第7話 満天の星空に夜明けを探し〈ライム〉

 遂に波間に見えなくなった、僕が乗っていた漁船。



 でも、きっと戻って来てくれる。チャイミさんもソムラータさんもいるし。船だから急な方向転換は出来ないだけさ‥‥‥



 心の隅では『そうじゃない』って、誰かがささやいてるけど、それは封印した。



 ボクはやっとのことで、浮き輪を捕まえた。この先これがあるのと無いのじゃ雲泥の差だ。


 真夏の海の水は温かい。浮き輪に乗っかって風に吹かれてるより、どっちかというと掴まって水に浸かってる方が温かい。夜だし、日光で肌が焼けつくこともないのは幸いだ。



 長いロープはたぐって先を巻いて短くしてから垂らしておく。


 魚に足をかじられ予防になるかな。



 ふうっと大きな魚の影が横を通り過ぎると恐ろしい。魚も興味津々で、珍しい生き物を見に来てるらしい。


 サメが来たらどうしよう。怖い‥‥‥



 波がいちいち顔にかかるのも辛い。


 ボクは上を向いて広くて美しい星空を見てることにした。



 ボクがこんなひどい目にあっているというのに、どうしていつもと同じに綺麗なの? 


 ねぇ、この夜が明けたら、どこかの船がボクを見つけてくれる?


 ねぇ、それともボクはこのまま尽きて死ぬの?



 お母さん。ボクが今こんなところにいるだなんて想像もしてないよね‥‥‥


 家族を思うと涙が出た。



 船は戻って来ない───


 本当は、とうに知っていたさ‥‥‥


 そしてこの広い海で、他の船がボクを見つけてくれる確率なんて───



 それでも、ボクは東の空に夜明けを探す。一縷の望みは捨てきれない。



 星空と海の境目、果てしなく続く水平線。


 この広過ぎる海に畏怖して目を瞑る。人の力なんて、大自然に比べたら砂粒だもの。飲み込まれて当然だ。


 なるようになる‥‥‥心を無にしよう。じゃなきゃ、ボクは耐えられない。






 どれくらい時間がたったんだろう?





 まぶたの裏に、金色の光がふうっと通過した。


 ボクはそっと目を開ける。


 明るいのに眩しくはない光の玉が、ボクの回りをぐるぐる回ってる。



 海上を飛ぶ生き物? 初めて見た。綺麗だな‥‥


 もしかして、死ぬ前の人に見える『何か』なのかも?


 掴もうと手を伸ばしてみた。



 えっ?! 


 今、ボクの手のひらを突き抜けて通過したッ!? 


 自分の手のひらを見たけど、ただの白くふやけた手のひらだ。今んとこ穴は空いてない。


 この光はびっくりしてるボクを笑ってる? ボクの頭の上で、光を強弱させながら小さく揺れてる。



「なんだよ? キミは天からのお使いなの? ボクを迎えに来たの?」


 それはボクの目の前に来て、軌道の残光を残しながら、海の中に垂直にスッと落ちて消えた。


 ───と思ったら、



 ザッブーンッ!! 



「うわーーーッ!! って、って、って、こ、これは‥‥‥」



 ボクはいきなり水上に突き上げられた。


 岩に乗ってる? 違う! これは────



 見たこともない大きな海ガメの甲羅の上に、ボクの上半身が乗っていた。



 そうだ。ソムラータさんから聞いたことがある。船乗りたちの間で伝わるトリビア。海ガメは幸運を運ぶ神の使いだって。だから海で遭難しても、海ガメを見たなら絶対助かるって。



 でも、ボクが思うにそれは本当だけど本当じゃないね。


 海ガメなんてそこまで珍しい訳じゃない。長い時間海にいたら遭遇するのも、ある意味必然に近くて。とりあえず浮いてるものは仲間かどうか気になって確かめに近づいて来るんじゃないかな。


 そして、生きて戻れた人しか『海ガメを見た』、なんて誰かに言えるはずもなく‥‥‥


 船乗りが海で遭難した際、心の支えとなるように優しい人が創ったトリビアだろうね‥‥‥


 

 わかってるけど、今はすがりたい。その慰めの言葉に。



「あの‥‥海ガメさん、お願いです。ボクをこのまま岸まで運んでくれませんか? だめだったら、せめて少しだけでもあなたの傍にいさせてもらえませんか? お礼は‥‥出来ないです。ボク、今は何も持っていないから、ごめんなさい」



