一瞬

一瞬

　彼女は、一瞬で別の人間と化す。

　談笑していたかと思いきや、他者が発した冗談が気に入らなかったのか、その人間に飛びかかると、歯が抜けるまで殴り続けた。

　愛の告白をされたことが嬉しかったのか、人目を気にすることもなく、眼前の人間と身体を重ねたこともあった。

　友好的でありながらも一瞬にして物騒な人間と化し、行動を予測することができないことから、何時しか彼女の周囲からは人々が消えるようになった。

　その孤独が気に入らないのだろう、彼女は険しい表情を浮かべるばかりで、どのような笑みを浮かべていたのか、思い出すことができないほどだった。

＊＊＊

　彼女と再会したのは、学生という身分を失ってから数年ほどが経過した頃である。

　最後に目にしたような険しい表情ではなく、そもそも何の表情も浮かべていなかった。

　どのような時間を過ごせばそのような顔つきと化すのかは不明である。

　今でも一瞬にして態度が変化するのかどうかも私の知るところではない。

　成長したために、さすがに少しは落ち着いただろうと考える一方で、私は身構えながら彼女に声をかけた。

　彼女はしばらく私の顔を見つめた後、学生時代の知り合いだということを思い出したようで、私の名前を呼んだ。

　私が首肯を返すと、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。

　私のような人間に対してもそのような態度を見せるとは、どうやら彼女は他者との交流に飢えているらしかった。

＊＊＊

　彼女いわく、自身の性格に問題があるのだと気付いたのは、学生という身分を失ってからのことだった。

　会社で関係を迫ってきた上司を拒否した翌日に首を言い渡された彼女は、怒りのあまり眼前の上司を殴り、蹴飛ばし、会社の窓から放り投げた。

　然るべき機関に拘束された彼女は、其処で己が感情を制御することが出来ていないということを伝えられた。

　彼女には自覚が無かったものの、過去の出来事を振り返っていくうちに、段々と己の異常さに気が付くようになった。

　それから彼女は、感情を制御するための訓練を繰り返した。

　完全に制御するまでには至らなかったが、なるべく他者と関わることを避けることで、不完全さを補うことに決めたということだった。

　ゆえに、彼女は自宅で作業することが可能な仕事をしているらしい。

　一人で作業するのならば、上司や同僚と揉めることはないからだ。

　その選択は誤っていなかったらしく、ここしばらくは感情の爆発を経験していないようだった。

　己の欠点を見つめ、より良い状態と化すように努力するその姿は、見習うべきものである。

　それでも、私は彼女の機嫌を損ねることがないように、言動に細心の注意を払っていた。

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　再会して以来、時折彼女と茶を飲むようになった。

　彼女が何時豹変するかどうかが不安だったために、彼女との時間は気が休まるようなものではなかったものの、嬉しそうな表情を見せる彼女のことを思えば、私の我慢も意味があるというものだ。

＊＊＊

　あるとき、取引先の男性から食事に誘われたと彼女に告げられた。

　だが、彼女は喜びよりも不安が勝っているらしく、その表情は明るいものではなかった。

　彼女が男性との食事の途中で感情を爆発させてしまった場合、これまでの努力が意味の無いものだったと落ち込んでしまうことになる可能性が高い。

　ゆえに、彼女を食事に向かわせることは避けるべきなのだろうが、彼女の将来を私が奪って良いものなのかと考えてしまう。

　彼女が男性との食事を望むのならば行くべきであり、望んでいないのならば行く必要は無い、ただそれだけだといえばそれまでなのだが、それほど単純な話ではない。

　ここで彼女が感情の爆発に耐え、男性との食事を無事に終了することができたとき、彼女のこれまでの努力が実を結んだということになるのだ。

　それは彼女が己の成長を実感することができるということであり、それが彼女にとってどれほど大きな意味を持つのか、私には計り知れない。

　そのことを思えば彼女の背中を押すべきなのだが、私にはそれが出来なかった。

　もしも彼女が失敗し、人生に絶望したとき、私までも責任感を覚えてしまうことになるからだ。

　他者の人生に対して、それほどまでの責任を負うことは、避けたかった。

　私は、極端に生きることを望んでいない。

　あまり波風が立たないように、できるだけ静かな生活を送りたいだけなのだ。

　だからこそ、私が彼女に対して告げる言葉は、

「きみの好きなようにすると良い」

　その言葉を最後に、私は彼女と会うことを止めた。

＊＊＊

　数日後、彼女がとある男性を殺害したとして逮捕されたという報道を目にした。

　飲料に睡眠薬を混入され意識を失っている際に襲われたことを知った彼女は、その報復として、男性を殺めたということだった。

　彼女は被害者であるが、同時に、加害者と化してしまった。

　彼女のことを思えば同情するべきであり、殺人という罪を犯したものの、彼女が完全なる悪人だと断ずることは出来ない。

　真の悪人は、私に他ならなかった。

　我が身かわいさに彼女を突き放さなければ、彼女が男性との食事に向かうこともなく、彼女が罪を犯すこともなかったのである。

　私は彼女の報道を目にしながら、頭を下げた。