第二話【怪奇を見つめよ】


 黄昏時。少し遠くから、夕刻を告げるチャイムが聞こえる。

 朱色の門の奥に密集する店先にポツポツと明かりがつき始める。暖簾をくぐってそぞろと往来に出てくる人影の中に、朱門あもんもいた。


 自分の背丈と同じくらいの護身用の棒を手に持ち、腕を組んで店の柱に寄りかかる。薄く瞼を開いた目は、開店準備を進めるそれぞれの店の人間たちを見つめていた。用心棒の朱門が、それに加わることはない。するとそこに、朱門の元へ近寄ってくる男がいた。動き始めの花街に早々はやばやとやって来る客は少ない。こういう時は大抵、店側の人間だ。


「朱門じゃねぇか。久々だな、元気か?」


 無精ひげを蓄えた男は、花街の中でも男を売っている店の人間だった。


「ぼちぼちだよ。わざわざこっちの通りに、なんの用だ」

「そうカタいこと言うなよ」


 男はそう言って、朱門の顎を掴んで持ち上げた。二人の視線が絡まった矢先、朱門は手慣れた様子で男の手を棒で叩き落とす。


「ああ勿体ない。その顔なら、どっち相手にしたって今でも稼げるのに。お前をもっと早く買い取っておけばな」

「気持ちの悪い男だな、相変わらず。……店が開く。とっとと帰れ」


 叩かれた手をぶらぶらさせながら、男はもう一本隣の往来につながる路地に姿を消した。道行く人をしばらく眺めていた朱門だったが、やがて主人と入れ違いに店の中へ引っ込んだ。


「おい、朱門、どこに行く?」

「どうせまだ客も来ないし、中に戻ります」


 玄関に棒を投げ出す。「すぐに戻れよ」という声に片手を上げて応え、朱門は店の中をずんずん突き進んだ。朱門は女郎の太鼓持ちを卒業した人間なので、もう座敷に上がることはない。今の朱門の仕事は、店の前に立って妙な客を追い払うことと力仕事、あとは、まだ客を取らない見習いの少女の話し相手などだ。

 店の奥で暇そうにしている少女たちを見つけ、朱門はその部屋に邪魔をした。童話の本を手渡され、読み書きを少し教えながら読み聞かせてやる。遣いに回された女郎が朱門を呼びに来たのは、童話の中身が終盤に差し掛かった頃だった。


「朱門。あんたに客だってさ」


 戸の前に立った女郎がくっと親指で後ろを指し示した。


「俺に客?」

「わあ、朱門もお客さん取るようになったの?」

「ばか言え、俺は用心棒だぞ。客は取らない」

「なんでも良いけど早く行きな。旦那だんさんが相手してるから」


 本を置き、朱門は部屋を出ていく。残った少女が、口々に女郎に問いかけた。


「ねえさん。朱門のお客さんってどんな人だった?」

「もしかして、結婚を申し込みに女の人が来たとか……!?」

「わたしも詳しくは知らないよ。ただ、えらく顔の良い、金を持ってそうな男だったよ。あとは……そう言えば、朱門と顔が似てたかも」





 朱門の目の前には、怜悧な面立ちの、洋装の男が立っていた。朱門が来るなり、店の主人はこの男によって部屋から追い出され、今ここには二人しかいない。

 男はじっと朱門の顔を凝視し、自分の顎に手を当てる。


「なるほど。確かに似ているな」

「……俺に用があると聞きましたが、お客さん、何かご用ですか」


 朱門は男に座るように促し、お互いに向かい合ってソファーに腰掛けた。


「まず、お前の名を聞きたい」


 名前もろくに知らないのに用があるのか、と朱門は内心思いながら名乗った。それを聞くと、男は片眉を上げる。


「アモン? もしかして、赤い門で朱門あもんか。安直だな」


 この花街のトレードマークと言えば入り口の門だ。朱門の名前は、聞けば確かにある程度の出自が窺えるだろう。しかし無感情に言ってのける男に、朱門は神経を逆なでされるような心地悪さを感じた。名前を尋ね返すと、男は辻屋つじや廉介れんすけと名乗った。


