夜の心地

一野 蕾

花の散る街 編

第一話【徒花の朱に交われば】


 その街は夜に満ちていた。


 明朝から昼にかけてはぐっすりと眠ったように静かな街。夕刻のチャイムで子供が家路を急ぐのと同時に、目覚める街。

 愛憎と、一晩の夢と、積み重なったたくさんの諦めの上に成り立つ、大人の夜遊びのための街。

 それが花街だった。


朱門あもん。ちょっとおいで」


 鮮やかな着物の袖をたくし上げた、白魚のようにまっさらな腕が手招きをする。

 床の間の上の金魚鉢に餌をやっていた青年は、己を呼ぶ女郎の声に振り向いた。

 朱門という名のついた青年は少年期を過ぎたばかりの歳で、精悍な顔つきの中にまだ幼さを残している。


「なんです、あねさん」

「いいから。ちょっとおいで」


 金魚の飼い主は何故だかとてもにこやかに笑っている。青年はしぶしぶ腰を上げ、女郎のそばに膝をそろえて座った。

 鏡台の引き出しを開ける。化粧道具が敷き詰められた引き出しの一角にひっそりとうずめられた包みを手に取ると、女郎は手の中でそれを広げて見せた。


「これは……」


 布の端をめくって現れたのは、銀色の輝きをまとった懐中時計だった。

「あんたにあげる」と、女郎はそっと玉のチェーンを摘まみ、銀の蓋に目を奪われている朱門の両手に乗せる。「ありがとうございます……」とぽそりと礼を呟いた朱門に、女郎は髪をすきながら笑った。


「少し前にね、あの人にねだったの。あたしの太鼓持ちをしてる子どもに最後の土産を渡したいって言ったら、一緒に買いに行ってくれた」

「一緒に……と言うと、二週間くらい前の日ですか」

「こら。細かいところを詮索しないの」

「すみません」

「贈り物は素直に喜びなさい。あたしからあげられるのは、それが最後なんだから」

「喜んでます。とても」


 朱門が手の平の懐中時計を軽く握り込むと、不意に女郎は、壁にかかった純白のドレスに目をやった。このウエディングドレスは彼女が身請けされ、この花街を出ていくその日に着る衣装だ。窓から漏れ出す傾きかけの日の光に照らされて、ドレスはひだの上にキラキラと細かな模様を浮き出し、ことさら美しかった。

 朱門はドレスから目線を外し、女郎を見る。自身の花嫁衣装を見上げる横顔は、彼の一番古い記憶からさかのぼっても、相変わらず綺麗だ。夜になれば客を誘うための色香をまとわせ、気だるげに瞼を開き、唇に紅を引くこの女は、今はすっぴんで、その面には純粋な、浅い憧れが表面に浮き出るような幼さを宿しているように見えた。

 懐中時計に再び目線を落とし、懐にそれをしまう。


「……俺からも、何か用意すれば良かったですね」

「それなら、後で菓子でも買ってきてちょうだい。店の人に見つかっちゃ駄目よ?」

「そういうことではなくて。なにかこう、餞別になるようなものを、俺からもあげられたら良かったのにな、って」


 と、朱門が顔を俯けるので、女郎は顎に手を当て、しばし逡巡した。逡巡したが、笑って手をぱっと離した。


「要らないわ。しいて言うなら……最後の日も、あたしの太鼓持ちをしてね。花街を出る瞬間まで」

「それは……もちろん。元からそのつもりですから」

「それが一番嬉しいわ」


 何ともなさそうに言葉を投げかけると、女郎は化粧道具を広げて鏡と向かい合う。話は終わった、という合図だった。朱門は懐に──そこにしまった懐中時計に触れ、鏡の中の女郎を見つめた。


