【05 永らくぶりの邂逅】
ダンダン!!!叩かれ続ける扉
私は店長の巨体とその手に光る肉切り包丁を思いだした
やっぱり横領を問題にして追いかけてきたのかもしれない
冷や汗が首筋を伝う
トアの濁ったガラスの覗き穴から恐る恐る覗いてみると、ぼんやりと赤い髪が見える
私に赤毛の知り合いはいない
恐怖に混乱が上乗せされ、私は思案する
いまここで逃げようにも窓の外は下はピラニアが蠢く用水路、上は頑強なアーケードだ
何より今地下の収納を開けないでおくという選択肢は私にはなかった
絶対にこの私が開けなくてはという、蝶が飛び立つ前のような澄んだ予感があるのだ
よし、誰だか知らないがきっと階を間違えたに違いない説明して帰ってもらおう
私は意を決してドアを開けた
「会いたかったよ!!!白波!」
廊下には全裸で両手を広げ、満面の笑みを浮かべる少年が立っていた
彼の笑顔には一点の曇りもなければ、抱擁を疑う陰りもない
鈍い赤毛の下に満点の喜びをたたえる
頭を埋め尽くした疑問符の中、喉の奥から絞り出す
「申し訳ないんだけど、あの、どなたでしょうか?」
「冗談言わないでよ白波、僕だよ、僕!」
「本当に、分からないの。君はビルを間違えているんじゃない?」
「そんなわけないよ、だって君は303号室に住む人だろ。じゃあ白波だよ間違いない
僕、君にずっと会いたくて言いたいこともたくさんあって
君とまた会えたらやりたいことや、行きたいところも考えてたんだ」
指を順に丁寧に折りたたむ少年の肩からピンクのジェルが滴り落ちる
段々と私は罪悪感に心が齧られていく
全裸の男が目の前で私にとっては意味不明の言動をしているのに、あまりにもいたいけすぎる
まるで私が悪者のようだ
私は頑張って肺に空気を取り込み、できるだけ丁寧に伝える
「ごめんなさい、私はあなたを知りません」
少年の目が見開かれて、灰色をした瞳の瞳孔が収縮を始める
「裸はまずいからさ…これ着なよ
私ので悪いんだけど洗濯はしてあるから」
結局あの後廊下で少年は泣きじゃくり始め、この世の終わりのように踞ってしまったので
私は近所迷惑を恐れ、彼を部屋の中に招き入れることにしたのだ
えんえんとバスタオルを抱き締めて泣く彼に私は部屋着の薄いワンピースを渡す
一着くらいジーンズを買っておくべきだったかなどと思ったが、そもそもこの状況を想定することなど不可能なので後悔をやめた
彼はまだ涙を流しながら、よろよろと部屋着に袖を通した
私は電子レンジでひしゃげた惣菜をチンして、散らかりまくった机を諦め彼と私の間の床に皿を置く
「君は本当に、本当に僕を知らないんだね?」
「知らない、ごめん」
割り箸をハデに割るのを失敗したがまあいいだろう、と少年に渡す
彼はそれをじっと見つめた後、私に問いかける
「君の一番最初の記憶はどこ?」
「私の記憶?」
「うん、君が覚えている一番古い記憶だよ」
困った、私はあまり記憶力のいいほうではない。そもそもこの生活も漠然とした繰り返しでさして覚えていることなどない
そう伝えると、それでもいいと返ってきたので軟骨を摘まみながら私を振り返る
惣菜店で雑に料理を作る、暗い商店街の家路を辿る、プレートに刻まれた私の名前
それが私の覚えている全部
そう告げると、彼はまた涙を溢した
私は惣菜の残りを窓の下の用水に捨て、我先にと群がるピラニアを背に改めて床下の扉と向き合う
金属製の扉は思っていたよりも重い
コツをつかみかねて悪戦苦闘していると、少年が部屋の隅からやってきて手を貸してくれた
2人で無言で持ち上げる、永久凍土の蓋
幾何ぶりに開かれたそこには丁寧にゴムで縛られたかなりの数の札束と、小さな臙脂色の巾着袋があった
「すごい、何百万円あるんだろう」
私は思わず膝をついてのぞき込む、札束のうちの一つを手に取り
お札をパラパラと数えながら自分の給料袋の薄さを思い出す
これだけ貯めるには、一体何年、何十年とかかるだろう
少年は、私の隣で巾着袋を大事そうに抱えて立ち尽くしている
「これは、白波が貯めたんだ」
「私?」
「君じゃない、君の前の白波やその前のずっと前の白波がこれを貯めてきたんだ」
そう言うと少年は、巾着袋を握りしめてただ天井を仰いだ
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