡れの全身は凍りつくように冷たいくせに、深く傷口が口を開けた左肩だけが焼けるように熱い。大量の出血で半身は真っ赤に染まり、意識も朦朧とし始めていた。

「もう、駄目かな……」

 ぼそり、と呟きが洩れた。

 薄れかけた意識の中で、今までの事を思い出した。

 一人旅の危険を避けるために隊商に同行させてもらったのだが、よりによってその隊商が山賊の襲撃を受けるとは、運が悪かったというより他にないだろう。

 奇襲で護衛も壊滅し、隊商は滅茶苦茶になった。後はもう必死に逃げる以外に道はなかった。手傷を負わされながらも必死に森へ逃げ込み、どこをどう走ったかも覚えていない。気が付けば豪雨が激しく地上を叩いていた。轟音が耳を打ち、すぐ目の前さえも見えないほどの雨が逃走に役立ってくれたのだろう。追手からは逃れられたようだった。

 しかし、大量の失血と氷のような雨が容赦なくギドの体力を奪い去っていった。気力も体力も尽き果て、視界が霞むのは雨のせいだけではなかった。

 ぼんやりした意識の中で、ギドは無意識の内に両手を大事に抱え込んでいた事に気付いた。指先を痛めないように、冷やさないように、弦を爪弾く指がかじかんで動かなくならないように、と。吟遊詩人として生きてきた歳月の間に自然と身に付いた習慣が、こんな時にまで無意識に出てしまっていた。指どころか、命が危ういというのに。そう思うと、何だか滑稽で笑いがこみ上げてきた。

「はは、は……」

 乾いた笑いがギドの口から零れたが、その笑いすらもかすれるように力なく消えていった。

「つまんない死に方だな……」

 うなだれた首を持ち上げる力すらギドには残っていなかった。瞼が途轍もなく重く感じられ、抗う事もできずにそのまま目を閉じた。

 そして、ギドは意識を失った。


「ん……」

 呻き声を洩らして目を覚ましたギドは、どうやら、自分がまだ死んではいないらしい事はわかった。

「あ、起きた?」

 明るい少女の声がギドの耳に飛び込んだ。

 目に入ったのはほんの十一、二才くらいの少女の姿だった。

「ここは……?」

「いいから、大人しくしてなさい! あなた、死にかけてたんだから。はい、これ飲んで。薬だから」

 そう言って少女はギドに緑色の液体の入ったカップを押しつけた。言われるままに口をつけたギドは、思わず顔をしかめた。

「まずい……」

「そんな事はわかってるわよ。いいから、全部飲むの!」

 少女の気迫に押されて、ギドは無理に全部飲み干した。

「はい、ご苦労様」

 ギドから空になったカップを受け取った少女は、にっこりと微笑んだ。

「そしたら、もうちょっと寝てなさいね」

 少女が言った途端、ギドを猛烈な眠気が襲い、そのまま深い眠りに落ちた。


「あなた、名前は?」

 少女は湯気を立てるカップを手渡しながら言った。

「ギディオン。ギドでいいよ」

 ギドは受け取ったカップから温かいスープを一口啜った。体の芯から温まるようだった。

「『光輝く者(ギディオン)』? 格好いい名前ね」

 少女はにっこりと笑って言った。

「立派過ぎて重たい名前だよ。だから、ギドでいい。君は?」

 ギドは照れ臭そうに笑って言った。

「アルマ」

「『魂(アルマ)』。いい名前だね。響きも綺麗だ」

「私は嫌い」

 アルマはうつむいて顔を曇らせた。

「そう」

 そんなアルマの顔がひどく悲しそうで、ギドは深く聞く気にはなれなかった。

「えっと、そうだ、君が手当てしてくれたの?」

 ギドは話題を変えようと、自分の肩を丁寧に包んだ包帯を示して言った。

「うん。あなた、もうちょっとで死ぬところだったんだから。私が偶然見つけなかったら、とっくに森の動物の御飯になってたわよ。私、あなたの命の恩人なんだから、感謝してね」