「姐さん」

「んー?」

「今回の身請け、本当におめでとうございます。今までお世話になりました」

「改まっちゃって。今日もまだ仕事があるんだから、あんたも準備なさい」

「姐さんがこの店で育ててくれたから、俺は男娼にならずに生きてこれた。俺は姐さんの太鼓持ちができて、幸せでした」

「……あたしもよ」


 女郎はそう答えるときだけ目を伏せた。

 朱門は客の子どもを孕んだ、この店の女郎が産んだ子だ。――と、皆思っている。詳しい出自は分からない。その女郎が身重の体で店を出て行った数日後、花街の入り口に捨てられていた子どもを朱門と名付けた。母親の姿はなかった。あの女郎が客とともに新しい人生を歩み始めたのか、その為に子どもを捨てたのか。生きているのかさえ定かではない。

 女郎は一度瞬きをして、鏡越しの朱門を見つつ白粉をまとわせ始めた。


「あたしがいなくなったら、あんたはどうするの? 花街を出たってイイのよ。きっと外でもやっていける」

「俺は用心棒にでもなります。女郎を護る仕事なんて、座敷の手伝いと身の回りの世話より楽ですからね」

「口の減らない子どもねほんと。そう、他の太鼓持ちをするつもりはないの」

「俺も大きくなりましたから。そろそろ芸事より荒事、できるようにならないと」

「男って。少し前まではあんなに小さかったくせに、大きくなるとこれなんだから」

「はいはい」


 投げやりな返事をして朱門は立ち上がる。

 女郎は軽やかに笑って、また化粧に取り掛かるのだった。


 それから日は暮れ、夜を呑み、朝に眠る日常が二日続いた。


 そして、その日は訪れた。


「あの、俺が着飾る必要ってあるんですかね」


 座布団の上に正座をした朱門が、ちんまりと背を丸めた。後ろで髪を梳いていた女郎がその背を叩いて咎める。


「必要に決まってんだろう、あんたはあの人の太鼓持ちなんだから。立派な姿、最後に見せてやるのも恩返しよ」

「はあ」

つらだって悪くないんだから、しゃんとしな」


 髪を整えられながら、目線を胸元に下ろす。

 いつもの着物ではなく、今日の朱門が身につけているのは真っ白なシャツと薄墨色のベストだ。


「なにも洋装じゃなくても……」

「なによ、案外悪くないわよ?」

「動きづらい」

「ばぁか。ほら、背中丸めない」


 渋々ながらぴしりと背筋を伸ばす。

 朱門にとって、身体にぴったりとまとわりつくような洋装は、まるで動きを制限されるようで着心地が悪かった。四肢の自由が効かず、こうして座っている間にも身動ぎしてしまう。その度、身支度を手伝っている女郎に咎められ、胸に下げた懐中時計のチェーンに触れて気を紛らわせた。

 髪をあつらえられている間にも、開け放した襖からは女郎たちの賑やかな声が漏れ聞こえている。廊下の先にある部屋では、本日の主役が支度をしているはずだ。

 朱門の脳裏に、ここ数日毎日見てきたあの純白のドレスがよぎった。単体で飾ってあるだけでもうんと綺麗なあれが、今頃袖を通され、内側に人の肉の膨らみを宿しているだろう。

 かたん、と音がして、朱門は振り返った。首を動かしてから、また叱られるかも、と思ったが、物音の正体は女郎が櫛を置いた音だったので、朱門の頭は解放された。


「はい、これで上出来でしょう。自由にどこにでも行っていいわよー」

「ありがとうございました」

「はいはい。……あっちもそろそろ支度が終わったんじゃないかしら」


 道具を片付ける女郎に礼をして、そそくさと部屋を出に行く。「忘れもん!」と投げられた背広の上を受け止め、朱門の足はまっすぐに、姐のいる部屋へと向かう。部屋はすぐそこにあるはずなのに、なぜだかうんと遠くに離れているように感じた。両の脚にまとわる布や、喉に沿う襟のせいだろうか。

 

あざみの姐さん」


 件の部屋に到着した――が、そこには道具を片付けている女郎や、見習いの少女たちがいるのみだった。部屋の中央に佇む白い後ろ姿を想起していた朱門は、がらんとして忙しそうな室内に肩透かしをくらう。


