第12話 執心が行く先は〈チャイミ〉
ライムがいなくなって、それでもなにも変わらず滞り無く、ここでの日常は進んでゆく。
ライムの行方不明の直接の原因となったヤーンを責めるつもりはない、が。
俺はあれ以来、なるべく彼を避けている。
あの後、ヤーンが『切れた』、と言った救難浮き輪のロープの端を確認した。
救助の浮輪のロープは切れたのではなく、刃物で切った切り口だった。そしてあの時、デッキにいたのはヤーンだけ。
それは善意か悪意か。
船に引っ張られていた浮き輪を、波間に浮かぶライムに残そうとして?
浮き輪のロープが切れたとしても、故意に切ったとしても、それ自体はライムの生死に影響したことじゃない。どうせ船は、海に転落したライムを置いてきぼりにしたのだから。
ヤーンの意図は気になるが、結果は変わらないのに過ぎたことを今さら蒸し返すのは、しこりを作るだけで不毛であり黙っておく。
未だに俺に好意を持っているヤーン。向けられる一途なあの目が苦手だ。
『チャイミさんを尊敬しています。そばにいさせて下さい。俺ではダメなんですか?』
遂に意を決したようで、網修理作業中の俺にさりげなくコクって来たヤーン。
思わず周りを見回した。
デッキには他にも作業中の男たちが何人も動き回っている。聞かれたら娯楽が少ないここでは格好の話のネタにされてしまう。
ノーマルな俺にいつまでも想いを寄せられても困る。俺の心にはリリーがいる。たとえ思い出になっているとしても。
『俺には忘れられない人がいる。その人とは結ばれることはなくとも、俺の想いは変わらない。だから、他の誰かの想いには応えられない』
俺は拉致されたことによって引き裂かれた当時の恋人のリリーを思い浮かべ、彼に返答した。
ヤーンを傷つけないように断ったつもりだった。
かつての恋人リリーの存在をヤーンに話すつもりは無く、だからと言ってこの不用意で抽象的な断り方は、彼に誤解を抱かせていた。
彼が俺の想い人として思い浮かべたのは、ライムだった。
だけど、その時はそんなこと思いもしなくて。
ヤーンは、そのうちに自らが陥った錯覚に自然に気がつくだろうと思った。多分、一つ年上の俺への憧れを、恋だと思い込んでいるだけだから。
まさかヤーンの俺への想いが、そこまで彼を追い詰めていたなんて思いもしなかった。
人が恋い焦がれる気持ちが反転すれば、それは‥‥‥
それが具現化したあの夜────
船はメンテナンスのためにブリーム王国のとある港に向かっていた。
明日早朝に港に入る予定で錨を下ろし、沖合いに停泊していた。
今夜、俺たち奴隷乗組員は漁は無く、雑事以外の仕事はない。やっと体を休められる。
ただ、機関士たちは修理に備えて準備作業に忙しい。暑苦しく短時間しかいられない機関室での作業を今も交代で進めている。
俺は、過酷な肉体労働から解放されたひと時を過ごしていた。この時間、船上では機関士とコックたちを除き、ほっとした空気が流れていた。
大半の乗組員は、分割されて海上にて他の船に貸し出されたけど、この船にも最低限の人数は必要だ。
機関長とその部下たち、コック2人。ソムラータさんとキャド、ヤーン、俺も含む乗組員の3分の1は残された。
上陸が待ち遠しい。
キャップは、かつての亡くなった乗組員のパスポートに加え、偽パスポートもたくさん用意していてそのどれかを乗組員に当てがう。
ブリーム王国での入港の審査に際しては、お偉いさんからの圧力が掛けられているから、表面上の書類の体裁が整ってさえいれば、後は忖度されてすんなり通るそうだ。これはキャドから聞いた。
パスポートなど持ち合わせていない俺は、書類上、誰になって自国に戻るのだろう?
