第13話 誘惑と決断〈チャイミ〉

「‥‥チャイミさん。チャンスだ! 二人で逃げよう!」


「え?」


 かがんだ姿勢の俺の背中に覆い被さるヤーンが、耳許で囁く。


「わかってるくせに。これを逃したら俺たちはアーティムやライムの二の舞だって」



 俺の心は大きく揺さぶられてる。逃げるのにこんな都合のいいシチュエーションは二度と無いだろう。


 俺は脱走を計画していたし、それが少しだけ早まるだけだ。



 この期に及んで迷う素振りの俺を嘲笑うかのように、耳の穴に息をフーッと吹き込んで来るヤーン。



「さあ、チャイミ。俺の手を取って」


 当然、俺が従うという自信に満ちたヤーンの声。いつの間にか俺を呼び捨てだ。


 これに便乗するべきか。ここからなら救命ボートを漕いで岸壁まで行ける可能性は高い。


 騒がしさを増している船内のざわめきが時折ここにも伝わって来る。


「しかし‥‥‥」



 迷う俺に、甘く囁く悪魔の響き。


「ねぇ‥‥俺たち、自由になりましょうよ」



 背中に感じる熱い体温。どさくさに紛れて俺の下方に伸びて来た手に、便乗脱出への迷いは断ち切れた。



「‥‥放せ。行くなら勝手に行け」



 俺は構わず消火器を取り、立ち上がり振り向く。



 相対したヤーンはその時うつ向いていたが、顔を上げ正面を見せたそれは、シニカルを浮かべた冷笑だった。背筋にぞわっと一筋寒気が走った。


 俺はヤーンとは、相入れない。



「俺はキミを止めはしない。じゃあな」


 一言、最後に告げて、脇をすり抜ける。急いで皆の元へ行かなければ。



「‥‥‥なんでライムじゃなきゃダメなんだよ‥‥‥」


「え? ライム?」



 急にその名前が出て一旦、歩を止めた。


 ああ、そうか。ヤーンはライムと俺のこと未だ勘違いしてたんだっけ。別そう思われていても特に問題は無い。




 シカトして、背を向け走り出す直前───


「ウワッ!」


 俺は衝撃で前につんのめった。



 消火の加勢へと船内に向かう俺の背中に、ヤーンが体ごとぶつかって来た。



 ───一瞬、何が起きたかわからなかった。痛みは感じなかった。最初の数秒は。



 膝から崩れ落ちた俺に、ヤーンの呪いの言葉がかけられた。



「チャイミ‥‥愛してるからね。これからもずっと───」



「アウッ‥‥あっ‥あっ‥‥あっ‥‥‥」 



 じわじわ増してきた背中の痛みに自分でも聞いたことの無い奇妙なうめき声が出る。



 ヤーンは、茹でた海老のようにデッキに横たわる俺の腹を容赦無く蹴り飛ばし、仰向けにした。



 ──俺はここで死ぬのか? こんなことで?



「ふふ‥‥イケメンはどんな時でも絵になるね。苦しむ姿さえ。‥‥チャイミはやっぱり最高だ。掃き溜めに咲いた一輪の白いバラだった。本当に残念だな。これで永遠にお別れなんて。せめて、思い出にさよならの口づけを」



 呻く俺のくちびるに触れるくちびる。


 させるか! 俺は咄嗟にヤーンのくちびるを噛む。


 口に広がる血の味。



「痛ッ、クッソ!」



 ビンタされ、靴の裏で顔を踏みつけられた。ゴキッと、鼻が折れた音が頭まで響いた。


「俺のものにならないなら壊れてしまえばいい」



 数回、小さな爆発のような、銃声に良く似た音が立て続けに響いた。



「ヤバ、早く行かないと見つかっちゃう。名残惜しいよ。もっと遊んであげたかったけど。じゃあな、チャイミ」




 どれくらい経ったのだろう。


 最後に股間を蹴られ、俺は気を失ったようだった。気づけばヤーンの気配は消えていた。



 どこからか黒い煙がもくもくと上っている。船は水平を保ってはいない。少し傾いてる。俺は消火器と一緒に床を滑り、右舷船縁の角に押し付けられていた。



 ガンガンガンッ、ガキッ


 操舵室の扉が開けられたらしい音。



「チクショウ!! ゲホゲホッ‥‥ボートはどこだッ、ヤーンッ! どこにいるッ?」



 不意にキャップの声がした。


「お前は‥‥ああん? チャイミか? どうしてそんな格好に? 男前が台無しだな? で、何やってたんだ、今まで! ヤーンはどこだ? 救命ボートどこだ?」



 血まみれで転がってる俺を見て不機嫌な怪訝を浮かべた口調で言った。キャップの顔も体も煤で黒く汚れてる。


 何って血まみれで転がってる俺に言われてもね‥‥‥


「消火に‥‥加勢に行こうと‥‥したのですが‥‥ヤーンに‥‥後ろから刺されて‥‥」


「ちっ! あいつ、どさくさに紛れて逃げやがったな!! だが、このままでは置かない」



 船が傾いて、もう普通に立ってはいられないようだ。キャップはよろめいた。


「とにかく脱出だ」


 キャップは一人でどうにか救命胴衣と予備の救命ボートを取り出した。


「ああ、何て喪失だ! 俺様の船が‥‥‥一体、出火原因は何だったんだ? 同時に二ヶ所なんて、ありえん! 機関長は否定するし、厨房長のまで『我々の管轄で火が出る要素は無かった』なんて抜かして責任逃れ‥‥‥許せんッ!!!」



 キャップには、もう俺のことなど目に入らないようだ。大きな声で独り怒りをぶちまけてる。



 そう、奴隷なんて、俺なんて使い捨てだ。で、他の人たちは? なぜデッキに出てこない?



「こうなったらこの船の証拠は残せない。海の果てまで全て沈むがいい。皆、消えてしまえ。万が一、事件化した暁には───」


「チャイミ、この罪はお前に」


 俺の頭の上でガシャンと金属の音がした。これは、キャップがいつも腰に下げていたマスターキーの束。この船の統治者の証を投げ棄てて俺に。


 今までの犯罪と罪を添えて。



 今夜の星空は、神秘的なまでに美しいけれど、その下にいる人間は見事なまでに醜い。



 キャップはロープで繋がれたボートを海に放り投げると、大きなスーツケースをロープを使って慎重にその上に下ろした。その後ジャンプして一人飛び乗った。


「アーバヨッ!! ハッハー! お前ら、船もろとも海の藻屑となれ!」



 キャップの最後の声───




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