「あ。朱門だ。洋服だ、かっこいいね」


 見習いの少女の一人が朱門に気付き、その珍しい恰好に目を輝かせる。


「なあ、姐さんはどこに行ったんだ? ここで支度してたはずだろう」

「うん。ついさっきまで着つけてたわ。朱門と旦那だんさんに見せてくるって言って、出て行ったのよ。会ってないの?」

「なるほど、そういうことか。俺と旦那さんが一緒にいると思ってるんだな、あの人は」

「すっごく綺麗だったよ。はやく行ってあげて。本当に本当に、綺麗だから」

「分かった。ありがとう」


 上着を腕の中で丸め、階下へ続く階段へ足を差し向けた背中を、

「朱門」

 少女が呼び止めた。


「およめさんって、素敵だねえ」


 予備の仕事部屋の入り口で、見習いの子はあどけなく笑う。朱門はその光景の赤とも白とも似つかわない美しさに目を細め、そうだな、と微笑みを返した。





 店の中は、当然浮き立っていた。結局詳しい居場所までは知ることができなかったので、通りすがりの者たちに本日の主役の行方を尋ねて回りながら、朱門は賑わいの隙間を縫っていく。答える者答える者、みな口をそろえて「綺麗だった」と話す。朱門は背広の窮屈さも忘れて、純白のきらめきの足跡を辿った。一階で店の主人と落ち合っているものと思ったが、どうやら済ませて、もう別の場所に行ってしまったそうだ。相変わらずお転婆な女だと、主人は呆れていた。


「もしやと思って、来てみたものの。なにも本当にいることないのに」


 出立を控えた花嫁は、かくして私室にいた。

 人気の女郎にのみ与えられる私室は、これまた専用の仕事部屋をまっすぐ通り抜けることでたどり着く。

 床の間の前に座布団を敷き、そこでゆったりとタバコをふかしていた。ほ、と桜色の唇から吹かれる煙は、緻密に織り込まれたドレスの白よりずっと重たそうな白濁の色をしている。


「あれだけ大切に扱ってたくせに、直前になって吸うなんて。臭いがつきますよ。せっかくの晴れ着に」

「だって、思っていたより窮屈なんだもの。普段通りに扱わないと馴染まないったらないわ」


 薊の言葉に、ふと胸を触れた。着せられてからずっと違和感を感じていた洋服だったが、姐を捜し回っているうちに堅苦しさも感じなくなっていた。適当に畳んだ上着も、それはそれで朱門に似つかわしくなったように思う。

 仏頂面で黙った、普段と見違えた太鼓持ちを眺めながら、女郎はまた紙タバコに口をつける。鉢の中の金魚は、飼い主の様子を真似るように悠然と泳いでいた。


「それ、似合ってるじゃない。いつもよりずっと男前に見えるわよ」

「動きづらくてかないませんよ」

「いいじゃないのよ。あんたはあたしの太鼓持ち。あたしに合わせてちゃんとおめかししてもらわなきゃ、見合わないじゃない」

「……まさか姐さんが、俺にこれを?」


 半信半疑――疑の割合多めで問えば、にっこりと笑みを見せた。朱門が分からなかったなぞなぞの答え合わせをするとき、よくしていた顔だった。


「あの人に言ったら揃えてくれたのよ。急ごしらえの安物って言ってたけど、これだけ似合うなら十分だわね」

「前から思ってましたけど、ダンナさま、姐さんの頼みに寛容すぎませんか」

「イイヒトよね。ふーっ」

「うわ、ちょっと、俺にまで臭いがつくだろっ」


 吹きかけられた紫煙に足元をばたつかせる朱門を、薊はカラカラと笑う。


「あはは! ねぇ、朱門。あんた、あたしがいなくなったら物静かなやつになっちゃいそうよねぇ。だめよ、つまんないだけの男になっちゃ。一生面白い子のままでいてよ」

「なにが面白い子だ……。寡黙な男はイイ男、じゃありませんでした?」

「うふふ」

「笑って誤魔化さないでください」


 じっとりと両目を横ばいにする朱門を見上げ、薊は笑っている。薊は唇の厚みが薄い女だ。笑うと唇が内側にひっこんで紅が見えなくなる。短くなったたばこを咥えるたびに現れる桜色が、裏表とかえりながら舞う花びらのようだ。


