第4章 それでも僕たちは理不尽に抗う

第23話 ラストエピソード〈ライム〉

 あの港の夜ことは一生忘れられないと思う。あれから、もうすぐひと月 経とうとしてる。


 沈没しつつある船から奇跡的に救出されたのはたった3人だけだった。それは僕にとって特に関わり合いが深い3人だった。


 僕が密かに兄のように思って慕っていたチャイミさんとキャドさん。ベテラン船員のソムラータさん。


 未だに船上火災と沈没の原因については解明されてはいないけれど、沈んだ船を引き上げることはないようだから、もう迷宮入りだろう。


 他の人たちは逃げ遅れて船内に閉じ込められ、亡くなったと結論付けられた。


 

 僕がおよそ4ヶ月ほど過ごしたあの場所が、今は手の届かぬ海の底にあるなんて。


 かつての船の仲間の墓標となって。



 冷たく暗い、海の底で────




 ***




 あの夜、深い刺し傷を負っていた重傷のチャイミさんは、あれよあれよと言う間にリリーさんを伴って救急車で運ばれて行った。


 僕たちはただ見送るしかなかった。


 彼女は、チャイミさんだけのために今まで活動していたと言っても過言ではなかったから、こうなるのも必然的なんだろう。




 鮮明に覚えてる、その後のことも────



 チャイミさんが乗った救急車の後ろ姿を見送ってる毛布を肩にかけられた人はキャドさんだって僕は確信した。たまらなくなって、遠巻きで事を見守っている人の輪の隙間から僕は叫んだ。



「キャドさーん!! キャドさーん!! 大丈夫ですかー!!」


 隙間から人の前に一歩出て、手を大きく振る。



 キャドさんは僕を振り向いて、一瞬誰だかわからないようだった。



 僕が駆け寄ったら、きょとんとした顔がハッとして、驚愕の表情に変わった。


「‥‥おまっ、おまっ、おまっ‥‥‥! お前、ライムじゃねーかっ!! 小綺麗なカッコしやがって! いっ、いっ、生きてたのかよっ!!」


「えへへ‥‥はい! なんとか」


「マ?‥‥‥本物だろうな?」 



 キャドさんは僕の頬を両手で挟み、顔を近づけてマジマジと観察してくる。


 僕はドギマギしながらもじっとしてる‥‥‥



「‥‥‥マジだ‥‥どっからどう見てもあのライムだ。‥‥一体どんな魔法使ったんだよッ! キャッハーッッッ!!」


 ケガ人とは思えないテンションで僕に飛び付いて来て、僕も嬉しくなってキャドさんに思いっきり抱きついた。



「‥‥‥信じらんないよ‥‥‥こんな奇跡‥‥‥」


 キャドさんは僕の耳元で、涙声で囁いた。



「───だから、言っただろ。ライムにはわずかだが希望はあるって」


 ざわめきの中、僕の後ろから中年の男の人の声がした。かすれた声だけれど、聞き覚えのあるその声の主は────



「ソムラータさんッ!!」


「私は信じていたよ。海の精霊となったアーティーがきっとライムを助けてくれてるってね。私はずっとそう思うことにしていた。だが‥‥‥本当に奇跡が‥‥‥ああ、まさか、本当に! アーティー、ありがとう‥‥‥」



 ちょっとあれこれぼろぼろになっているけど、僕の記憶のままのソムラータさんだ!


