第15話 綾瀬瑠奈は激しく後悔する

 こんなつもりじゃなかった。


 まさか優斗が翔くんと浮気している事を知っていたなんて。知っていたのに、あの嘘の下手な優斗が今まで知らないフリしていたなんて。


 普通を装って話しかけて何事もなかったかのようにまた元通りになる筈だった。いつも二人が喧嘩した時のように今日も同じことをする。今回は私の方からそれとなく話す機会を作っただけ。


 そうやっていつもの関係に戻る。何も知らない優斗にいつものように笑いかけて貰う。私の事だけを真っ直ぐに想い続けてくれてる優斗に、私しか知らない優しい笑顔で。


 それに最近優斗は小日向さんや、姫野先輩とか可愛い人達と凄く仲が良いみたいだから。私が優斗の一番なんだって彼の口から言ってもらいたかった。


 全部上手くいくつもりだった。浮気している身にも関わらず、本気でそう思ってたのだ。


 もっと正直に言うとどこまでも私に甘い優斗ならば、私が何をしても私の事をずっと好きなままなんだと信じ込んでいた。優斗ならきっと、浮気しても許してくれて私に一途でいてくれると愚かにも考えていた。


 浮気していた事は事実。弁解の余地なんて全くない。でもそもそも優斗はもう私の一番じゃない筈だ。


 別れを告げられた所で私は何の痛みも感じない筈‥それなのに――


 どうして拭っても拭ってもこんなに涙が溢れてくるの?私は優斗よりも翔くんの方が好きになったんじゃないの?‥ならこの涙は一体何なの?


 今日最後に見た優斗の、悲しみや哀れみを含んだ表情が頭から離れない。今まで共に過ごしてきた思い出が次々に頭の中に雪崩れ込んでくる。


 泣きたいのは優斗の方で、絶対に私じゃない。分かってる、まさに自業自得。優しい彼氏を騙した因果応報。自分で種を撒いて‥自分の手で無くしただけ。


 誰が見ても全部私が悪いのに‥涙を流す資格なんて私にはないのに‥まだ雨の中帰る気が起きずに、自分勝手に涙を流して公園のベンチで佇んでいる。


 酷い雨だ。優斗の家を出た時はここまでじゃなかったのに。せっかくシャワーを貸して貰ったのに、意味がなくなっちゃった。


 優斗に浮気を知ってると言われた時は酷く動揺して、何とか言い訳を考えた。思わず自分から白状してしまった時は、死んだのかと錯覚するくらい頭が真っ白になった。


 今もまだ頭の中でさっきの優斗の言葉が脳内で何度も何度も反芻している。


『伊集院といたんだろ?夜も過ごした事も知ってる。正直絶望を味わったよ』

『瑠奈‥どの道俺たちはもう終わってる。別れよう』


 イヤだよ‥そんなの‥そんな事言わないでよ‥。謝るから‥全部謝るから‥許して‥。


 今更後悔しても優斗には届かない。にも関わらずそんな都合の良い謝罪の言葉が、誰もいない公園で自然と口から漏れた。


 いつも柔らかな笑顔を絶やさなかった彼が初めて見せた悲しい作り笑顔。諦めや失望、悲しみ‥色々な感情が彼の瞳に込められている気がした。同時に私にはもう微塵も興味がないというハッキリとした意思の固い拒絶。


 絶え間のない後悔の中、途端に全身に強烈な寒気が襲いかかる。

 

 自分が過去に伊集院と取り合った酷いLINEの内容を思い出したのだ。優斗はLINEの通知で浮気を知ったと言っていた。


 まさか他のやり取りまで見られていないよね?


 翔くんは時折とんでもなく悪趣味な事を言い出す。私も彼に気に入られる為に、優斗の事を罵倒したりしていた。どうせ本人に見られる事はないと思っていたから。


 夏休みの途中まで通知をオンにしたままだったのは、ついうっかりで済ませられない程の致命的なミスだった。優斗は変わらずいつも通りだったので、見られてないと安心しきっていたが‥もしかして――


 最悪の予想に心臓が激しく脈打ち始める。

 

 翔くんが言っていた卒業式の後の計画。あれは普段の悪ふざけの域を軽く超えていた。私の言動も冗談等では済まされない物だ。その悪ふざけに同意してしまったのだから。当時の私でもその日の夜、流石に自己嫌悪する程酷いやり取りだった。


 流石に私は内心その計画は冗談と思いつつ翔くんに軽い気持ちで合わせていたが、もし見られていたら‥。


 全身の力が抜け落ちて途端に嘔吐感が駆け巡る。


 優斗はどれだけの絶望を味わっただろう。どれ程の痛みを受けただろう。浮気している上に嘘告で仕方なくズルズル今まで付き合っていたという事を知らされた上、二年以上恋人だった私による最低な裏切りの計画。