 アルマが悪戯っぽくにっこりと笑った。

「ありがとう。もちろん、感謝してるよ。

 ところで、他に家の人は? 挨拶くらいはしないと」

「誰もいないわ」

 アルマはさらりと言った。

「留守なの?」

「そうじゃなくて、ここには私一人しか住んでないの」

 と、アルマは言い聞かせるようにして言った。

「えっ?」

「もう、五十年くらいになるのかな」

 アルマは何でもないように言った。

「あたし、魔法使いだから」


「ここね、元はある魔術師が住んでたの」

 アルマはそう話し始めた。

「だけどね、その魔術師もに死んじゃって、今はここにいるのはその娘のあたしだけ。あたし、見た目通りの歳じゃないんだから」

 アルマはまるで他人事のように言った。

「そんな複雑な顔しないでよ」

 ギドは内心の戸惑いが顔に出ていたらしく、アルマは苦笑を洩らした。

「あ、ごめん」

「いいの。気にしないで」

 済まなそうに頭を下げるギドに、アルマは屈託のない明るい笑顔を見せた。

「森で倒れてたあなただって、あたしが一人で運んで来たんだから」

 そう言うと、アルマはギドの横になっているベッドのを指差すと、くいっとその指を天井に向けた。その途端、ベッドがふわりと宙に浮いた。

「わっ!」

 ベッドをぐらりと揺らされて、ギドは思わず慌てた声を上げた。

 アルマは顔色一つ変えずにギドごとベッドを持ち上げていたが、ギドの慌てる様子を見て、くすり、と笑みを零すと、ゆっくりとベッドを床に下ろした。

「ふふっ。びっくりした?」

「あ、ああ。そりゃあ……」

 どぎまぎしているギドを見て、アルマは悪童めいた笑みを浮かべながらも少し済まなそうな顔をした。

「ごめんね。怪我人なのに。痛くしたりしなかった?」

「いや、大丈夫だよ」

 と、ギド。

 別にアルマを安心させようと無理して言った訳ではない。かなり深い傷だったはずだが、手当てが良いのか、飲まされた薬が良く効いたのか、傷はあまり痛まなかった。

「良かった。でも、重傷なんだから、ちゃんと治るまで、しばらくここでゆっくりしてくといいわ」

 アルマはの見た目によりも遥かにしっかりした態度と大人びた様子に、ギドは何となく素直に頷いたが、どこかぎこちなく空虚なものを感じ取っていた。


 数日はあっという間に過ぎていった。

 アルマの手当てのおかげでギドの怪我は順調に――否、普通に治療を受けるよりも遥かに早く回復していった。アルマが処方してくれた薬が非常に良く効いてくれたおかげだ。

「へぇ……」

 ギドは思わず感嘆の声を洩らした。

 怪我の具合も良く、今日は随分と天気も良かったので、屋敷の庭へ出てみたのだが、そこで見つけたのは見事な薔薇園だった。

 陽光の下、色とりどりの薔薇の花は美しく咲き誇り、かぐわしい香りを光の中に散らしている。ギドには園芸の事はまるでわからないが、良く手入れされているのだろう、という事だけはわかった、

「気に入った?」

 と、ギドの背後から声が掛けられた。明るく弾んだ声。振り返る間でもなく、声の主である少女の笑顔が目に浮かぶようだ。振り返れば、思った通りの笑みを浮かべたアルマの姿があった。

「あたしが手入れしてるの。なかなかのものでしょ?」

 少し自慢するようにアルマが言った。

「ああ。すごく綺麗に咲いてるね」

 ギドは素直な感想を口にした。

 誉められて嬉しそうに口元をほころばせるアルマは、不意に雲の切れ間から差し込んだ強い日差しに、少し眩しそうに目を細めた。そんな細やかな仕種の一つ一つを見ていると、ごく普通の可愛らしい少女にしか見えない――はずだ。

 違和感。どこかに違和感がある。正体の知れない違和感が、ギドの胸の辺りにわだかまっている。

「ギド?」

 ギドはアルマに呼ばれて、はっと我に帰った。

「どうしたの? ぼんやりしちゃって」

「いや、何でもないよ」

 取り繕うように言うギドに、アルマはそれ以上は聞かずに、ただ、そっと笑って見せた。そんな大人びた笑みは、アルマが見た目通りの年齢ではない事を思い出させた。

 陽光の欠片が零れ落ちる中、薔薇の花を優しく揺らす風にアルマの髪がふわりとなびいた。

「でもね――」

 アルマは風に流される髪を押さえながら言った。

「本当は、花がすごく好き、って訳じゃないの。それは、綺麗だし、嫌いじゃないけど、そんなに好きっていうほどじゃないんだ。ただ、花を育てるのって色々と手間もかかるから、退屈しのぎにはいいかな、って思って。本当は、そんなに好きな訳じゃないの――」