「いやね。あたしはあんたに勿体ないことさせたくないのよ。あんたはちゃんと、どこでもやっていける子なんだからさ。花街なんかでまともに育ったんだもの。自慢していいのよ」

「どこで自慢するって話ですよ……」

「外に出たって、あんたなら平気ってこと。一緒に門の外へ行ったっていいのよ。あたしと一緒に。ここを出てね」


 畳の目に落としていた目線を上げれば、ふいと背中を向けられた。


「姐さん」


 窓枠に肘をかけた薊は応えない。ふう、と口をすぼめて、目は恐らく花街の入り口――赤色の大門に注がれている。似たような瓦屋根の群れから突出した、朱を塗っただけの簡素な門が、外界と花街とを隔てている。晴天の今日この日、高く広がった蒼穹の次にあの門は眩しく見える。

 雲が流れ、部屋が陰った。


「そろそろ行きましょうかね。迎えの時間だわ」


 ジュ、と火種を潰した。腰を上げた女郎に合わせ、太鼓持ちはそそくさと襖を開けに向かった。

 髪を撫でつけ、裾をたくし上げながら歩き出す。隙間を縫うように差し込んだ日差しをくぐり、再び影へと入る。

 そこで、空気を鋭く、素早く、火花を散らして叩く音がした。

 耳馴染みのない音を連れた鉛玉が薊の側頭部をえぐる。瞬間的に与えられた衝撃で大きく傾いた体は壁に激突し、頭が打ち付けられた。噴き出した血が跳ね回り、泥が崩れ落ちたように倒れる。力を失ったまま倒れた人間の重みが加わったとき独特の、どんと重い衝撃が畳の上を跳ねた。

 ほんの数秒、背を向けた間に、事件は起こった。

 朱門が振り返った時には既に、薊の身体はうつ伏せに転がっていた。


「――――な、にが」


 思考が止まり、脳が警鐘を鳴らす。

 呼吸を詰めた朱門はつぶさにそれを観察してしまう。急速に視野が狭まっていく。うす暗くなった部屋のあちこちにしがみつく赤色が暗く浮き上がる。ドレスの下で微動だにしない脚。乱れた髪の隙間から溢れ出す真新しい体液。すべてが平面上に見える。ただ、たばこの臭いを打ち消すほどの濃い血のにおいが、これを現実だと叫んでいた。

 倒れ伏した薊の肩が軋み、朱門はようやく金縛りから解放された。


「姐さん!!」


 崩れ落ちるように膝をつき、薊を抱きかかえる。どこからか悲鳴が聞こえた。怨嗟の声も聞こえた。人の足音と騒ぐ声がせめぎ合うが、この部屋の中だけは静かだった。


「あねさん、あねさん、薊の姐さん。なんで、どうして、血が、なんでこんな!」


 怒号。それをたしなめる声が返ってくることはない。

 腕の中がじっとりと濡れていた。生の暖かさを宿した血を吸って朱門のシャツが染まっている。反対に薊自身は熱を失っていく。削れた頭に手を添え、朱門は呼びかけ続けた。閉じられた瞼が開くことはない。目を閉ざした虚空の顔面に、赤が流れている。呼吸がない。今そこに華々しく咲いていた命がこぼれていく。

 頭の芯が熱を持って痛み、目元へと降りて来た。溢れ出しそうになる苦しみをこらえようとして、こらえきれず、背が丸まっていく。


「姐さん……、起きてください……」


 バタバタと人が部屋に駆け込んできた。店の主人や、他の女郎が口々に喚きたてたが、耳には入ってこない。


「なにがあった」「撃たれたのだ」「なんてこと……!」「やったのは薊の客だった男だ、外で捕らえた」「なぜ誰も気づかなかった、銃を持っていたんだぞ!」「そんな物騒なモノを持ってるなんて思わないだろう!」「起きろ、薊!」「あざみ!」「あざみ!!」


 皆が純白の裾にしがみつくなか、朱門は、目頭をしかめたまま一人首を振った。

 

 その日、花街を去るはずだった花が、花街で散った。





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