 車椅子で押されて現れたソムラータさんは、僕に手を差し出し、力強くシェイクした。


「僕、きっとまた会えると信じていました‥‥‥」


「ライムは優しいいい子だから、神様は見ていて守ってくれてたんだね‥‥まさか、こんな場面で再会するとは‥‥‥」 


 しみじみと僕の顔を見つめてる。



「さあ、あなた方も早く救急車に乗って下さい。二人の搬送先は同じ病院ですよ」




 救急隊員に促されて、救急車にいざなわれるキャドさんとソムラータさん。


「僕たちも、二人を後ろから車で追います。僕、今は夜学校に行きながら漁船での奴隷労働被害者をサポートする組織で仕事をしているんです」


「はん? そんな仕事があるんだ? いい子のライムらしいじゃんか。じゃ、後で俺の相談にも乗ってくれよな?」


 キャドさんは僕に手を振ってから救急隊員に従い、救急車に向かった。


 車椅子のソムラータさんは僕を感慨深げに見上げた。


「‥‥‥少し見ない間に立派になったな‥‥ライム」



 なんだか、ソムラータさんに言われるとお父さんに褒めて貰えたような感じ。


 きっと、僕のお父さんがここにいたのなら同じように言ってくれるかも。


 僕は行方不明のままのお父さんも、いつかきっと見つけ出す!



「ありがとうございます、ソムラータさん」


「どうやって助かったのか、無理でないのなら後で聞かせてくれないか? きみがここにいたわけも。私もあの時の操舵室でのいきさつを君に伝えておきたい。ライムには本当に酷いことになってしまって‥‥‥」


「‥‥はい、後ほど落ち着いた時に」



 僕たちエマンシペーター3人は、二人の搬送先の病院へと車で後を追った。



 キャドさんはほぼ所見も無かったようで、検査だけで終わったようだ。


 ソムラータさんは、以前漁船で負った足の怪我の後遺症もあって、一時入院することになった。ルトーナさんは、ソムラータさんが長いこと音信不通だった家族と連絡を取るための手伝いを申し出た。



 キャドさんは警察に事情を聞かれた後、帰る場所が無いって言うから、一時的に僕の狭い部屋に来ることになった。まあ、狭いとこは船で慣れているもんね。お互いに。


 キャドさんにはお母さんがいるらしいんだけど、頼る相手ではなく、完全に独立したいそうだ


 人はそれぞれ事情があるし、深追いはしない。



 キャドさんはその後、エマンシペーターのスタッフに相談しながら、今後進む道を考え、住み込みの警備員の仕事をしながら夜間学校へ編入することに決まった。キャドさんには何やら将来のビジョンがあるらしい。



 **



 早いもので、この狭い僕の部屋でキャドさんと過ごすのも、後2週間。名残惜しいけど、実は今後もすぐに会える。



「まさか、僕とキャドさんが同級生になるなんて! えへへ‥‥」


「ふ‥‥まさかこの俺が、ライムと机を並べるとはな‥‥」


 キャドさんはお手上げポーズで残念そうに首を横に振る。僕はキャドさんと同じ学校に通うなんて、スゴく嬉しいけど。



「僕、数学は得意です。リリーさんに教わったから」


「あ! あの気の強い女! チャイミの女だろ? そういや、チャイミはICUから出たらしいな。そろそろ会えそうだな‥‥‥」


「はい、ソムラータさんも誘ってようやくお見舞いに行けますね」



 ソムラータさんは家族の元に帰った。いつの間にか孫が出来てたとか。


 最近、観光船の副船長として復帰が決まったそうだ。


 僕が海ガメに助けられた話をしたら、『それはきっとアーティーだ!』って言って涙ぐんでた。親友のアーティムさんを目の前で失ったソムラータさんの心が、わずかながらも癒されたように見えた。



「チャイミさん、僕の顔見たら何て言うのかな? ちょっと怖いです。リリーさんは僕のこと、チャイミさんにはまだ話して無いそうなんです。僕が自分で話した方がいいだろうって」


「ふふ‥‥チャイミの驚く顔は見ものだな。‥‥‥ライムの転落事故から、チャイミはどこかおかしくなっていた。ライムが置き去りになってしまったことの責任を感じてたんだと思う。‥‥‥正直に言え。チャイミを‥‥恨んでんのか? 言っとくが、あいつに責任は無いからな。悪いのはキャップだ」


「‥‥‥チャイミさんを恨んでるわけじゃ無いです。僕を必死で助けようとしていたことは知ってます。ただ‥‥‥広い果てない海に一人漂った絶望は、幾度となく思い出します。あの時と同じ綺麗な星空の夜なんかには‥‥」