 言いながら、アルマはまだ開かない薔薇の蕾に指を添えた。きつく唇を噛み締めながら、指で摘んだ固い蕾をじっと見つめる。

 そして、指先にぐっと力が込められ、アルマは蕾を無慈悲に毟り取った。手の中でグシャグシャに握り潰された蕾が、アルマの指を離れ、ぽとり、と地面へ落ちた。

 気まずい沈黙。

 アルマはそれ以上は何も言わず、ギドも何を話していいのかわからなかった。

 しばらくの沈黙の後、アルマはぱっと表情を明るくして、ギドの方へ向き直った。

「ねえ、傷の具合はどう?」

 アルマが話題を変えた。明るく振舞う笑みには、どこか無理しているようなぎこちなさが隠し切れていなかったが、ギドはそこにはふれないようにした。きっと、アルマもふれて欲しくはないのだろうから。

「もう、ほとんどいいみたいだよ。ちゃんと動くし、痛みも全然ないからね」

 ギドは言いながら、軽く腕を回して見せた。

「良かった。じゃあ、どんな具合かちょっと見せてよ。中、入ろっか?」

 アルマに促されるまま、ギドは薔薇園を後にして屋敷の中へ戻った。

「すっかりふさがってるわね。これなら、もう大丈夫」

 手際良く包帯をほどいたアルマは、ギドの傷痕を確かめて言った。

「アルマのおかげだよ」

 服を直しながらギドが言うと、アルマは照れ臭そうにはにかんだ。

「はい、これ」

 そう言って、アルマはギドにリュートを渡した。長い間、使い続けている愛用の楽器だ。まだ怪我の具合が良くならないままで弾こうとしてから、傷が治るまでは絶対に弾いたりしては駄目だ、とアルマに取り上げられていたのだ。

「もう、弾いてもいいわよ。って言うより、聴いてみたいな、ギドのリュートと歌」

 アルマは子供っぽくねだった。ギドの歌を聴くのが楽しみなのだろう。キラキラ目を輝かせている。

「もちろん、いいとも」

 ギドはリュートの弦を爪弾き、久し振りの弦の感触を確かめながら、音のズレを調整した。指はきちんと動く。何日も弾いていなかった楽器を弾ける事に、ギドも胸が高鳴るのを感じていた。

「どんな歌がいい?」

「歌の事って、あんまり良く知らないの。歌の名前とかも知らないし。そうね、何か明るい歌がいいな」

「そうだな。それじゃあ、こんな感じでどうかな?」

 ギドはアルマのリクエストに応えて、軽快なリズムの曲を奏で始めた。小さな島国の民族音楽で、人々は明るく軽快な音楽に合わせて歌い、踊り、酒を酌み交わして、笑い合っていた。曲を奏でれば、ギドの脳裏にはその時の光景が鮮明に蘇った。

 アルマはギドの張りのある良く通る歌声とリュートの奏でる旋律に聞き入って、嬉しそうに微笑んでいた。

やがて、ギドが最後の旋律を奏で終えると、にっこり笑ったアルマがパチパチと手を叩いた。

「ねえねえ、もっと、たくさん、色んな歌をきかせて。ねえ、いいでしょ?」

 余程気に入ったのか、アルマは無邪気な笑顔を満面に広げて、ギドに食いつくようにして言った。

 ギドはアルマにせがまれるまま、次々と歌った。

 賑やかな歌。静かな歌。勇ましい歌。悲しい歌。

 人の訪れる事のない森の奥の屋敷――目くらましの魔法が屋敷も屋敷へ続く道も人の目から覆い隠し、近づく者を拒み続けていたのだ――に、ずっと一人きりで閉じこもって暮らしていたアルマには、そのどれもが初めて耳にする新鮮な刺激だった。

 くるくる表情を変えながら熱心に耳を傾けるアルマの様子は、ギドも歌い手として喜ばしい限りだった。

 しかし、そんなアルマの様子が急に変わった。

 歌の途中、アルマの頬を涙が伝った。

「あ……」

 アルマは零れ落ちた雫を拭ったが、あふれる涙は止まらない。

「……やだ、止まらない……」

 アルマは何度も目をこするが、涙で指を濡らすばかりだった。

「アルマ? 大丈夫かい? 何か気に障るような事でも?」

 突然の事にギドはうろたえるばかりだった。

 別に泣き出すような歌だった訳ではない。ありふれた民話を題材にしたものだ。妖精の国に迷い込んで、返って来た時には何年もの時間が過ぎ去って、すっかり大人になってしまっていた少女の話。

