第11話 転化
「母さん? 俺、明後日ちょっと用事が出来たんだけど――」
声を掛けながら階下へ降りると、ちょうど母が玄関のドアノブに手を掛けたところだった。
「あれ、どっか行くの?」
声をかけると、母は振り向いて体の前に保持していた紙ばさみを差し上げた。
「あ、ちょうどよかった。隆弘、あんたもこの署名書いてちょうだいよ」
「え? ああ。さっきの回覧板」
「そうそう。なんか早く集めた方が良いみたいだし。お父さんはどうせ帰りが夜だから、私が書いといたけど」
相変わらずだな、と苦笑いに頬がゆがむのを感じた。うちの両親は若い時からやたらとものの考え方が共通していて、意見が食い違うということもほとんどないのだ。
「……ついでに俺が回してこようか。暑いしさ」
「頼める?」
うんうんとうなずきながら、手近にあったボールペンをとって署名欄に名前を書き込む。
用紙の上の方には少し小さいサイズの紙にプリントアウトされた文書が重ねられていて、それによるとこの署名は教団施設の設置とそれに伴う用地買収に対しての、差し止め請求文書に添える予定であるらしかった。
「ありがとね。あ、そっちの用事ってのは?」
「うん。荒尾の『よしの窯』ってとこに伯父さんの……預け物が残ってるってことが分かってさ。取りに来て欲しいらしいんだわ」
「あら。どっからそんな話……去年のお葬式の前後には何も聞いてなかったけど。でも、ああ……吉野さんねぇ」
母はその名前に心当たりがあるらしかった。
「お父さんからのまた聞きだけどね、吉野さんってのは伯父さんの子供の時からの親友なんだって。何でも江戸時代から続く
「ふぅん」
「床の間に、素焼きのひょろ長い花瓶あるでしょ? あれも吉野さんとこでもらってきたんだったかな」
「あ、やっぱり?」
幼い時の記憶ではあったが、事実関係は正確だったようだ。
鉄分を多く含む赤みを帯びた粘土で焼かれたその花瓶には、粗めの地肌などに確かに小代焼きと共通する特徴があるのだが、焼成時の熱ムラか土の練りに不足があったのか、やや白く変化した部分があった。
それはどこか、衣服に隠されて日焼けせずに白く残った人肌を思わせる、奇妙ななまめかしさを感じさせるものだった――
「お父さんの話だと、窯はお店から山の中にずっと入ったところにあるって話だけど……あんた、そういうことだったらその話は香苗ちゃんにも通しとかないとまずくない?」
……確かに。伯父の遺品があるのなら、それはまず香苗に帰属すると考えるのが普通だ。
「そうだな、電話してみる」
香苗の都合がつくなら一緒に連れて行くか――そんなことを思案しながら家を出た。
「あっつ……」
カードの整理や電話をしている間に、時刻は既に午前十一時を過ぎている。大げさに言えば火にあぶられるような、肌を焼く日光が降り注いでいた。回覧板を回してくる、などということをうかうかと引き受けたのを少しだけ後悔しつつ、次の回覧先である古沢さんの家へと向かった。
四つ辻に面した塀の隅から、よく育った百日紅がしなやかな枝を伸ばしている。錬鉄製の門扉に手をかけて開けようとした、その時だった。
――右へ曲がります。ご注意ください……
そんなアナウンス音声と共に音量を絞ったサイレンを響かせながら、一台の救急車が通りに侵入してきたのだ。それは僕の後ろを通り過ぎて、ブロックの一番北側にある長野さんの家の前で停まった。
「げぇ……マジかよ。誰か熱中症とかかな……この暑さだもんなぁ」
そういえば、と食卓の会話で母から聞いた近所の噂を思い出す。長野さんの家にはそろそろ80歳近いお祖母ちゃんが同居していて、何かの病気で自宅療養中だとかいう話だった。
子供のころにこの近所の路上で遊んでいて、品のいい老婦人に庭先から声を掛けられ、皆それぞれに飴玉を貰ったことをふと思い出す。 あれが多分、そのお祖母ちゃんだったのではないか、と妙に懐かしい気分になった。
何にしても気になる。回覧板そっちのけで歩いて行き、救急隊の邪魔にならないくらいの距離から様子をうかがった。ストレッチャーに載せられて出てきたのは、遠目にもどうやら件のお祖母ちゃんらしかった。地味な色の寝間着と、銀線を束ねたようになった白髪頭が、毛布の陰からちらりと覗いている。
隊員たちはてきぱきとした動作で搬送の準備を進めていたが、一人が顔をしかめて再度家の中に駆け込んでいった。
――奥さん、すんません! 固定電話ば貸してください、無線がつながらんとです!
そんな声が聞こえた。
――どがんなっとっとか……こっで三回目ぞ、この近所でばっかり……!
(ああっ……)
ハッとした。帰省早々に僕も煩わされたあの電波障害。どうやら救急隊の無線などにも及んでいるのか。
――意識レベル下がっとる、間に合わんかも。
――とにかく、病院まで保たすっぞ……!
緊迫した様子の彼らを暗澹として凝視しながら、僕はその場に立ち尽くしていたが――ガサ、という音にふとそちらへ視線を向けた。
緑色の砕石を練り込んだモルタル塗りのコンクリート塀には、何か所かを大きく切り欠いて門扉と合わせた錬鉄製の鉄柵を入れてある。視線を完全に遮ってしまう事で庭が閉塞感を持つことを避ける工夫であるらしかったが――音は、その柵の向こうから聞こえた。
そして、庭の植え込みの中から奇妙にゆっくりとした動きで立ち上がった、白い人影を僕は見た。
それは、たった今ストレッチャーで救急車の車内に運ばれたはずの――記憶の中にある老婦人の顔をしているようだった。
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