第7話 老いらくの松は待っていた

 料亭『霜月楼しもつきろう』で嵐花らんかは博徒たちを打ち倒した。

 その後、店主の平八へいはちを術で治療してやっていると、ふいに足音が響いてきた。


 現れたのは神刀のサーベルを腰から下げた、美貌の軍人――神宮寺じんぐうじ彰人あきひと


 縁側からの日差しに照らされ、その瞳は氷のように冷たく輝いている。歌舞伎の花形役者でもこれほど顔立ちの整った者はいないだろう。


 現に平八はあまりの美しさに息を呑んでいる。一方、嵐花は「ほう?」と眉を上げた。


「まさか俺を追ってきたのか? まったく、ご苦労なことだな。一体、何の用だ?」

「決まっている」


 彰人の瞳に映るのは、嵐花に打ち倒された博徒たちの姿。部屋のなかに足を踏み入れ、サーベルがゆっくりと抜かれていく。


「帝都に仇なす怪異かいいを討つ。それが私の任務だ」

「言っとくが、そいつらは悪漢の類だぞ? 酒を無駄にしたり、芸妓の三味線を壊したりするぐらいだからな」


「人間の善悪は治安部の判断することだ。私の預かり知るところではない。それに如何なる悪漢とて、怪異ほど悪辣ではないだろう」


 尋常ならざる圧迫感で彰人は近づいてくる。

 難儀な奴め……と嵐花は呆れた。どうしてもと言うのならまあ相手をしてやってもいいが、ここでは店や平八が邪魔になる。さてどうしたものかと考え、ふと思いついた。


 自分の手のなかの鬼火、そして背後の松の木を順番に見つめる。


「そうだな、俺がやるよりも人間の彰人の方が平八のためになるかもしれん」


 よし、とひとりで頷く。


「気が変わった」


 鬼火を池に放り込んだ。

 一瞬で水が蒸発し、辺りに白い霧が立ち込める。その間に嵐花は颯爽と身を翻した。


「彰人、お前の腕を見てやろう。俺の狙いに気づけたなら、また相手をしてやる。せいぜい頑張ってみろ」

「なんだと? ……待て、また逃亡する気か!?」


 霧の向こうから彰人の声がする。しかし一切構わず、嵐花は跳躍。松の木の枝を蹴り、さらには店の塀を蹴ってその場から立ち去った。



          ◇ ◇ ◇



 夜が訪れ、『霜月楼しもつきろう』のあちこちに明かりが灯された。

 客を入れる部屋には国産の石油ランプが置かれているが、廊下などにはまだ昔ながらの油を用いた行燈がある。

 また日本庭園では灯篭の固い石の間から火袋の温かい灯かりがこぼれ、草木や池を柔らかく照らしていた。


 だが彰人はそれらの景色を気にも留めない。嵐花が最初に足を踏み入れたという『霜月の間』、その後に博徒たちと大立ち回りをした『神無月の間』を行き来し、思考を巡らせている。


「どうにも……不自然極まる」


 今日、彰人は部下たちを引き連れ、『千鬼の頭目』の捜索をしていた。嵐花の着物には呪符の切れ端を忍ばせてあり、彰人の意志で居所が掴めるようになっている。


 ただし嵐花に気づかれないよう、呪符の反応は非常に微弱なものにしてある。そのか細い糸のような反応を慎重にたどり、彰人と陰陽特務部の部下たちは『霜月楼』へとたどり着いていた。


 だがなかの様子を探ろうとしていたところ、ちょうど店の番頭が血相を変えて飛び出してきた。話を聞くと、鬼が店にやってきて『酒宴を開け』と要求しているらしい。


 番頭は帝都軍の屯所にいって助けを求めようとしていたようだ。しかし折よくここには怪異に対処する陰陽特務部の軍人たちが揃っている。彰人は部下たちを店の周囲に配置して嵐花の逃げ場を封じ、単身で『霜月楼』に突入した。


 そうして最初に目に飛び込んできたのは、倒れた男たちの姿である。嵐花の仕業だというのは一目瞭然だった。まさしく、人に仇なす怪異らしい所業だ。


 ここで仕留めるつもりだった。しかし嵐花は早々に池を蒸発させて逃亡し、部下たちの包囲も難なく抜けられてしまった。正直、慙愧に堪えない。現在は部隊を二つに分け、副官たちに嵐花の後を追わせている。本来ならば彰人も追走部隊に入った方が良いのだが、この『霜月楼』で気になることがあった。


