四幕 俺が知らない君。
通帳の右端の数字が少しずつ減っていく。
小さい頃から親戚の人数が多く、臨時収入を得てはこの通帳に格納して、出撃に備えていた。
ガキの頃から欲がなく、例えば俺はゲームが欲しいと思わなかった。
おもちゃは自分で探すタイプだった。ボールが一つあれば、四肢を使って様々な遊びを考案した。併せてバットを使って、擬似ゴルフを楽しんだりもした。
家族は欲がない俺を心配することもあったが、探究心で遊んでいる俺に安心していたようだった。
それ故にお金は増え続けた。
俺は今、俺が貰ったお金を親が使っていないことに感謝していた。
何故なら中学時代の友人は、それで相当愚痴をこぼし、ある者は溢れさせていたからだ。
安定して稼げない身でありながら、その貯蓄は夢喜を喜ばせることに使うためにあったのだと確信した。
夢喜との時間を作るために、無理を言って一ヶ月の休暇を貰った。
個人経営の店で融通が効いたのだろう、夏休み限定でバイト禁止校の生徒が何名かシフトに入ることも加味され、許しを得られた。
生まれて初めてできた、好きな人と電車に乗っている。
その人は、この世界から引っ越さなければならないのだそうだ。
今はそのことを、ひっそり胸ポケに隠している。
彼女の希望で一緒にいられることが、たまらなく嬉しかった。
だが、もしかすると思っても、俺はそれを口に出してはいけないと決めている。
君が幸福を感じながら寝られるようにするために、俺は君の寝室を一晩中守り続けようと思う。
「日桜くん」
「なんだ?」
「何考え込んでるの?」
「・・・どういうことだ?」
「日桜くんは考え事してると、遠くを見てるから。わかるの」
「そうだな・・・考えてたよ」
ゆらゆら揺れる電車。朝六時という早い時間帯で、会社員もそこまで多くない。夢喜の過ごした地では、夢喜のことを知っている人が沢山いることだろう。
「夢喜」
「なあに?」
「楽しみか?」
「・・・そうね。久しぶりだもんね」
夢喜の顔は、美しく飾られた人形のような微笑みだった。
住宅地が増えてきたなと感じた頃、目的の駅に到着した。
改札を出ると、これから学校に向かう学生、会社員がちらほら見受けられた。俺は先導する夢喜の後を追うように歩いた。元々住んでいただけあって、道に迷うことはなかった。
だが、あまり夢喜はテンションが高くはないと思った。
俺が調子に乗っていただけならいいのだが。
「夢喜、一体どこに向かっているんだ?」
「・・・中学校」
夢喜の母校ということに違いない。何か思い出があるのだろう。旧友に会う前に、わざわざ早く出発して行くほどなのだ。
「ここ。私がこの間まで通ってた中学校」
いい意味で普通の中学校だった。七月下旬、朝七時。俺たちと同じく、夏休みに入っているようだった。人気はまだなかった。
「なあ、どうして中学校に行きたかったのか。聞いていいか?」
「そうね・・・私、あんまりここにいい思い出ないの」
「なんだって?」
わざわざ来たのだから、何か涙を誘うような青春エピソードがあるのだろうと思っていた。
だが、内心では夢喜にはそれが適用されない
「私の病気が判明したのって、小五の時って言ったじゃない?」
学校の周りをフェンス沿いに歩きながら、夢喜は話す。
「私が病気であったことを当時の先生に打ち明けたら、クラスの皆んなに打ち明けるように勧めてきたの。私はあんまり乗り気じゃなかったんだけど」
夢喜は続けた。
「皆んなは心配したし、ママ友もママを心配してくれた。それだけなら、よかったんだけどね」
夢喜の顔が暗くなるのがわかった。
「嫌なら話さなくてもいいんだ。聞いた俺が悪かったから」
「別に、今は踏ん切りついてるし。それに・・・日桜くんには、私のこと少しでもわかってて欲しい」
学校に隣接する公園の、ブランコに座った。ここから中学校のグラウンドを、全体的に眺めることができた。
夢喜の横顔を見つめる。どんな綺麗な人にも、その瞳の奥には苦悩があるものなんだな。
静かに「わかった」と言うと、夢喜はそのまま続けた。
夢喜の抱える病気は極々稀なものであること。
故に病気に関する情報が少ないこと。
誰かが変な噂を流すこと。
それで虐められたこと。
夢喜の病気は人に移るのだそうだ。
勿論、嘘で証拠も何もない。誰が言い出したのかも、わからない。
最初は
病気が移るなら机触るなよって話だよねと、夢喜はケラケラ笑い飛ばすが、俺は笑えなかった。
ある時には机の周囲に塩が撒かれたそうだ。
私は汚れているんだろうかと、初めて母親に相談した。
その時のことをしっかり覚えているらしい。「おかあさん、私きたないの?」と言うと、母親は黙って夢喜を抱きしめたそうだ。
「酷いという言葉で表すのも生温く感じるな」
全身がアツくなる。
「小学生なんて思春期で多感でまだそういうとこの管理がなっていない生き物なんだし、そんなもんなのよ」
「でもよ・・・これは聞いてる俺も辛くなってくるよ」
最終的に保護者会で説明が行われ、担任教師からクラスメイトらは指導を受けたそうで、それ以来ピタッと虐めは消えてなくなったそうだ。
担任教師は夢喜と夢喜の家族に謝罪し、事は収束を迎えた。
でも、それでも、消えないものもあるだろうな。
「それからは大丈夫だったのか」
「まあね、だからってそいつらと、仲良くなったわけじゃないけど」
人間は未知の存在を恐れ、拒否する。
ブランコから立ち上がり公園を出る。気づけば、夢喜の旧友に会いに行く時間がもうすぐだった。
「日桜くん。私嘘ついてた」
夢喜は振り向きながら笑った。
「本当にうつっちゃうんだよ」
「夢喜が苦しまずに済むのなら、うつってもいいかもな」
夢喜の苦しみを知らない故に、それは言ってよかったものかと直ぐに思った。
でもその苦しみを本当に理解するには、それ以外の方法を俺は知らなかった。
「日桜くん。それは駄目だよ」
すまないと言いかける。
「日桜くんは、何があっても死んじゃいけないよ」
思わず下を向く。夢喜の気持ちの核心。待ち受ける運命に対する覚悟のようなものが、俺にはまだ理解できていない。理解したくても、とてもできない。したくない。
まだ先を生きられる人間には、未熟な俺には、夢喜を本当に理解する事はまだできないのか。
そう思うと、自分に腹が立ち、もどかしくなり、そのまま夢喜を見るしかなかった。
「さ、いこう」
立ち尽くす俺に、夢喜が手を差し出す。
小さく綺麗な君の手を握ってみる。
歩き出す夢喜。
風と戯れる黒く美しい髪。
なんで君はそんなに冷静でいられるのか。他人を気遣う余裕が、なぜあるのか。
温かい手に、静かに問う。
その温かさは、忘れられない大いなる安らぎと、消えない小さな寂しさを覚えさせた。
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