「‥‥‥‥‥」



 キャドさんは黙って僕の肩を抱いた。


 僕は意図せずに涙が出て来て、しまいには小さな子どもみたいにわんわん泣いてしまった。


 僕の心中を本当に理解出来るのは、あの船に乗っていた人だけだ。



「‥‥怖かったな? ライム。夜、たった一人で海の真っ只中に浮かんでるなんて、恐怖でしかねーよ‥‥‥」


 キャドさんの横顔。まるで水平線を見ているような遠い眼差し。


 見えない遠くを見ながら、キャドさんはそう呟いた。




 ───僕が死ぬまで決して消えはしないだろう記憶。



 転落して勢いよく沈んでゆく暗い水の中


 ゴボゴボと耳に響き、体にまとわりつく泡の音


 目に、鼻にしみる塩水 


 ゲホゲホ息苦しく止まらぬしわぶき


 夜目に浮かぶ救命浮き輪のオレンジ色


 サヨナラ。ヤーンに切られたロープ


 次第に消えて行く船


 わかってるくせに消せない一縷の期待


 そしていつしか僕の視界から消えた船


 恐怖と絶望の僕



 そんな僕には無関心に、美しいままの星空────


 


 **



 リリーさんは、前ほど頻繁ではないけれど、チャイミさんの病院通いの合間に、こちらのボランティアも続けている。


 僕たちは来る度に柔らかく変化してるリリーさんの表情で、聞く前からチャイミさんの回復が良好なことは知れている。



 僕はその日、気になっていたことを思いきって聞いて見た。


「あの、聞いてもいいでしょうか? ‥‥‥チャイミさんはどうして刺し傷が出来たのですか? 火災なのに鋭利な刃物の傷だったそうですけど‥‥‥」


 背中側だし、誰かに刺されたに決まってる。何が起こったんだろう。


「‥‥‥覚えて無いって言ってるわ。あの時の記憶はほとんど消えてるって言うの。出血も多かったし、死にかけたんだもの。無理も無いわ」



 ‥‥‥そうかな? 多分、言いたく無いようなことが起きたに違いない。そんな気がする。


 僕が海に落ちた時、救命浮き輪のロープを切って『サヨナラ』と呟いたヤーンさんの事を、僕が誰にも話していないように───



「それに、漁船で過ごした1年間の日々のことは、あまり話さないわ‥‥‥」


「そうですか‥‥‥でも、チャイミさんが回復して嬉しいです。僕のこと見たらびっくりするでしょうね。ついに明日ですね‥‥‥お見舞いに伺うの。なんだか僕、緊張します」


「うふふ‥‥そうね。ライムさんと私の繋がりも何も知らないのよ。私は何も言ってないから」


「‥‥‥ダブルに驚かせてしまいますね」


「‥‥‥ライムさんが無事だって早く知って欲しいわ。キャドさんから聞いたのよ。ライムさんが船から転落して行方不明になってからというもの、様子がおかしくなってたらしいの」


「‥‥‥‥」


「私はライムさんからもその時のお話を聞かせて貰ったけれど、チャイミの性格から言って、相当自分を責めていると思うわ。あなたが生きてるってわかったら、彼が孤独に抱えてる苦しみが少しは緩和されると思うの‥‥‥」



 リリーさんは僕をすがるような目で見た。


『私ではどうにもならない、助けてって』、そう言ってる。



 体は癒えて来ても、心は傷を負ったまま。


 僕だけじゃなくて、あの事でチャイミさんも心に傷を負っている。



 僕を置き去りにした事情は、ソムラータさんに聞いて知った。


 頑張ってもどうにも出来ないことがあるって。チャイミさんは僕のために船を止めようと頑張った、でも出来なかった───


 チャイミさんと僕の立場が逆だったとして、僕にだって船は止められなかっただろう。





 次の日、キャドさんとソムラータさんと僕の3人は、病院の前で待ち合わせして、チャイミさんが入院している病院へとお見舞いに向かった。



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