「早速だが、朱門。お前は自分の出生について、どれくらい知っている?」

「俺の? ……花街の入り口に捨て置かれていたことぐらいです。もっとも、母親はこの店の元女郎だと、俺もみんなも思ってますが」


 辻屋はそこまで聞くと、「そうか」と言って再び朱門の顔を見た。一度瞬きを挟むと、ひじ掛けについた片手ともう一方を結んで目線を窓に投げる。


「では、俺の話をしよう。俺の産まれた家は代々祓い屋という稼業をしている。拝み屋、占い師と呼ばれることもあるが、その仕事の実態は妖退治だ。花街でも、そういった話は耳にするだろう?」

「……ああ。まあ大抵、ここで占い師を名乗る客は女郎の手を握るために言ってますがね」

「それについては何も言わないでおく。ところで、俺は長男で下に弟妹きょうだいはいないんだが、実は弟がいるらしくてな。昔、俺の父親が花街の女を孕ませたそうだ」

「そうですか」

「ある日この店の名前を言って、身重の女が訪ねて来た。腹の子の認知を迫られたが、追い返したらしい。その女郎は数日後、川から遺体で上がった。しかしその時すでに、女郎の腹に赤子はいなかったんだ」

「……」

「お前は母親を知らない。父親のことも知らないんだろう。父である男がどんな人間で、自分を産んだ後の母がどうなったのかも」

「俺はそんなこと、別に知りたいとも思わなかった」


 辻屋によって畳みかけられる事実を、朱門は振り払った。女を売る店には鏡が多い。朱門は自分の顔をよく知っている。上背はあるが線の細い面立ちで、それ故に男を相手にしないかと声をかけられることが多いことも分かっていた。今は、自分とやや目鼻立ちが似た男と目線を交わしている。その意味が、辻屋の話すことの真意が理解できないわけではなかったのだ。


「俺はこの店の姐さん方に育ててもらいました。血のつながりはどうだっていい。ここはそういう場所です」

「そのというのは、一ヶ月前この花街で死んだ薊という女郎のことか?」

「……、そうです」


 朱門は返事に詰まり、うなずく。

 薊が身請けされた日。嫁入りするはずだった日。あの日から一ヶ月経った。今でも朱門は、死にゆく薊の身体の冷たさと、流れる血の生暖かさを忘れられないでいる。

 おのずと顔を下向けた朱門に、辻屋は話を続けた。


「今この花街の至る所で怪奇現象が起こっていると聞く。接待中にひとりでに扉が開く。人魂がさ迷っている。階段から突き落とされる。客が消える……その中の一つに、というものがある」


 固く握られた拳がテーブルを叩き、ひどい音がした。朱門は奥歯を噛み締め、目の前の男を睨みつける。


「馬鹿にするのも大概にしてください。姐さんはもう花街を出たも同然の人だ。そんな与太話に、姐さんの名前を面白半分で出すな」


 獣が唸るような剣幕で凄む朱門を、辻屋は大して驚いた様子もなく静観する。やがて腰を折り、上半身を屈めて囁いた。


「本当に、ただの与太話だと思うか?」

「……なんだと」


 辻屋は顔をそらし立ち上がる。


「祓い屋の観点から言わせてもらうと、今言ったすべてのことは、あながち単なる噂だとも言い切れない。ここは花街だ。もっとも盛んな時間は夜。数多くの者が春を売り、男女が欲のために交わる場所だ。先の薊の銃殺のように、愛憎劇の果てに人死にが出ることもある。そういう場所は集まりやすい」


 ソファーのそばに置いた荷物と上着を手に取り、辻屋は朱門に背を向けて身支度を始める。


「今回の話、すでに怪我人も出始めている。早々に解決しなければ、その女郎は恨みのために悪霊となって浮世に留まっていると更に噂が広がるだろうな。それでは彼女も報われないだろう」