 お願いだからあのやり取りだけは見ていないで欲しい‥


 そんなものを見られていたら私は優斗にとって最低な女どころの話ではなくなってしまう。せめて友達に戻れるなら‥などという今の私の愚かな考えも夢のまた夢の話になる。


「お姉ちゃんどうしたの?大丈夫?」

「こんな雨の中大丈夫ですか?‥凄く具合が悪そうね。救急車呼んだ方がいいかしら‥?」

「‥‥‥‥え?‥ああ、すみません。大丈夫です。ありがとうございます」


 気がつけば、私の様子を心配した親子が私に傘を差しかけてくれていた。こんなにも至近距離に来るまで気づかなかったのか。辺りを見渡すと、もう日も陰り暗くなり始めていた。


 こんな所でこれ以上長居する訳にはいかない。今みたいに親切な人にまた迷惑を掛けてしまう。


 私は声を掛けてくれた親子にお礼を言ってから、ゆっくりと立ち上がりフラフラと歩き始める。


 自宅まではそう遠くはないが、グチャグチャなままの頭の中と自分の物と思えない重い身体のせいで随分長く感じた。


 家に帰るとお母さんに酷く心配されたけど、何も話せる訳がない。シャワーをもう一度浴びた後、自分の部屋に戻りベッドに勢いよく飛び込んだ。


 顔を洗って多少はスッキリすると期待したが無駄だった。部屋に入ると優斗とな思い出の物が至る所に散りばめられており、心臓が強く締め付けられる。目にする度に涙が溢れてきて、否が応にも自分の気持ちに気付かされる。


 私‥こんなにおかしくなりそうな程優斗の事好きだったなんて‥もっと早く気づいていれば‥過ちを犯さずに済んだのかな‥?


 始まりは確かに、友達の悪ノリに付き合った嘘告だった。良くも悪くも友達が多かった私は仕方なくそれに付き合って‥それでも話しているうちに彼の優しくて一途な所に惹かれて‥あんなに仲良く喧嘩も数えられるくらいしかしてこなかったのに‥。気づいたら中学の時は私の方が、その友達が引くくらい優斗はいい人だって力説してたっけ。


 それなのに‥いつから私は変わったんだろうか。いつから優斗の優しさに不満を持つようになったんだろうか。どうしてその時に直接言わなかったんだろうか。もっと触れて欲しいと素直に言えなかったんだろうか。


『お前は一体‥誰なんだ?本当に俺の知る瑠奈か?一体瑠奈に何があった?何故そこまで歪んだ‥?』


 あの時優斗が私を見る目は異物を見るようだった。

 

 そもそも何で裏切ってしまったのか。中学では優斗とバカップルぶりは有名だったし、付き合ってからは告白される事はなくなった。


 きっかけは些細な普通のよくあるありふれた話だった気がする。


 高校に入学して新しい人達と出会って‥一方的に入学当初から翔くんに口説かれた。クラスの皆も翔くんの事をカッコいいと言うから、くだらない優越感に浸って何だか嬉しくなって。こんなにアイドルみたいな顔した男子に告白されるのは初めてだったし、一度だけ優斗に黙ってデートをしてしまった。ほんの軽い気持ちのつもりだった。


 今思えばそれが全部駄目だったのだ。


 私は良くも悪くも昔から友達が多い。「やっぱり男子は優しいだけじゃ駄目」やらを散々聞かされてきた私は、優斗ももう少し強引だったらいいのにな‥と思い始めてきた時だった。


 最初は翔くんはとても紳士的だったけど、会話を重ねるに連れて印象は変わっていった。一途で優しい優斗とは全く違うタイプ。初めてのデートから凄く強引で、そのデートでは勿論断ったけどその日からとにかくしつこく翔くんは迫ってきた。全然手を出そうとしない優斗とは違って積極的で新鮮だなって思い始めて‥それで言いくるめられて‥それから‥‥。


 ベッドでうつ伏せになったまま、指一本動かす気になれない私の元に電話の着信音が鳴った。


 もうありえないのに‥あさましくも優斗からかなと僅かな期待を抱いてしまう。


 電話の着信は翔くんからだった。


「‥もしもし?」

「おお瑠奈、それでどうだった?」

「どうだったって?」

「今日影山と仲直りしに行くって言ってたじゃねえか。で、ちゃんと仲直りできたんだろうな?でないと面白くねえ」

「‥フラれちゃった。別れようって」

「は?」


 電話越しなのについ涙声になってしまう。私のそんな声に、翔くんは何故かプッと吹き出した後突然笑い出す。まさか笑われるとは思わなかった。


「お前マジかよ!?散々保険扱いしておいて、実はまだ好きだったってか?」

「‥‥‥」

「でもまあその様子じゃハッキリと別れを切り出されたみたいだな。チッ、影山とお前が付き合ったままの方が卒業式でお楽しみが出来たのによ。最近アイツ超ムカつくし絶望させてやりたかったのに。‥たく、お前は使え――」


 彼が言い終わる前に私は電話を切っていた。


 何故私はこんな男の為に、私は一途に私を想ってくれていた優斗を裏切ったのだろう。何故こんな男に――伊集院翔に気を許して身体を預けてしまったんだろう。憎しみすらも覚えてしまう。


 本当にごめんなさい‥‥優斗‥‥


 優斗の痛みはこんな物じゃなかった筈だ。私が一方的に深く傷つけた癖に、今頃になって優斗がかけがえのない大切な存在だったと気づくなんて。


 全部私自身のせいだ。


 だけど暫く私はここから動けそうにない。

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