第10話 日常の味わい
○○○
冬の朝というのはベッドの中が恋しくなる時間です。
しかし私は貴族の娘。忌まわしいことですが、起床の時間を過ぎた後にベッドですやすや眠っていればマリアンの手が伸びて来るのです。
「………………マリアン、もう少し静かに起こすことはできないの?」
「眠っているお嬢様を起こすのにはあれぐらいが丁度良いのです。さ、早くお召し物を替え朝食にしますよ」
悪辣なマリアン!
一体私の事をなんだと思っているのでしょうか。ですが寝起きで行先がおぼつかない心と空腹で力の出ない身体でマリアンに抵抗するなど肥えた蛙が飢えた蛇に挑むようなもの。私は心中で在らん限りの罵倒を叫びながら服を着替えるのでした。
召替えを終わらせ、薄ら寒い廊下を歩いて行きいつものテラスへと移動して、いつものテーブルのイスに腰掛けます。
「寒いのでひざ掛けを敷く事を忘れずに。本日の朝食は身体を温めるジンジャースープを用意しました。芯から温まるスープとトーストで力を付けましょう」
「いい香りね。冷めない内に早く食べましょうか」
そうしてマリアンの淹れた紅茶を一口傾けたのを合図に本日の朝食が始まりました。
「スープは。あっ、温かい…………」
ジンジャースープの中にはタマネギとニンジンが入っており、食べてよし、飲んでよしの豊かな食感が寝起きでウトウトしていた眼を瞼の奥まで覚まさせ。溶け込んだショウガの風味が口の中いっぱい広がり心の底までポカポカ温めてくれる優しい味わいでした。
「あ、いいこと思い付いたわ!」
身体が温まり頭が冴えて来たのでしょう。私はこの朝食の画期的な食べ方を思い付いたのです。
トーストをこのスープに浸せば、本来カリカリであったトーストがスポンジのようにスープを吸い、まるで雪のように柔らかくなりました。
そうしてこのスープパンを一口。
「んー! この口溶け、たまらないわ!」
「……………お嬢様、そのような食べ方はくれぐれも他の者の目がある場所でやらないで下さいね」
マリアンからのありがたい小言を右から左に流しながら朝食を食べ進めるのでした。
ちなみにスープパンを三回やった結果、マリアンから本日の宿題が二倍にされてしまいました。
「酷いわ。こんな素晴らしい食べ方を否定するなんて」
「その食べ方ではなく、浸ったパンからスープがこぼれてしまいテーブルが汚れてしまうのです。十二貴族の娘として相応しい振る舞いを意識して下さい」
「………………はい」
ですが、こう言われてしまっては流石の私もぐうの音も出ませんでした。テーブルを汚すのはよくありませんね。
何はともあれ朝食は終わり、食後のティータイムです。本日はレモンティーが振る舞われました。
「酸っぱいながらも舌に良い刺激を与えてくれるわね。さらに目が覚めそう」
「冬はレモンの季節ですからね。メイデン産のレモンが美味しい時期です」
爽やかな朝に相応しい爽やかなレモンティーを傾ける。まさしく至極のひとときでしょう。
ヴォリス様のことで本日から忙しくなりそうですが、この一杯のおかげで万全の調子で当たれそうです。
「そういえばお嬢様。一つ言い忘れていたことがございます」
「言い忘れていたこと?」
「昨日のお昼にアシュバルトからお客様がこの屋敷に訪れたのです。近々旦那様からご紹介されるかと思いますが、くれぐれも粗相の無いようにして下さいね」
「アシュバルトから………………ねぇ」
確かアシュバルトは教育に特化した国と学びました。そこからの客人という事はおそらくそこに所属する教育者なのでしょう。
(つまり大人のお方なのかな? まあ見れば雰囲気で分かるよね)
これでもここ数ヶ月は貧民街を中心に様々な御仁と交流したのです。微力ながらも人を見る目、そして貴族としての優雅さが育まれたと自負しています。
たとえアシュバルトからの客人であろうと、今の私なら立派に優雅な振る舞いができるはずでしょう!
(ふふふ、見違えた私の姿を見せてお父様を驚かせてやるわ!)