「つまり、何が言いたい」


 応接間の扉の前で、辻屋はくるりと踵を返した。


「一緒に来い、弟。お前に俺と同じ血が流れているなら、祓う力を持っているはずだ」






 宵の頃になり、往来は活気づいていた。


「言っときますけど、俺は妖なんて一切合切見たことありませんよ」


 朱門は辻屋の隣に並び、客と呼び込みで賑わう往来を案内していた。聞き込みをしたい店と人間がいくらかいるらしい。


「基本的に人とはそういうものだ。幼少のみぎりは視えていても、成長するうちに視えなくなる。おおよその人間はな」

「あなたは違うんですか」

「専門家が視えなくてどうする」


 一つ目の目的地に到着した。朱門の店と同じような娼館だ。


「失礼、旦那さん」

「おや、あもんかい。珍しいね、どうしたよ」


 どう用件を伝えようかと朱門が思案したとき、横から暖簾を割って辻屋が入ってきた。


「失礼。連絡した辻屋です。お話を聞きに馳せ参じました」

「あ、あんたが祓い屋のつじやさん。ああどうぞ、上がってください。すぐにうちのと話してきますので」


 息子とおぼしき男に案内を命ずると、主人は店の奥へ駆けていった。いぶかしがる様子もなく、とんとん拍子に話が進んでいる。朱門は横の辻屋を胡乱な目で見やった。


「……俺がいなくても、聞き込みは十分できるんじゃないのか」

「地理が分かる人間がいた方が早く済む。それに俺は、お前の祓い屋としての力の有無を確かめる必要があるから誘っただけだ。応じたのはお前だろう」


 そう言って辻屋は一足先に案内を受ける。朱門は腹に据わらない思いを抱え、その背中の後を追った。

 案内された先は、先ほどのような応接間などではなく、女郎が普段の生活に使っている座敷だった。怪奇現象を目撃してしまったらしい女郎は、薄手の下着の上に浴衣を軽く着込んで二人の訪問に応じた。


「その人常連さんで、姿が見えたから迎えに行ったんです。そしたら上ってきたばかりの階段を、急に転げ落ちていって……」

「段を踏み外したとか、誰かとぶつかったとかではなく、突然落ちていったんですね?」


 辻屋の問いに、若い女郎は顔を青くしてうなずく。


「何もいなかったのに、なにかに引っ張られたみたいに倒れたんです」


 次の聞き込み相手は、そこから数件行った店の女衒ぜげんの男たちだった。


「オレらは活動の時間がまばらだから、その日は帰りが朝でな。正直寝ぼけてはいたんだよ」

「おめえ酔ってたもんな」

「うるせぇ!」


 大口を開けて笑う男たちに「それで」と辻屋は先を促す。


「ふらふらーっと便所から戻って来たら、向こうの店の提灯がまだ点いててよ。そしたら日が昇ったばっかの時間だってのに、白い服着た女が立ってたんだよ。着てた服ってのも着物じゃなくて、洋服な。あれはドレスだった」

「それは本当か? 朝もやに影がかかって人影に見えたとかそんな話じゃないだろうな」


 後ろに控えていた朱門が怪訝に口をはさむと、話していた男は色めき立って反論した。


「イヤ! あれは確かに女だった、間違いねぇ! そのあとその女が提灯を地面に落としたせいで、ボヤ騒ぎになったんだからな!」


 数日前、この男が言う通り明朝のボヤがあった。幸い怪我人もおらず損傷も少なく済んだが、朝を迎える頃には消える提灯の火が、どうしてこの日は生き残っていたのかと街の人間がそろって首を傾げたのは記憶に新しい。

