【06 不穏な噂と影男】
油汚れが染み付いた換気扇の下で、ブロック状になった肉を鍋に落とす
厨房から見える店内では、前田が愛想よく客に惣菜を売りさばいている
今日の朝、前田はいつもと変わらぬ笑顔で出勤時したのだ
「ねえ、前田」
私は厨房からヌッと顔を出して聞く
「休んでるとき、なにしてたの?」
「変なことを聞くね、白波さん。
あたしは休んでなんかいないよ、従業員が休日以外に休むわけがないじゃん」
彼女の長い手足が狭い店内をうごきまわり、器用にガラスケースに商品を補填する
ぽっかりと空いた部分に新しい、ラベルに書かれた商品を手際よく詰めていく
作られたそれは、同じ種類同士ではほとんど見分けがつかない
「ところであたしさ、カメラを始めようと思ってんだけど白波さん良い電気屋知らない?」
前田のことを話すと、少年は「ふーん」と気の無い返事をした
「前田って人が水路に落ちたってのは多分正しいよ。VMRに食べられて、工場で作られてまた戻ってきたんだ」
「なんて?」
「VMR VodyMemoryRecord。水路を泳ぐ魚達のことさ」
私は水路を泳ぐピラニアの鋭い歯を思い出す
「彼らは食べた生き物の遺伝情報を記憶して、工場にある機械と共有しているんだ。総菜屋の前田が欠けたからコンピューターに保存された情報から前田をロールバックして補填したんだよ」
チカチカと電灯が断末魔を挙げる。そろそろ変えてやらなきゃ
「工場で記録されている前田の最後の記憶は、きっとカメラを始める前だったんだね。工場の記憶も万全じゃないVMRとの連携がうまくいかない時もある」
「君のロールバックに僕がいないように」少年がうつむいてつぶやく
「ねえ、じゃあ前田のカメラって残ってるかもしれないよね」
私は少年にたこ焼きを差し出しながら聞く
これは職場の隣の店で買ったもので、うまいと評判だ
もし阿賀座の言う通り、彼が写真を撮っている最中になにかアクシデントにあって水路に落ちてしまったのだとしたらカメラが残っているはずだ
「それを見つけてどうしたいの、君は」
少年は爪楊枝で刺したたこやきを360度訝し気に眺めてからパクッと口に入れた
「これ中身たこじゃないじゃないか!」
「中のフィルムを現像して、前田に渡したら何か思い出したりしないかな」
少年は難しい顔でたこやきを咀嚼しながらじっと考えこんだあと、「無いね」と言ってそのあと「でもやろう」と続けた
次の日、私は仕事を休んだ。お金はある
少年は私が服屋のワゴンで買ったデニムにブルーのシャツ、灰色のスニーカーを履き手にはカメラを掬うための網を持ち準備万端といったいでたちだ(下着もちゃんと買ってきた)
私たちは連れ立って無言のまま水路に沿って歩く、VMRと呼ばれたピラニア達は、今日も藻とゴミの間をすいすいと泳いでいく
アーケードからは濁った雨水が生ぬるいアスファルトにしたたり落ちてくるので
私は肩から下げた水筒に雨水が付かないよう、ステップを踏んで雨漏りを避ける
「あてはあるんだよね」少年が私に問いかけてくる
「うん、前田の家の近くの公園に向かってる」
「理由はあったりするの?」少年がとてとてと私に小走りで追いついてくる
「前田が戻ってきてもまた写真を撮りたいって思うのには多分理由があって
その公園はちょっとだけ空が見えるって噂があるから
前田はきっとそれを見て写真を撮りたいって思ったんじゃないかな」
「そうか、それはありそうな理由だ。…君は空を見たことは?」
「ない」
「そっか」少年は頭上を覆うアーケードを仰ぎ見る
私も彼に倣って目線を上げる。どこまでも続く鉄パイプとトタンとアーケード
その上になにがあるのか今まで思いを巡らせることはなかった
「空ってそんなにいいものなのかな、カメラなんて高価なものを買おうと思うくらい」
少年は私を横目で少し見てから少しためらって「目の前の瞬間を永遠に残しておきたいと思うことは、誰にでもあることだよきっと」と言った
「さあついたみたいだね」少年が指を前方にさす
そこには半円のドームで天井が覆われた、薄暗い小さな公園が待っていた
ぼさぼさに伸びた雑草を足で分け、水路のそばにカメラらしきものがないかを探す
「それっぽいものあった~?」「ない!」
平日の正午前に響く声、生きている人は皆商店街の本筋で労働をしているのでこんな時間にこんな場所にいるのは私と彼だけだ
小さな泡のようなドームの中で、湿気にやられてへばりそうになる
張り付くシャツや髪がうっとおしい
「ここじゃないのかな」つぶやいてみたはいいものの言い出したのが私なので簡単にあきらめるのもなんだか面子がたたない
空なんて見えもしない曇りガラスの下で、気合を入れなおして首元の汗をぬぐう
公園をぐるっと取り囲む水路まで雑草をかき分けて進む
ここ数日の雨で水量は増加気味で、水路内の段差はゴミだまりになっていてドプンドプンと不気味に空き缶やプラスチックパックを押し戻す
ここをかき分けたらカメラがあるかもしれない、そう思って私は少年の網を借りるために振りかえって思わず息を殺す
公園の入り口ビルとポールの境目に男が立っている
彼はフードのついた長い上着を着ていて、まるで影のように存在感がない
街に張られた半透明の切り絵のようだ
私は音をたてないように背の高い雑草に身を隠した
男からはなんだか尋常でない雰囲気を感じる
視界の隙間から少年を探すと、彼は男に気が付いていないようで背を丸めて遊具の下を探っている
何事もなく帰ってくれと男に願う私の思いも虚しく、男は少年に近づきその首に手をかけた
「ウワッ」少年が驚愕して叫ぶ
瞬間白昼の悪夢のような光景に私は弾かれ立ち上がる
咄嗟のことに声が出ないまま、男の影のような腕を掴み引きはがそうとするけれど大して背は変わらないはずなのに力の差がありすぎて私じゃびくともしない
まるで人の腕とは思えないほどに硬い
焦る、頭に血が回らない、でもらちが明かないことは分かる
私は男から離れ、持っていた水筒を遠心力を使って力の限り男の頭部めがけてスイングする
バキャッ 頭蓋に金属がめりこみ嫌な音がした
男はよろめき頭を押さえ、後ろに後ずさる
私はせき込む少年に駆け寄り、背をさする。男の顔を見上げるとフードの中は服と同じ黒いフィルムのような半透明の靄が広がるばかりの空間だった
なにもないそこからポトポトとどす黒い液体が沸いては砂に染みていく
男は少年を一瞥した後踵を返し、頭を殴られたせいで右に偏った奇妙な走り方をして角を曲がり消えた
後には私と、脱力してしまった少年と、血痕が残された
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