「………………お嬢様、笑いながら紅茶を飲んではいけませんよ」
こうしてワルツ家の冬の朝食の時間が過ぎて行くのでした。
○○○
青空の下に灰色の雲が過ぎり始めた午後一時。
私はヴォリス様のお手伝いをするために黄昏の家に向けて貧民街の中を歩いていました。
冬の寒さというのはここで暮らす人達にとって一層辛いものなのでしょう。耳に聞こえるアコースティックギターの音色もどこか震えているように感じました。
「ポール様………………、どうか温まる午後をお過ごしできる事を願います」
そうして盲目の弾き手に対して祈りを捧げていた時でした。ふと爽やかな香りが私の鼻腔を刺激したのです。
「これは…………ミントの香り?」
いつか嗅いだであろうミントの香りが通りの奥から漂って来たのでした。
この貧民街で今まで香った事ない匂い。気になったものは知りたいと思うのが私という人間です。爽やかな匂いに誘われるようにして私は貧民街の奥へと歩いて行くのでした。
「ああ、こんな匂いを嗅いだのは久しぶりだ…………」
「ねーねー、お母さんあれなに?」
「さあ、何かねえ? まあ見てご覧よ」
そうして三分ほど歩いたでしょうか。その場所に辿り着いた頃にはミントの匂いは薄れ、香ばしい匂いが私を出迎えるのでした。
そこで目にしたのはある屋台を囲む貧民街の皆様。そして屋台の中でお肉を焼いている紫色のバンダナを巻いた見覚えのある男性の姿でした。
「さあさあ皆の衆、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! ギリー・ブッチャーの特設肉焼きショーでぇ御座い!
いやはや、昨今の肌が冷えるこの季節、皆様のお腹もさぞ冷えていることでしょう。かく言う私もここだけの話、お得意先のレストランから肉の買う量を減らされてしまい懐も冷えに冷えているのですわ。
そんな事があり今までの肉が余っちまったと、困ってしまいやした。
そう言うわけで本日は特別にこのギリー・ブッチャーが愛を込めて作ったお肉をこの場にいる皆様に振る舞わせてもらいやす!
もちろんお代はいりやせん。『え、お金取らないの?』と不安に思う方もおりやしょう。ですがご安心を! そんな時に便利な言葉が極東にはあるんですわ。それでは皆様ご昌和ください。持ってけドロボー!!」
『持ってけドロボー!!』
そうして男性の言葉に続くようにして、貧民街の皆様が合唱よろしく元気な声を上げるのでした。
その男性、それはロンド様の統治する『エリア・キャン・ディーズ』にて精肉店を営んでいるギリー・ブッチャー様でした。以前に振る舞ってくれたソーセージの味は今でも忘れられません。
そんなブッチャー様が貧民街の一角に屋台を構え、素晴らしき調理の
一つまた一つとピンク色のお肉がジューシーな茶色へ変化し、貧民街の皆様の口の中へと送り込まれ笑顔を生み出していきます。
「アニキぃ、オデこんなうまい肉食うの初めてだぁ!」
「うめえよぉ…………、食べるのってこんなにも嬉しいんだなぁ」
その中には以前にも見た元荒くれ者のお二人もおりました。彼らのあれほどの幸福に満ちた笑顔には私も思わず顔が綻んでしまいそうです。
そうして肉焼きショーが始まってから三十分も経たない内に鉄板の上で焼かれた肉は全て消えてしまいました。
「ありゃありゃ! これはこれは、大変なご盛況のお陰で肉が全て消えちまいやした! てな訳で本日の肉焼きショーはこれにて終わり。また次の開催を楽しみに! それじゃあ最後に一本締めで閉めさせていただきやす。皆様お手を拝借。私の手拍子に続いて下さいねぇ。よぉ〜!」
こうして軽快なリズムで貧民街の憩いの時間は終わりを迎え、皆様は散り散りとなって解散するのでした。
「おー、この前店に来てくれたソーセージの嬢ちゃん!」
「こんにちは、ブッチャー様」
そうして人気が少なくなった一角の中で、ブッチャー様が私に気付いて爽やかな笑顔と共に話しかけて来ました。
「さっきまで話しかけられなくて悪かったなぁ。ほんまぎょうさんの来たお陰でめちゃ忙しかったで」
「お疲れ様です。その様子を見ていましたよ。定期的にこのような事をしているのですか?」
「せやな。こういう仕事してるとどうしても余る肉とかあるやろ? 捨てるのも勿体無いし自分で食うのには多すぎるさかい。そんなら肉食いてえって思ってる人にあげるのが一番やないか」
「なるほど…………!」
余ったのなら分け合う、なんと素晴らしい考えでしょう。
現にブッチャー様の行動は貧民街の皆様を笑顔にし、生きる活力を与えてくれました。
これは貴族だけでは成し得ないブッチャー様だからこそできる行動でしょう。
「さぁてと、そんじゃあこの辺りて失礼しますわ。またソーセージご馳走様したるから店に来てくれや!」
「ええ、また機会があればまた来ます」
ブッチャー様は「ほなさいなら」と言いながら屋台を押して去って行きました。
「持つ者が持てない者に与える…………。これも一つの考え方なのでしょうね」
少々寄り道になってしまいましたが、良い経験をさせて頂きました。これがミントの香りの贈ってくれた祝福なのでしょうか。
「………………行きましょうか」
そうして私も黄昏の家に向かって再び歩き始めるのでした。
さあ、ここから忙しくなります。ヴォリス様のために頑張りましょう!
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