「あの時、奴はここで何をしようとしていた……?」


 彰人は『神無月の間』で立ち止まり、眉を寄せる。

 すると部下の一人が庭園の方からやってきた。


「神宮少尉殿っ」


 鉄鼠てっその捕獲の際にもいた、若い部下だ。


「やはり松の木に怪異が細工したような形跡はありません。店のなかもくまなく調べましたが、おかしな様子はありませんでした」

「そうか。ご苦労」


 頷き、彰人は庭園の松の木を睨む。逃げる直前、嵐花は鬼火を出してあの木に何かをしようとしていた。その企みが気になっていた。見たところ、何の変哲もないただの松だ。しかし嵐花が関わっている以上、何かあると考えるべきだろう。


「店主」


 彰人は振り返り、『神無月の間』の奥へ視線を向ける。

 そこにはこの『霜月楼』の大旦那、霜月平八がいる。老齢の店主はどこか浮かない表情で立ち尽くしていた。冷静に彰人は問う。


「昼間の状況をもう一度聞きたい。あの鬼はこの店に何を要求した?」

「は、はい……」


 怪異を討つためには人間の犠牲も厭わない、そんな彰人の評判はここにも届いているようだ。彰人に接する大旦那の態度はどうにもぎこちない。


「あの鬼の御方は……酒宴を開きたいと仰られ、お酒と舞いと料理を私共にお求めになられました」

「その後に喧嘩騒ぎを起こしたということだったな?」


 ここで倒れていた博徒たちはすでに帝都軍の治安部に引き渡した。調べたところ、他の店でも居座りや恐喝を繰り返していたようで、しばらくは獄中生活となるだろう。彰人の問いに対し、平八は頷く。


「……はい。鬼の御方はこちらの部屋にいた博徒の方々と大立ち回りをなさいまして、そして……」


 老人は昼間のことを思い返すように自分の頬に触れた。


「その際に負った私の傷を……不思議な力で治して下さいました」

「なに?」

「……も、申し訳ございません。しかしこれが偽らざる事実でございますので……」


 彰人の視線に身を縮こまらせ、平八は平身低頭する。怪異の世話になったことを咎められると危惧しているようだ。ともすれば斬られるかもしれない、とでも思っているのかもしれない。


 しかし彰人が気に掛かっているのはそこではない。突入した際、確かに妖威の気配はしていた。嵐花がここで術を使ったのは間違いない。しかしそれがまさか店主を癒すためのものだとは……どうにも飲み込めなかった。


 喧嘩で博徒に鬼火を放った、とでも言われた方がまだ理解できるぐらいだ。

 納得できないものを感じつつ、彰人はさらに問う。


「確認する。あの鬼は酒宴を開け、と要求したのだな?」

「……左様でございます」


「逆らえば店を燃やす、と脅しもしたということだったな?」

「確かに……そうしたことも仰られました」


「その鬼がなぜ店主の頬を治す?」

「私も軍人様と似たような思いを抱きました。大層、不思議な御方だと……」


 頬に触れたまま、平八は苦笑を浮かべる。それが決して悪い意味の苦笑ではないことは雰囲気から伝わってきた。


「先程も申し上げましたが、私の頬を叩いたのは博徒の方々です。おそらく、鬼の御方は義憤によって喧嘩をなされたのだと思います。頬を治して頂いた時、そう感じました。ああ、この方は私のため、こんな老いぼれのために立ち上がって下さったのだ……と」

「怪異が義憤だと?」


 つい口調に棘が混じった。ますます飲み込めない。怪異は人間に仇なす存在だ。ゆえに陰陽特務部があり、ゆえに彰人は命を懸けて神刀のサーベルを携えている。それにあの鬼は帝都軍の敷地で軍用車を燃やした。義憤で人間に肩入れするなど考えられない。