 ギドには訳もわからず、ただ、泣きじゃくるアルマをそっと抱き寄せて、慰めるように髪を撫でてやるくらいしかできなかった。


「ごめんね……」

 泣くだけ泣いて少し落ちついたのか、アルマは目を赤く泣き腫らし、鼻をすすりながら呟いた。

「いや、いいから」

 ギドは優しくなだめるように言った。

「……気になるでしょ? 何で泣き出したりしたのか」

 ギドと目を合わせる事もできず、うつむいたままでアルマが呟いた。

「話したくない事なら、無理に話さなくていいから」

 アルマはじっとうつむいたままだった。お互いに何も言えず、ただ、アルマのすすり泣く声だけが寂しげに聞こえていた。

「……やっぱり、全部、話すね」

 長い長い沈黙の後で、アルマが小さな声で言った。

「無理に話さなくていいんだよ」

 ギドが言うと、アルマは目を閉じて、はっきり首を横に振った。

「ううん、話すね。……話したくない、って思ってたけど、本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれないから。だから、話すね」

 そう言って、アルマはしばらく黙ってうつむいていたが、やがて、決心したように、ぽつり、ぽつり、と話し始めた。

「前に言ったよね。あたしはここに住んでた魔術師の娘だ、って。あれね、嘘なの。

 魔術師がここに住んでたのも、その魔術師に娘がいたのも本当だけど、あたしがその娘、っていうのは嘘なんだ。

 あたしは――、違うの」

 アルマの妙に冷めた目をして言った。まるで、何もかもを嘲笑うような、そんな目をしていた。

「その魔術師はね、娘が生まれてすぐに妻を亡くしたの。その分、娘の事を溺愛したわ。それはもう全身全霊で、ってくらいね。でも、その娘は十二才の時に死んだわ。そこで魔術師はあらゆる技術を駆使して、死んだ娘と寸分違わない精巧な魔導人形を作ったのよ。

 それが、あたし」

 自分をも嘲笑うように話し続けるアルマの両目には、再び涙が溜まっていった。

「信じられない?」

 どう反応していいかわからず、戸惑っているギドの様子を見て、アルマは自分の左手首を握ると、不自然な角度にひねった。

 アルマの左手首は驚くほど呆気なく外れた。人形の部品だった。さっきまでは血の通った人間の手にしか見えなかったものが、ただの部品になって取り外されていた。

 アルマは悲しそうな笑みを浮かべて、自分の左手を取り付け直した。

「だけど、どんなに上手に作ったって、人形は人形よ。人間じゃない……。物も食べないし、育ちもしない。見てよ、この体……。あたしが作られてからどのくらいの時間が経ったと思う? 何十年経っても、あたしはずうっと、こんな子供の姿のままなの。あたしを作った魔術師なんて、とっくの昔に塵になってるわ。それでも、あたしは少しも変わらない姿のままで、ずうっと動き続けてる」

 アルマの目から涙があふれてこぼれ落ちた。完璧に作られた作り物の涙。

「でも、何より辛いのは心なの。あたしが考えたり、話したりする事が、本当にあたしが考えたり、話したりしてる事なのかわからないの。それが、わからないの……」

 激しい嗚咽でそれ以上は声にならなかった。ギドは泣きじゃくるアルマを壊れ物でも扱うようにそっと抱き締めた。

「あたしを作った奴ね、自殺したの。死んだ娘の事ばっかり考えてて、とうとう頭がおかしくなって死んだの。

 あたしの事、失敗作だって言ってた。所詮は木偶人形だって。

 馬鹿みたい……。当たり前じゃない。あたしは人形だもの……。本物のアルマなんかじゃない……。

 何よ……。何でよ……。何で、心なんか持たせたの……? 何で、人形のあたしに心なんか持たせたのよ……。心なんかなければ、あたし、こんな思いしなくて済んだのに……」

 何故、アルマが歌を聞いて泣いたのか。アルマは大人になった少女が羨ましく、大人になれない自分が悲しくて泣いた。歌の少女は妖精の国で大人になった。しかし、アルマはどこで大人になれるというのか。

 何故、アルマが薔薇の花を嫌ったのか。美しく花開く薔薇が妬ましかったから。自分が決して咲かない薔薇の蕾だと知っているから。作り物の薔薇の蕾。だから、これから花開く薔薇の蕾が妬ましく、握り潰した。