 他の男たちがうなずく中、一人の男が合点がいったように朱門を指差した。


「というか、祓い屋の兄さんと朱門が一緒にいるってことは、あれは本当に死んだ薊が化けて出たんじゃ――」


 言い終える前に朱門が男の胸倉を掴み上げる。

 男は朱門の獰猛な眼差しに真正面から射すくめられ、開きかけた口をつぐんだ。


「姐さんをつまらない噂話の肥やしに使うな。直近で死んだのが姐さんだからそう言ってるだけだろ!」


 今にも噛みつきそうな勢いで吠えた朱門の肩を、辻屋がぐっと押さえつけるように掴んだ。


「萎縮させるな。彼らの言うことには、根拠となる要素がある」

「根拠? どこに根拠が」

「お前が言ったんだ。『直近で死んだ』のはお前の姐さんだけなんだろう。それは彼らの証言が、ただの酔っ払いの戯言に終わらない十分な根拠になる」


 ──それから二、三軒の店を回り、客の話や従業員の噂を聞き込んでいれば、とっくのとうに日が暮れて街は夜の顔になっていた。

 ぱた、と手帳を閉じる。


「だいぶ集まったな。ひとまず今日の所は失礼させてもらうぞ。明日も来るから、主人によろしく伝えておいてくれ」

「帰るんですか?」

「そうだが」

「聞き込みをしただけで、まだ何も分かっちゃいないですよね。花街はこれからがなんです、残っていったらどうですか」


 腑に落ちないといった顔をして調査の続行を呼びかけた朱門だったが、辻屋は胸元を漁りながらキッパリとNOを示した。


「いや、断る。闇雲に探して答えが見つかるわけでもない」


 ジャケットから取り戻したタバコの箱に、ちらと目をやる。……薊が吸っていたのとは別の銘柄だ。彼女が好んでいたものよりももっと高価で、もっと苦い。


「ずいぶんゆっくり仕事をするんですね」

「焦りが失敗を生む。特にこの仕事はな。……なんだ、そんなにこの兄と離れがたいか?」


〝前ならえ〟を指示されたように、辻屋が朱門に顔を向けると同時に、朱門は不快感をあらわに顔をそむけた。

 ギュウ、と眉間にしわを寄せ、遠くを睨みつけている。なかなかに凄みのある表情だった。

 今さっき冗談を言ったとは思えない無表情を崩し、辻屋はタバコを挟んだ指でこめかみをかく。


「そのノリの悪さでよく太鼓持ちなんてしていたな。調査を続けたいのなら、お前がすれば良いだろう」

「俺が? 一人で?」

「一人を不安がる年でもないだろう。字は書けるな? 帳面を貸すから、好きに書き留めておけ。ではまた」

「え。あ、ちょっと!」


 手渡された手帳を咄嗟に受け取ってしまったせいで、呼び止めるのが遅れた。錆利休色さびりきゅういろに形取られた肩が、スイスイと人の波を泳いで見えなくなった。

 二度まばたきをする間に姿を消した辻屋を、朱門はしばらく目で探していたが、やがて諦めた。

 手帳を懐にしまい、店の中へと戻る。

 朱門には朱門の仕事があるのだ。






  仕事と言っても、そう毎度無体を働く客が現れるわけでもないので、用心棒は大概ヒマだ。


 店の内側で玄関口に座り込み、朱門は来店した客に声をかけることにした。店の主人に怪しまれるといけないので、隙を見つけては短時間で忍んで聞き込みをした。


「え、怪談?」

「そう、怪談。なにか知らないか? この店じゃなくても、花街の中でのことだったらなんでも構わない」

「そうだなぁ。ま、ないこともないが」

「聞かせてくれ」


 懐から取り出した手帳を開き、鉛筆を当てる。客の男は朱門の手元を眺めながら、記憶の糸をたぐりつつ話しだした。


「これは怪談というより噂なんだが、この花街には『誰もたどり着けない店』があるらしいと聞いたことがある。ある男が街を歩いて女を見繕っていると、まるで見たこともないような豪勢で華やかな店に行きついたらしい。そこの女郎たちにそれはもう派手にもてなされ、翌朝どころか、帰ったのは三日後だとか」

