第42話 ルシファー様、思い出す

 小学校に入ったばかりの頃だ。その日俺は、アスモデウスに手を引かれ同級生の家へと連れられて行った。


「この度はお宅の大事なご子息に怪我をさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」


 いつものメイド服ではない黒いビジネススーツに身を包み、彼女は同級生の母親に深々と頭を下げていた。


「……ごめんなさい」


 だから俺も彼女に遅れて頭を下げる。内心では自分が悪いなんて何一つ思わずに。


「貴方、黒井くんの母親? 随分と若いのね」


 小太りのどこにでもいるような中年の母親は、アスモデウスを見るなり嫌味を飛ばした。


「違います……ただの使用人です」

「そう、いいご身分なのね……お手伝いさんに頭を下げに来させるなんて」


 表情を崩さず、下げた頭を動かさず。それでも拳を強く強く握りしめて。


「……返す言葉もございません」


 大事な家族をいじめるなと食ってかかりたくなったのを覚えている。けれどそれをしてしまえば、彼女の我慢が無駄になる。その程度はガキの俺でも理解できた。


「悪いけど、帰ってくれないかしら? あの子、黒井くんの顔見たくもないみたいだから」


 少しは向こうの溜飲が下がったのか、それとも初めから追い返すつもりだったのか。どちらにせよこの話はここで終わりを迎えそうだった。


「そりゃあうちの子だって悪い所はあったみたいだけどさ」


 もう一度頭を下げ直し、無言で俺達は玄関を出ようとした。


「殴りかかって来たその子の事……悪魔みたいだって言ってたわよ」


 その背中に不躾な言葉を浴びせられる。まだ小さかった俺の手を、彼女が強く握ったのを今でもよく覚えている。






 少し遅れた夕食を、じいさんも含めた三人で囲む。いただきますの変わりに俺の口をついたのは、未練がましい言い訳だった。


「……あいつがわるい。ちっちゃい子をいじめてたから」

「で、気付いたら殴っていたと」

「だから僕、わるくない。わるいことなんて、してないから」


 打算もあったのだろう。家族なら俺を褒めてくれるんじゃないかって。良いことしたな、間違ってなかったなって言葉が欲しかったんだ。


「いやツバサも悪いぞ?」


 けれどじいさんは味噌汁を啜りながら当然の言葉を俺にくれた。


「あったりまえじゃ、相手ぶん殴って怪我させたんじゃ悪いに決まっとるじゃろうが」


 今ならまあそりゃそうだよなって思えるが、当時の俺は納得なんて出来なかった。


「じゃあ、あいつはわるくなかったの?」


 悪いやつをこらしめた。だから良いことをしたんだ。そういう単純な図式だけを頭の中に描いていて。


「いやそいつだって悪いぞ。小さい子を虐めてたんじゃからな」


 じいさんは首を横に振る。


「えっと、どっちかがわるいなら……どっちかが正しいんじゃ、ないの?」


 どっちも悪い、どっちも正しい。生きていれば嫌というほど経験する問題にぶち当たるのは、その時の俺には初めてで。 


「良いですかツバサ」


 普通の親なら、家族ならどうやって諭すのだろうか。


 未だにわからないけれど、流石は我が家は秘密結社アルカディア、話のスケールが一々巨大だ。


「人は皆、どこかで何かを間違えているのです」


 アスモデウスが静かに答える。


「全てが正しい人などいません。誰も何かを間違えて、誰もが誰かに恨まれています。ですが」


 少しだけ彼女が笑う。遠い日の理想を懐かしむように。


「きっと人の理想とは、それを是とする事なのでしょうね」

「わるいのに?」

「ええ。人類の愚かさを……悪を肯定する。きっとそれが」


 人が人として生きられるというのは、そういう事なのだろう。当たり前だ、各々が好き勝手生きてりゃ問題だらけだ。


「あの方の思い描いた、唯一の『正しさ』なのでしょうね」


 けれどそんな自由で問題だらけの日々を愛する事が、俺達が掲げる旗なのだから。


「よくわかんないよ、そんなの」


 それを理解するにはあと十年ほどかかる。気をつけろよ、ガキの俺。あと殴ったそいつとは意外と仲良くなったりするから、人生なんてそんなもんだ。


「そうですね、それがわかった暁には」


 もう一度彼女は微笑む。けれど過去を思い出したからじゃない、いずれ訪れる未来を願って。


 まぁその未来って奴は。




「世間に向けて、盛大にお披露目でもしましょうか」




 どうせみんな、配信で見てんだろ?



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