 何故、アルマが自分の名前を嫌ったのか。それは、その名が意味するところが余りにも皮肉だったから。恐らくはアルマのモデルとなった娘の名。その名の意味は『魂』。しかし、アルマの『魂』は誰の『魂』なのか。アルマ自身の『魂』なのか。アルマを作った魔術師の娘の『魂』なのか。それとも、ただの紛い物なのか。

 アルマの考える事。アルマの話す事。それは本当にアルマのしている事なのか。もしかしたら、魔術師が娘ならこうする、こう考える、こう話す、というようにアルマの中に書き込んだ情報に従って、そのように反応しているだけなのではないか。そんな疑問にアルマはずっと悩み苦しみ続けてきたのだろう。心を持ってしまったが故に、いっそ心などなければ、と思うほどに。

「アルマ」

 ギドはアルマの頬をそっと拭って、静かに柔らかく微笑んで見せた。

「あんまり上手い事は言えないけど、君は今ここにいる君のままでいいと思う。魔術師の娘でも、その娘の代わりでもない、そのままの君でいいと思う。君の持つすべてのものは、君一人だけのもので、他の誰のものでもない。例え、それが他の誰かのものを模して作られたものだったとしても、君が手に入れたそれは、もう、紛れもなく君だけのものだ。君はそのままの君でいいんだ。それ以外のものである必要はないよ」

 ずっとその言葉を待っていた。『そのままでいい』と言って欲しかった。死んだアルマではなく、今、動いているアルマを見て、その存在を認めて欲しかった。魔術師は最後まで死んだ娘しか見ていなかった。自分の存在を認めてくれる誰かにやっと出会えた。今、ここにいるアルマを見て、他の何者でもないアルマ自身を見て、そのままのアルマを受け入れて、認めてくれた。靄のように不確かで曖昧で頼りない自我をしっかり支えて認めてくれる人にやっと出会えた。

「ギド……、ありがとう……」

 アルマはギドに縋りついて泣いた。嬉しくて泣いたのは初めてだった。

『魂』は今、確かなものとなり、あらゆる束縛から解き放たれた。


 良く晴れた朝。

 旅支度を整えたギドは屋敷の門の内側に佇んでいた。

「それじゃあ、元気でね。あんまり無茶しちゃ駄目よ」

 アルマはにっこりと笑って言った。

「アルマ、やっぱり、僕と一緒に――」

 言いかけたギドの唇に、アルマは背伸びして伸ばした指を突きつけて、それ以上は言わせなかった。

「ありがとう、ギド」

 アルマは首を横に振った。

「でも、やっぱり、あたしは行かないわ。ギドの気持ちは嬉しいけど、あたし、ギドがお爺ちゃんになるのなんて見たくないもの」

 そう言って、アルマはくすくす笑った。

 ギドが『一緒に行こう』と誘った時、アルマはこれ以上ないくらい喜んでくれた。しかし、アルマは誘いを断り、残ると決めた。この人目を避けて森の奥に隠された屋敷に残る、と。

「アルマ……」

 アルマは呟くギドの胴に両腕を回し、ぎゅっと抱き締めた。

「ギド、ありがとう。あたし、ギドに会えてすごく嬉しかった。ギドの事、ずっと忘れないから」

 ギドはアルマの肩にそっと手を添えた。

「アルマ、僕も君に会えて良かったよ。

きっと、君の歌を作って歌うよ。いつか、君の所まで届くような歌を、きっとね」

「ありがとう、ギド」

 アルマはそう言って、ギドから腕を放した。

「さよなら」

 最後に一言だけ言うと、アルマはギドの体を、とん、と押した。

 華奢な体からは思いも寄らない力で押されて、別れを躊躇っていたギドはよろめきながら何歩か後ずさり、その何歩かでギドの体は門の外へと押し出されていた。

「あ……」

 思わずギドの口から声が洩れた。

 門から一歩外へ出た瞬間、ギドの目の前から屋敷も門も消え失せ、ただ、鬱蒼と広がる森があるばかりだった。屋敷を包む目くらましは外に出たギドの目から、その姿を覆い隠してしまった。恐らく、このまま真っ直ぐ足を踏み出したとしても、二度と門をくぐる事はできないのだろう。

「アルマ」

 ギドはそっと少女の名を呟いた。

「歌うよ、君の歌を」

 一輪の咲かない薔薇の思いを、大切に胸に刻みつけ、ギドはゆっくりと歩き出した。

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咲かない薔薇 瀬戸安人 @deichtine

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