第9話 ニィト ~はじめての~2

 俺の様子を見守っていた母――ケィヤと呼ばれる女性が、状況を察したらしい。


「*******ニィト、****。**********♪」

 ケィヤは俺を大事そうに抱え上げ、台の上にそっと寝かせた。

 手際よく赤子服を脱がせ襁褓を解き、俺が出した“もの”を見て、頭を撫でながら心底嬉しそうに言う。

「******、*****!*****~」


(これ、絶対に褒めてるよな!?褒め殺し過ぎるだろ!)

 漏らして褒められるというのは、前世で経験した覚えがない。


 想像してほしい。

 四十路も過ぎて大きいのを漏らして、それを自分よりずっと若い女性に後始末してもらう。しかも都度、大げさに褒められる日々というものを。

 身動きが不如意な人や寝たきりの老人なら仕方ないが、こちとら意識の上ではまだそこそこ元気な中年だ。


 更に受け入れがたいことに、情けなくて恥ずかしくて堪らないのに、ケィヤに尻を拭いてもらうのは何とも安心するし心地よいのだ。


「***************、********!」

 そんな俺の心を知らないで、父――ハロワィが俺が出した“もの”をのぞいて、心底喜んでいた。



 俺にとって、筆舌に尽くしがたい時間が終わった。羞恥に火照る顔とは対照的に、綺麗に清拭された尻が涼しい。


 ケィヤは取り替えた襁褓おむつを桶に入れ、扉へと向かう。襁褓に残された固形分を外に捨てた後、洗濯するためだろう。

 今は水も温む気温とは言え、毎日の洗濯が重労働であることくらいはろくに家事経験のない俺にも分かる。頬を撫でるケィヤの手が、その優しい仕草とは対照的に皮の厚い仕事人の手であることも、それを裏付けていた。


 俺はケィヤの後姿を見送りながら、前世の両親のことを思う。

(前世で赤子だったころの記憶は無いけど、多分お袋もあんな感じで俺を世話してくれたんだろうな…)


 俺が生まれた時代――“遠くなりにけり”と言いたくなるような、昭和の後期。

 紙おむつ自体は市販されていたが、まだ当り前に使われてはいなかったはずだ。

 だとすればお袋も、ケィヤのように布の襁褓を日々洗っていたのだろうか。


(最後にお袋に『ありがとう』つったのはいつだったかな…)


 戻ってきたケィヤが、不在のあいだ俺を見守っていたハロワィと交代して傍に腰掛ける。襁褓は外に干してきたらしく、持ってはいない。

 きれいに洗われただろうその手は、赤くなっていた。

 額を撫でる手の感触の優しさと冷たさに、俺は胸に込み上げるものを感じた。


 その感情がそのまま口をついて出た、というわけではないだろうが、トリガーになったことは間違いない。

 気が付けば俺は、ニィトとして初めて意味のあるこの世界の言葉を発していた。

「あ…い、が、と」

 それは、新たな両親である夫婦がよく口にしていた言葉。パートナーに何かをしてもらった時に、微笑みと共に必ず返されていた言葉だった。


「ハロワィ!ニィト********!!」

「******!?**、******?」

「*****、『ありがとう』******…」

「****ケィヤ*****『まんま』*******、*?」

 『まんま』は分かる。俺の食事…授乳、の前にケィヤが必ず言う単語だ。おそらく赤ちゃん言葉の食事、て意味だろう。赤子が最初に言う言葉の多くが、母親が使う食事を意味する言葉だそうだから、ハロワィは挙げたんだろうな。


 それにしても、二人ともかなり驚いているように見える。先ほど掴まり立ちした俺を見たときよりも、その度合いが大きいようだ。…もしかして、赤子ってのは生後百日ちょっとでは喋らないのだろうか。


「************…。ケィヤ、**************!」

「**、ハロワィ。************、********『***、*******、*』************!************!」

「「HAHAHAHA!!」」

 少し不安になった俺を置き去りにして何やら盛り上がった二人は、抱き合ってくるくると回っている。ガキの頃に見た、海外ドラマのワンシーンのようだ。


 その様子を見ていると、不安は雲散霧消してしまった。何を言っているか分からないものの、我が子の成長を純粋に心底喜んでいる親にしか見えないからだ。


 そして不安に代わって、俺は気恥ずかしさと嬉しさを同時に感じていた。

 自分の能動的な行いが、人にいくばくかでも喜びをもたらしたのは、随分と久しぶりのことだった。



 今世では親孝行するのも悪くない、か。

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