今はもう、空にいない
冴吹稔
第1話 帰郷
駅から実家まではタクシーで二十分ほどかかる。最近バイパス道路が整備されたらしく、途中の道は奇妙に知らない風景に置き換えられていた。
高速道路の下をくぐって穿たれた短いトンネルを抜けると、ようやく三年前に見たのと大差ない、近所の公園が見えて来た。
冷房の効いた車から降りると、アスファルトで舗装された地面からムッとするような熱気が上がって来る。九州の夏はやはり暑い――家まではすぐそこだが、短い距離を歩くのさえかなり苦痛だった。
「ただいま」
玄関をくぐって奥へ声をかけ、上がり框に腰掛けて靴を脱ぐ。カレーの匂いが漂って来た。母お得意の、カレー粉をバターで炒めて作るそこそこ手の込んだやつだ。
「あら隆弘、もう着いたの? んもう、駅から電話くれれば迎えに行ったのに」
記憶より少し背の縮んだ母が、台所の入り口に掛けた暖簾をくぐって出てきた。大学入学のために家を出たのがつい昨日のようだ。
「いや、それがなんか、呼び出しても全然応答なくて……スマホ充電してる?」
母は眉をしかめると、エプロンのポケットから二年ほど型落ちのスマホを取り出した。
「ううん、昨夜充電して、まだ75パーは残ってるけど…… あー、固定電話にかけてくれればよかったわねえ」
「え、まだそんなもの使ってんの? 年寄りだけの家にはリスクにしかなんないって」
つい軽口をたたくと、さすがに母がちょっと嫌な顔をした。
「まだそんなこと言われるような
語尾の方は半笑いになる
「……お帰り。今年は帰ってくれてホントに良かった」
「うん、エポナも大体治まったみたいだしね。いやホント、大学
――スコットランドの泥炭地から掘り起こされて世界中にまん延した、不妊ウイルス感染症の流行もようやく下火になっている。幸い僕は感染せずに済んだし、ワクチンも普及しつつあった。完全終息まではまだ油断がならないが、そろそろ大丈夫だろうという事で此度の帰省が実現したのだ。
「そうね……あんた、少しやせたんじゃない?」
「そうかな。実は三キロくらい増えちゃってるんだけど」
「あらま」
そんなこと言われたらあんまり食べさせられなくなるじゃない――と母が笑う。
荷物を下ろして手洗いうがいを済ませ、自室で着替えてからリビングに戻る。冷やした麦茶がタンブラーに注いであったのを一気飲みしてすこしむせた。
リビングの、僕が座っている位置からはちょうど、実家のささやかな庭が見える。レースのカーテン越しに見ると、庭木の幾つかが少し大きくなり、むき出しの地面からは夏草が伸びていて、記憶の中にある風景よりもだいぶ薄暗く感じられた。
(ん?)
その庭を横切って通る何かを見た気がして、僕は目をすがめてカーテンの向こう側を凝視した。ほんの一瞬だったし、目の粗い薄布に邪魔されて細部は分からない――だが、確かに今、何かを見た。
猫とかではなさそうだ。庭木との対比からすると、たぶんサイズは大型犬くらい。白っぽい色をしていたようだが、シルエットの輪郭が奇妙に不明瞭だったと感じた。もっと詳細を見極めようと窓に近づいたときには、そいつはもう窓ガラスで切り取られた視界の、ずっと外側へ去ってしまっていた。
(何だろ、今の……)
気のせいや目の錯覚ではなかった、と思いたい。すこし考えた後、検索してみようかとスマホを取り出し、ロック画面をスワイプしてブラウザを起動させる――
「ありゃ?」
モバイルネットワークがつながらない。電話回線のアンテナ表示も棒が一本しか立っておらず、送受信状況はよくなさそうだった。もしかして――
「母さん。もしかして、うちって携帯繋がりにくい?」
上京前とは電波環境が変わっている、とかそんな感じかも知れない。それなら、両親が固定電話を残しているのも納得できた。
「そうなのよ。ここ一年くらいなんだけど……固定電話残してて正解だったわ」
「キャリア会社はなんて?」
「調査してくれたけど、道路工事の影響かも、ってくらいしか分からなかったのよね……なに、なんか調べたいの?」
僕の手元の画面を見て、母が言った。
「お父さんがパソコンをノートにしたから、うちの中はWi-Fi使えるようになってるよ」
「早く言ってよ」
苦笑しながら自動検出の設定を切り替え、実家のネットワークにつなぐ。とはいえ、さっきの曖昧な体験は、どうにも検索語を絞り込めるような感じではなかった。
結局そのまま夕食まで、僕はお気に入りの動画チャンネルで、頭だけの二次元キャラクターが歴史についてのマニアックな知識を解説するシリーズを見続けた。
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