アレの呼吸

そうざ

Watch to See if Someone is Ready

「先ずはアレだ」

 次々に運ばれて来る歓待の料理を余所に、会長は僕のコップに瓶ビールを注ぐ。

 傍らの妻が目配せをして来る。この後、何ヶ所か挨拶回りをしなければならない。でも、無碍むげには断れない。

「これで何組目の夫婦アレかな。なぁ」

 会長がキッチンに居る夫人に呼び掛ける。

「十三組目ですよ」

 就職して三年目、晴れて職場結婚となった。僕達は社長が辞してから初めてのカップルという事になる。

 惜しまれつつ現場を去った社長は今、会長の座に収まってはいるが、自らを昭和の老兵に例え、勇退の時が来たと涙ながらに語り、現場を去った。

「おぉい、田舎のアレから貰ったアレがあったろ。出してやんなさい」

「はいはい、アレね、少々お待ち下さい」

 就職活動の際に聞いていた通りのアットホームな社風で、結婚をした社員は現会長にその旨を報告に赴くのが慣例になっている。

「君も一国一城のアレになったんだから、アレを締め直して、これまで以上に頑張ってくれよ。さぁ、もう一杯!」

 妻が頻りに肘で小突くが、僕は無視を決め込む。

「結婚ってのはね、アレを越してからが本番だから」

「アレを、越す……ですか?」

「そう、アレだよ。惚れた腫れたなんか最初だけなんだから」

「まぁ……そうですね」

 妻の顔色を窺いながら相槌を打つ僕。

「今はまだ幸せの青い鳥アレを捕まえた気分だろうが、亭主なんか扱き使って構わんよ、リモコンアレでピピッと操作アレするつもりで」

 早くも目が座り出した社長が、今度は妻に矛先を向けた。当の妻は引き攣った微笑で頻りに目を泳がせる。

「おぉい、何してんだ、早くアレしてやれよ」

「はいはい」

「そうだ、奥の戸棚にアレもあっただろ?」

「アレですね」

「そう、アレアレ、アレも出してやれ」

「はいはい、アレね、アレアレ」

 夫人は何一つ訊き返さずにてきぱきと動いている。これが長年連れ添った夫婦の以心伝心という奴か、と感心して妻の方を見ると、眉間に縦皺を入れているので、そろそろお暇する事にした。

「何だ、もう帰るのアレか。おい、アレを持たせてやってくれ」

「結婚祝いね。最後くらいちゃんと言葉にしてあげて」

「アレで分かるだろうが」

 逃げるように門を出た僕達の耳に、玄関先の会話がまだ聴こえていた。

「ところで、アレはいつ書いてくれるんですか?」

「あぁ……アレか。アレはまぁ、アレだな」

「早くアレして下さいね」


 会長夫婦の熟年離婚を知ったのは、それから間もなくだった。離婚の理由は、きっとアレがアレしてアレだったからだろう。

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アレの呼吸 そうざ @so-za

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