第46話 一枚の金貨
○○○
狙撃手・タタボルトは重い足取りで倉庫の屋根の上を乗り継いで駆けていた。
目的はもちろん逃亡した獲物の追撃。
先程の不覚を取ってしまった失敗からか、その瞳にはナイフのような鋭利さと蛇のような執着さが垣間見える。
だが獲物の逃げたのは大劇場に続く道。
大衆の目に晒されたくない彼は歯痒い思いのまま獲物の再来を待っていた。
「………………………………」
ひたすらに過ぎて行く時間を悶々と数えながら恋焦がれる少女のようにして狩人は弓の弦を指で撫でながら、赤い屋根の上で
「……………………」
「………………来た」
それはまさしく運命なのか、それとも予定調和に満たされた物語の筋書き通りなのか。何はともあれ射るべき獲物が大劇場の煩わしい雑言を背に再び現れたのだ。
共に逃げた少女の姿は無い。肩から流れ出ていた血も止まっている。おそらく暫しの休息を挟んで改めて捕らえているご令嬢の救出に来たのだろう。
……………………無駄な足掻きだ。
胸中で余裕綽々の言葉を唱える。
それもそうだ、手当てをしたとて獲物は手負い。一方の狩人は万全でその手には弓が握っている。
ため息が溢れるほどに向こうが不利な状況。もしこれが舞台劇なら主演は間違いなく獲物の方だろう。
しかしこれは無情な現実。現実という
「……………………」
矢をつがえ、狙いを定める。その重傷を負った身体には、もはや脳天を狙う必要もない。
一番大きな的を確実に射る、それで勝者は決まるのだ。
狙いが定まり、手の振動が止まる。
あとは右手を離す、ただそれだけで終わる。
…………………その時だった、獲物は勢いよく地を蹴り走り始めたのだ!
「……………………!?」
その唐突な行動にタタボルトは矢を持った右手を離してしまう。それは半ば反射の行動。しかしこれが狩人にとって致命的な失敗となる。
放たれた矢は当然獲物に当たることなく、固い石畳を傷付けるだけに終わる、そして同時に獲物に対して狩人の存在を教えてしまったのだ!
「…………………フッ」
矢の飛んだ方向を瞬時に察知した獲物がタタボルトに視線を向けながら不敵な笑みを見せた。
その眼差しはそれはまるで罠に掛かった哀れなネズミをコケにしている眼。誇りある狩人の矜持を愚弄するに等しい挑発だ!
「……………………」
しかしタタボルトは怒りに身を任せて追うことは無い。瞳を閉じて逃げ行く獲物をジッと見つめるだけ。
手負いの獣が狩人を挑発する。それは間違い無く罠への誘いであり、その行為は力無き獣が使う最後の手段という証明でもあった。
「……………………静かに行く」
焦りと驕りは自分の命を縮める。その意味を狩人は心と身体に沁みて理解していた。
タタボルトは倉庫の屋根の上をまるでバージンロードを歩く新郎のようなゆっくりとした足取りで進んで行くのだった。
そうして倉庫街の近辺で一番高い倉庫の付近まで辿り着く。そこは乱雑に建ち並ぶ倉庫街の崖っぷちと言っても良い場所だ。
その崖の際に小さな人影が見える。
肌色を隠すように纏った茶色いコートと帽子、そして古ぼけたバイオリンケース。冬の通りでよく見かける標準的な紳士音楽家の服装だ。
しかし少し近づいてみて見ればその体躯は明らかな少女、それも成人前の子供だ。
「……………………」
「……………ようやく来ましたね」
タタボルトが来たことを認識した少女はその年齢や格好に見合わない丁寧なお辞儀を見せた。
「ここにいるのがブルース様てはないことは申し訳なく思います。が、ソリアお嬢様を救出するために貴方には少しだけその眼を閉じていてもらいます」
綺麗な言葉使いで発せられたのは宣戦布告。そして少女は『ソリアお嬢様の救出』と言った。つまり目の前の少女は狩人の敵ということ。