港に入って手続きを終えれば、俺たち乗組員は陸地に上がり、久々長い休みに入る。今回は、大きなメンテナンスがあり、長ければひと月近くになるかも知れないそうだ。
と言っても、ソムラータさんによれば、俺たちも船底のフジツボやら、ムール貝除去など、下働きがあるらしい。夜は建物に閉じ込められて、監視されてどこにも行けないとか。
それでも、波に揺られずに過ごせるのは嬉しい。
俺は密かに決心している。それは誰にも言ってはいない。親友のキャドにさえ。
俺は陸に上がったら隙を見て、宿泊所から逃げ出そうと考えている。ここは俺の母国だ。監視を逃れればどうにでもなる。
キャドを信用していないわけではないが、キャドにはやはり、キャップとは母親を通じて特別な繋がりがあるのを感じてる。
時々、奴隷扱いの俺たちには手に入れられない物をキャドが持って来ることがある。例えば、ソムラータさんがケガした時には消毒用にウォッカ一瓶。お見舞いにチョコレート、上質なペットボトルの水とか。
普段おれたちが飲めるのは、浄化フィルターに海水を通しただけの、今一つ塩気が抜けきれてない水だ。ペットボトルの水を飲めるのは、キャップだけだった。それを手にしていたキャド。
俺の場合、失敗したら拷問だけでは済まされないだろう。
俺の父親はそれなりの社会的地位を持っている。
だからこそしくじった場合、俺の身は危険だった。
逃走に失敗しさらに俺の身元が知れたら、社会的に力のある俺の親からの報復と糾弾を恐れ、悪事を知られる前に俺の存在を元から無かったことのように消し去ることだろう。他の人よりリスクは大きい。
しかし、このチャンスは逃したく無い。弟の手がかりはここでは何一つ掴めないまま、ライムまでも失った。
せめてもの罪滅ぼしにライムの家族を捜し出し、俺が彼について知る限りの事をことを伝えたい。ライムのことをこのままにするわけには。
あれこれ考えて、今夜は眠れそうにない。
船内には人が少なくて、普段と違って妙にガランと感じる。
甲板に出て、手が届きそうにも見える遠い港の明かりを一人眺めていた。
うなじを通る涼しい風が心地よい。今は雨季だけど、今夜はたぶん、神様が俺にくれた、麗しい夜。
チカチカと緑と赤の合図を放つ灯台の夜標と、夜景の明かりが、横一直線で海の上に浮かんでる。浮かんでるのはこっちなのだけど‥‥‥
あの灯りの向こうにお父さんとお母さんがいる。俺の‥‥いや、僕の家族が。
灯りが目に
‥‥‥ほんとうに目にしみる。鼻が痛い。
ゲホッ‥‥修理中だからか、オイルの臭いとケミカル臭が微かに漂って来て。
突然、船の警報音が響いた。そしてバタバタした気配が。
「誰かっ、デッキにいませんかっ? 手伝って下さい!」
「‥‥はい、いますけど? あっ、ヤーン‥‥これは警報装置のメンテナンス?」
「違う! 大変だチャイミさん! 機関室あたりから火が出たらしい!! 念のため救命ボート降ろしたらすぐに消火を手伝うようにって、キャップからの指示です!!」
ヤーンが青ざめ、息をきらして叫んだ。
「‥‥‥ラジャー!」
とにかく俺はヤーンと協力し、救命ボートを用意し海に下ろした。8人くらいは乗れそうな大きさだ。
「これでよし!」
ロープは船縁の梯子にしっかり結ばれている。これで万が一の場合は脱出できる。もう一つ用意しなければ全員分は足りないが、とりあえずはこれで消火の加勢に行った方がいいだろう。ケミカルな気分が悪くなる臭いが風向きによって漂っているのを感じるけど、出火の様子はどれくらいの規模なのか俺には全く分からない。
急がなければ! 火が大きくなったら大変だ。
───え‥‥?
デッキ用の消火器を中に持っていこうと、屈んで取り外しにかかった俺の背中にヤーンが覆い被さるように抱きついた。
首に湿った吐息を感じる。この緊急時にどういうつもりだ?
「‥‥‥何してる?」
首だけで振り返る俺に、ヤーンが言った。
「‥‥チャイミさん。チャンスだ! 二人で逃げませんか? あのボートで」
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