 しかし平八には術で操られているような気配もない。この老人は本心から言っている。

 ため息をつきたい気分で、彰人はまた松の木へ視線を向ける。


「あの松に何か曰くのようなものは?」

「曰くと申しますと?」


 平八の疑問に縁側の先の部下が気を利かせて答えた。


「『人が首を吊った』とか『処刑場から苗木を持ってきた』とか曰く付きの木は帝都に様々あります。そうした木には人々の恐怖が集まりやすく、怪異も寄ってきやすいです」


「と、とんでもございません! 当料亭にはそのような縁起の悪いものは一切ございません。あの松の木も至って普通のただの松です。強いて申し上げれば、先代が気に入ってよく手入れをしていた程度でして……」


 先代、という言葉を平八が口にした途端、彰人は目を細めた。

 松の木の周辺におぼろげな揺らぎのようなものを感じたからだ。


「少尉殿?」


 彰人の様子に気づき、部下が呼びかけてくる。だが彰人は松から目を逸らさず、平八に訊ねた。


「先代というのはこの『霜月楼』の先代店主のことか?」

「左様でございます。あまり商売上手とは言えぬ店主ではありましたが……」


「というと?」

「身内の恥の話となりますが……」


 今から数十年前、幕末の時代には佐幕派と尊王派に分かれてこの国の覇権が争われた。勝利したのは尊王派で、その中心だった藩士たちの家系が現在の帝都の重鎮となっている。平八の話によると、『霜月楼』の先代は敗者となった佐幕派に肩入れしていたようだ。


 当時の商人たちは自身の信条によって、佐幕派や尊王派に活動のための資金を援助していた。『霜月楼』の先代もそうして佐幕派の御用聞きをしていたという。


 結果、店の資金のほとんどを使いきってしまい、その影響は現在の平八の代にまで及んでいる。おかげで付近の店が西洋風に建て直しをするなか、この『霜月楼』は取り残されているらしい。


 客へのもてなしには自信がある。しかしいまだに石油ランプも揃えられず、明かりに行燈が混じっているような店では客足は遠のく一方だ。『霜月楼』はかなりの窮状に立たされているらしい。先代の失態が現在の店をも蝕んでいた。


「我が父……先代の霜月喜兵衛きへえは商人でありながら政に関われることが嬉しくてしょうがなかったのでしょう。よく藩士の方々に混じって熱弁を振るっておりました。その熱に浮かされて貯えもすべて使い尽くしてしまい、四代続いた『霜月楼』も今では博徒の方々が出入りなさるような店になってしまいました……」


 平八は肩を落とす。


「そんな先代が気に入っていた松の木ですので、どちらかと言えば私も敬遠しておりました。曰くといえば、そんなところでして……ああ、しかしそういえば」


 言葉の途中で平八は何かに気づいたように顔を上げた。


「鬼の御方も松の木を見ながら、私に先代のことをお聞きになりました」

「『千鬼の頭目』がですか? どうして鬼がこのお店の先代のことなんて聞きたがったんでしょう?」


 部下が不思議そうに目を丸くする。一方、彰人は松を見たまま平八に訊ねる。


「他には?」

「はい?」

「あの鬼は他に何か言っていなかったか?」

「ああ、そうでございますね……」


 多少口ごもった後、平八は言った。


「どのようなお考えだったのはわかりませんが、鬼の御方は……この店を救ってやる、とそう仰って下さいました」

「――っ」


 彰人は無言で自分の口元を押さえた。


 ……馬鹿な。ありえん。


 一つの仮説が頭のなかに浮かんでいた。しかしどうにも信じられない話だ。そんなことを思いついた自分の正気を疑うほどである。しかし気づいてしまった以上、確かめないわけにはいかない。彰人は部下に命じる。


「店のなかにいる兵を招集しろ」


 玄関口から軍靴を持ってきて、彰人は庭園へと下りていく。


「店主、この松の木の下を掘る。構わないな?」

「は? な、なぜそのようなことを……?」


 平八が戸惑っている間に部下たちが集まってきた。数人を屯所に戻して工兵用のシャベルを持って越させ、松の木の下を掘っていく。


 そして人の下半身が収まる程度の深さまで掘り進めたところで、部下のシャベルの先端が何かに当たった。やはりか、と彰人は目を細め、今度は手作業で掘るように命じる。


「これは……」


 やがて全容が見えてくると、平八が驚いたように声をこぼした。

 そこにあったものは――。

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