第3話 キララさん

 吉田ユリの自殺で学校中が大騒ぎとなった。

 下校時刻ということもあり、落ちる瞬間を目撃してしまった生徒も多く、泣き叫ぶ者、面白がってスマホを向ける者、それを見た教師の怒号、とにかく現場は大パニックだった。


 誰かが通報したのだろう、遠くから救急車とパトカーのサイレンも聞こえる。


 柚香は駆け出した。


 本来、こういった事故や事件の現場では、目撃者はその場に留まらなければならない。

 実際に教師もできるだけ多くの生徒をその場に集めようとしていたし、きっとこのあと目撃者には警察からの事情聴取もあるだろう。


 でも柚香はその場に居続けることができなかった。

 クラスメイトの突然の死にショックを受けたのはもちろんだが、何よりあの巨大な顔と目が恐ろしくてたまらなかったのだ。


 吉田ユリの顔がなぜあのように巨大化したのかは分からない。

 柚香にしか視えていないようだったし、「見て」と繰り返し聞こえていた声もおそらく自分にしか聞こえていない。


 落ちて動かなくなった吉田ユリの顔は元に戻っていたが、有り得ない角度に曲がった首は真っすぐ柚香に向いており、濁った瞳がじっと見つめていた。


 死してなお、「私を見て」と言っているかのように。



 最寄り駅まで走り続けた柚香は、急いで電車に駆け込んだ。

 空いている席に座って息を整え、スマホを取り出す。


 両親と限られた友人との連絡ツール以外に使われていないそれに、数件の着信とメッセージが届いていた。


 マナーにしていて気付かなかったが、どれも雅也からのものだった。

 部活で学校に残っていた彼も吉田ユリの自殺をすぐに知ったのだろう、柚香を心配して連絡をくれたのだ。


 メッセージには『吉田ユリが自殺した。お前が見ていないことを祈る』とだけあった。


『連絡ありがとう。残念ながら、目撃者です。でももう家に帰るから大丈夫』


 そう返信すると、数分も待たずにまた返事が届く。


『まだ学校?』

『今、電車の中。もう次で東N駅』

『そのまま真っすぐ家に帰れ。俺も今から帰るから、親父が渡したお守り離すなよ』


 『わかった』と返信し、柚香はいつも肌身離さず首から下げている勾玉型のお守りを制服ごしに触る。

 幼少期より異形の存在に脅かされ続ける柚香を見て、神主である雅也の父親が特別に作ってくれたお守りだ。


 それを身につけるようになって以降、視えたり聞こえたりといった事象は避けられないものの、物理的に何かされるという事がだいぶ減った。


 そのおかげで今の生活を送れているといっても過言ではないから、何かしら力の宿ったお守りなんだと思う。



 それにしても、吉田さんはなぜ自殺してしまったのだろう…。

 もちろん彼女の本当の気持ちは本人にしか分からないけれど、みんなに見てほしくてあんな事をするだろうか。何より、あの巨大化した顔は一体…。


 そんな事を鬱々と考えていると、電車が次の駅に停車した。


 東N駅。今朝、ここでも一人の男性が自ら命を絶った。

 顔も名前も知らない人だけど、柚香にはどうしても、なぜ死んでしまうの?という疑問が頭から離れない。


 みんな死んでも苦しそうなのに。

 死は救済でも何でもないのに。


 重い気持ちになりながら電車を降りると、体が固まった。ガチッと音がしそうなほど、一ミリも体を動かす事ができなくなる。

 立ったまま動けない柚香を、まるで存在自体が見えないかのように人々が通り過ぎていく。


 今まで乗っていた電車の扉が閉まり、通り過ぎていくのを背中に感じた。


 下を向いたまま顔も動かせずにいると、視界に女性の足らしきものが見えた。

 くたびれたパンプスらしい靴を履いた足とパンツスーツが見えたかと思うと、腰の部分がぐにゃりと動き、九十度に折れ曲がった上半身がすとんと落ちてきた。


 垂れ下がった頭を少しだけ傾げて見上げてくるその顔は今朝見た女性のそれで、紅く塗られた口が大きく裂けるかのようにニタァと笑った。


 今朝はよく見えなかったけれど、腫れぼったい淀んだ目は見開かれ、右側の耳はパックリ裂けている。

 キョドキョドと視線を動かす様子がどこか爬虫類を彷彿とさせて、それでもその瞳からははっきりと憎しみが感じ取れた。


 柚香が恐怖のあまり目を離せずにいると、その女は更に笑みを深め、口の端から血のような赤黒い液が垂れた。


「あんた、今日はやけに弱っているのね?いつもは聖女ぶって私を近付けさせてもくれないのにね。どうしたの?悲しい事でもあった?あんたも死にたくなった?そりゃあんただけ幸せな良い子ちゃんでいられるなんて不公平だものね」


 ごぶごぶと赤黒い液体を溢れされながら話すそれに、この人が本当に噂のキララさんなのだろうかとやけに冷静な頭が考えていた。


 油断していたわけではないが、自分で思っている以上に吉田ユリの死が大きなダメージとなっていたのだろう。

 普段なら雅也や千穂など誰かと一緒にいることで心を保つけれど、今日はあまりの恐怖に一人で逃げ出してしまった。


 そこに付け込んできたという事は、今朝よりもずっと前から自分を狙っていたのだろうか。


 もしこの女が本当に千穂の言っていた通りのキララさんだとすると、この折れ曲がった体は、血は、電車に轢かれた時の…。



 かわいそう。



 そう柚香が思った瞬間、目の前の女の顔が怒りに歪んだ。

 ぶわりと周りの空気が変わり、辛い悔しいといった感情が柚香の中に渦巻く。


「てめえに同情なんかされたくねえんだよ!私だって、頑張って頑張って頑張って、なのに要領いいだけのゴミクズ野郎が私の手柄を奪ったんだ!かわいそうだと?じゃあお前が死ねよ!代わりに死ねよ!お前も私と同じ苦しみを味わえ!不公平不公平不公平!死ね死ね死ね死ねーっ!」


 何で私だけが。不公平だ。私だって頑張ったのに。何であいつが。

 そんな感情がいっきに駆け巡ったかと思うと、女は歪んだ血だらけの腕で柚香を突き飛ばした。


 一瞬勾玉のお守りが弾いた気がしたが、柚香が弱っていたせいか、相手が強すぎるのか、体が後ろへ倒れるのを止める事はできなかった。


 女と対峙してどのぐらいの時間が経っていたのだろう、周りを認識できなくなっていた柚香は、まさに今自分が後ろから落ちようとしている線路に快速列車が向かってきているのをその時初めて気付いた。


 ああ、私も死ぬのかな。

 私も自殺ってことになるのかな。

 もしかすると他の人だって自分で命を絶ったんじゃないかもしれないな。


 本当は生きたかったのに、生きられるはずだったのに、死に引き寄せられて、流されて、間違って、死んじゃった人達。


 嫌だ。悔しい。私はまだ死にたくない。


「ほう、死にたくないか。今の日の本では珍しい考えじゃのう。なぜ死にたくない?」


 誰?

 またあの声だ。今朝も聞こえた、あの声。


「生きたい理由は何だ?」


 生きたい理由なんて、そんなもの分からない。

 でも、こんな所で、誰かに私の命を決められたくなんかない。


 たとえそれが自分自身でも、死は人が勝手に決めたり、踏み込んでいい領域じゃない。


「ふむふむ、そこまで分かっているなら上々。よし、決めた。我はお前にしよう」

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