「結構なことだな。支払いの額が恐ろしいことになりそうだ」

「よほど天国だったんだろうよ。ただ恐ろしいのはこの後だ。その男は帰って来たその日に死んだらしい」


 紙の上に黒鉛の文字が刻まれ、ぴたりと止まる。どことなく胡乱な目をした朱門を相手に男は肩をくすめた。


「偶然だと思うんだろう? だがそいつだけじゃない、他にもその店で好待遇を受けた連中は、相次いで死んでったんだ」

「それだとさすがに事件扱いになりそうだが……」

「ところがどっこい。死んだ奴らはみんな同じ場所の同じ名前を話すんだが、いざ行ってみると、そんな店はまるで影も形もない! 確かめようにも当人たちは死んじまってるから、結局噂だけが残ったってわけさ」

「なるほど。誰もたどり着けない店、というより、誰もたどり着かない方がいい店、だな」

「はは、ウマイな」


 ひと通り内容を書き込んだページの上部に、『誰もたどり着けない店』とタイトルをつけて閉じる。手元から顔を上げれば、男は改めて不思議そうに小首を傾げた。


「にしてもなんで怪談なんか集めてるんだ? 皆目見当もつかないが、なんか目的でもあるのかい」

「……この手の話を聞くと、うちの女たちが怖がるから。先に手を打っておこうと思って」


 祓い屋の義兄――認めたわけではないが血縁には違いない――に協力して、調べて回っていると素直に伝えれば店の信用に関わる。ほほお、と男が相槌を打った。言ったことはあながち嘘でもない。朱門は心の中で言い訳をした。


「熱心だなあ。なら、今の話はちょっと的外れだったか」

「いや。集まる情報は多いに越したことはないから、助かった」

「そーかい。ま、『誰もたどり着けない店』なんていうのは噂もいいところだがな。すぐに死んだっていうのも、三晩かけて搾り取られちまったからだ、って……」


 不意に黒いものが袖をかすめ、背後を通り抜けていったので、客と朱門はそれを振り向いた。思わず目で追いかけてしまうほど、それはやたらと黒く、巨躯で、それでいて細かったのだ。枝のような身体を揺らし、それは吸い込まれるように店の奥へと続く廊下に消えていった。二人はそれを呆然と見送ったのだが、驚いたのはそれにだけではなく、同じ空間で代金をめぐって押し問答をしていた主人と客が、まるで気にも留めなかったことにあった。互いを見つめる目線が移ろいさえしなかった。


「なんだ、今の。あれも客か?」


 背中を見送った男がぽつり。朱門は首を横に振った。


「いや、無断立ち入りだ……。すみませんねお客さん、協力どうも」


 会釈を残し、黒い客を追って店の奥へと引っ込む。

 狭い廊下は、照明が照らされて明るい玄関から覗き込むと、四角に切り取られた深い闇が延々続いているように見えた。その真ん中をゆらりふらふら歩く黒い背中に「待て」と声を投げるが、歩みは止まらない。朱門はわざと雑な足音を立てて暗闇へ立ち入った。不審な客である。が、酔っ払っているのか左右に小さく揺れながら歩いているその客に追いつくのはすぐだった。


「待ってくれお客さん、その先は勝手には──」


 確かな力で背中を押された、と刹那、理解した。


「うおっ……!」


 思った以上の衝撃に、朱門は踏ん張ることができず、客の着物を掴もうと中途半端に伸ばした手をそのまま、前につんのめってしまった。ああ、酔っ払いとはいえ客相手に粗相を──朱門は客の上に倒れる覚悟を決めた。しかし手に感じたのは着物の布地ではなく、ぬるりと液体に指が沈む不可解な感覚。不思議に思う間もないまま床に倒れ込んだ。


「……? は、」


 硬い床に受け止められ、すぐに上体を起こす。

 朱門は目を見張った。

 下敷きにしたはずの客がいないのである。

 次いで背後を振り返るが、廊下はがらんとして人の気配がない。確かに誰かに押されたのだ。あの感覚は間違いない、と声にはしないまま唇だけを動かした。きょろと辺りを見渡すが、狭い廊下。誰もいないのなら誰もいないのである。朱門は渋々立ち上がり、懐から転げ落ちてしまったらしい手帳を拾い上げ、玄関へと来た道を戻った。



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