「……………………」
タタボルトの弓を握る手に力が籠る。
距離はおよそ人間五人分ぐらい。動かない少女を射抜くのには造作もない。
「……………………」
ゆっくり狙いを少女に定める。
今度は逃げられるという失態を犯さないよう慎重に、まるで森の獣のように無慈悲に。
「その腕………………なるほど、やはりそうでしたか」
しかし少女は己の命を狩る刃がまもなく来ようと言うのに。まるで花にとまる蝶を眺めるような不敵な笑みを浮かべたままにタタボルトを眺めていた。
「…………………………ッ」
少女の様に疑問が生まれる。何故こんなにも余裕なのかと。
そして狩人の直感はすぐ様その意味に気付く。『狩人を狩る罠がある』と。
「…………………………ハッ!!」
「え?」
弓を引き矢が放たれる。しかし狙いは少女ではなく狩人の足元だった。
放たれた矢が少し変色した屋根の上に当たると、目の前の屋根が崩れ落ち大きな空洞を作り上げた。
人一人がすっぽり入るほど大きな穴。もし後一歩でも踏み出したのならタタボルトはその穴に落ちていただろう。
「……………………落とし穴」
「あ、バレてしまいました………………」
少女の余裕が消えた代わりに動揺が現れる。
なんともお粗末な。その拙い策にタタボルトは内心で呆れるしかなかった。
「せっかく頑張って老朽化した部分を探しましたのに…………」
「……………………終わりだ」
もうこれ以上こんな子供騙しに付き合う必要はない。
矢をつがえ、額に冷や汗を流している少女に弓を向ける。
「
狙いは小さな桃色の頭。せめて苦しませることのないように一気に仕留めてやろう。
そう思いながら力いっぱいに弓を引き、ジッと少女を見つめる。
「
「……………………!?」
ピン━━━━━━━━━
小さく響いた金属音。それは硬貨を指で弾いた音だった。
弾かれたその音は、眩い光と共に狩人へ向けて近づいていた。
━━━━━━━━━カンッ
そしてふっ……と、彼の目の前を金色の光が通り過ぎると呆気ない音を立てながら倉庫の屋根の上に転がり落ちた。
『森の狩人、こいつは上等だ。家族もろとも
『前の奴はすぐに壊れたが、今度は頑丈な奴だといいがな。おい俺が
『キリキリ働け! 何のために
震え始める手。不安定に脱力する足。激しく動悸する心臓。そして腕に刻まれた五線譜の
『一枚の金貨』により抉り出された彼の過去。それは狩人の動きを一瞬だけ鈍らせる力があった。
……………………そしてその一瞬が、彼の運命を決めた。
「うおおお!!」
狩人の動きが止まったのを見て、凹凸に連なった屋根の影に隠れていた獲物が大声を上げながら一心不乱に飛び出して来たのだ。
「……………………ッ!?」
反応したところでもう遅い。
獲物………………ブルースはタタボルトへと突っ込むとその勢いのままに彼を前へと押し込んでいった。
「…………………ッ、離せ!」
「ぐぐぐぐぐぐっ!!」
前へ、前へ、前へ、ひたすら前にへ。
まるで友を助けるために荒野を駆ける青年を描いた舞台劇のように、ブルースはタタボルトと共にひたすらに突き進んで行く。
その先にあるのは、暗闇すら喰らうほどの深い深い奈落の底。
「あっ………………」
そして二人の騎士は屋上という舞台の上から忽然と消えたのであった。
「…………………………」
物語の結末を最後まで見届けた少女は優雅でゆったりとした足取りで舞台の上を歩いて行くと、足元に落ちた硬貨を拾い上げた。
「一枚の金貨…………」
そして麗しい薔薇の装丁が刻まれた
「意味は確か………………『私の前から消えてくれ』でしたね。まったく皮肉な
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