 海ガメは首を伸ばしてボクに振り返った。その、濡れた大きな黒い目が承諾してくれたように思えた。そんなはずはないのに。


 浮き輪は無くさないようにロープで腰に短く結び直し、うつ伏せで甲羅にしがみついた。


 ボクの最期には、傍にこの生き物がいて欲しいと思った。一人きりはつらい。


 人が寄り添える生き物の、命の温かみを感じていたかった。



 だって今のボクは、希望はほぼ尽きてる。


 



 ───夢を見ていた


 船に乗せられてからの一連の出来事の。



 最初に見たキャドさんは怖かったこと。でも、実は笑顔がかわいい人だったこと。こっそりボクだけにチョコをくれたこと。チャイミさんは最初から最後まで優しくてカッコ良くてイケメンだったこと。ボクの憧れ。ボク、あんな人になりたかったな。


 十分な食事が無かったこと。毎日くたくたで体が悲鳴をあげてたこと。日の出の2時間前に起きるのは辛かったこと。作業中モタモタしてたくさん怒鳴られたこと。それでも力の無いボクを庇ってくれる人が少なからずいたこと。


 ソムラータさんがケガをして、ボクが看護したこと。そして、目の前でアーティムさんがキャップに撃たれて亡くなったこと。


 アーティムさんに4人で祈りを捧げたこと。


 チャイミさんとキャドさんとボクで水葬した。


 海面からスーッと沈んで消えて行ったアーティムさんの体‥‥‥


 ‥‥もうとっくに天国に行ってるよね? うん、きっとそう。




 そして、最後のチャイミさんの緊迫の顔と声


《ライムッ! これに捕まれッ!! ソムラータさんッ! 戻ってくださいっ! ライムが落ちたッ!!》



 ヤーンの酷薄な顔と唇の動き


《ライム、サヨナラ‥‥》



 遠ざかるエンジンの音。波間に消えてゆく船の形‥‥‥




 ***




 気がつくと柔らかいベッドの上に寝かされていた。


 白い漆喰の壁と木の床。生活の匂いのする部屋の中。窓の外は眩しい日差しと緑。


 風に揺れる洗濯物。



 ボクは立ち上がり、窓から外を見る。



 ───あ、誰かいる。目が合った。



 ボクと同じくらいの年? 黒髪の目がくりくりした女の子。


 庭で水やりをしていたその子が、びっくりした顔をしてからニコッと微笑んだ。


 ボクは何が何だか訳もわからず声が出ない。



『あっ! あなた、気がついたの? 大丈夫? まだ、寝てた方が良くない? おかあさーん! あの子、起きたよーっ!』


 イスターン語かな? ボクとは言葉が違う。でも雰囲気で何を言っているのかわかった。



 

 ───ボクは明け方、バーディー島の入江で漂っている所を島民に発見され、救助されていたんだ。


 この辺りの沖合で遭難や事故があると、潮の流れでここの入江にあれこれ流れ着くことが多く、この辺の住人には日常の話だって後から聞いた。


 船の事故があると、残骸のかけらやら、ゴミやら、流木やら、遺体やらがこの入江周辺に流されて来るそうだ。


 浮き輪に掴まり波打ち際で行ったり来たりして漂っていたボクのことは、最初は死んでいると思ったらしい。生きてるってわかって大慌てしたって。



 目覚めたその日、ボクの打ち上げられた傍に海ガメがいなかったか、この家の娘さんのサナさんに、身振り手振りで聞いてみたら、


『ライムくん‥‥この時期まだ砂浜に海ガメがいるのは当然でしょう?』


 って、呆れた口振りで返されてしまった。



 お互い言葉は違えど、言いたいことは片言でなぜか通じる不思議。


 彼女によれば、8月上旬は海ガメたちの産卵の最後の駆け込み時期らしい。



 ボクは、命の恩人の海ガメさんに出会ってからの記憶がもやもやだ。


 あの大きな海ガメは、産卵のためにこの辺りの砂浜に上陸目指して海流に乗ったんだろうか。だからボクが意識を失い甲羅から手を放したとしても、ボクの体はそのまま入江まで流れ着くことが出来たのかも知れない‥‥‥


 

 流されてた時の記憶が半分無い。今思うと、波に揺られて海原をさ迷っていた全てが、夢だったような気さえしてしまう。



 美しい星空を見上げながら一縷いちるの望みを繋ぎ、夜明けを探していた。


 思い返すも切な過ぎる、誰よりも孤独な一夜────



 



 

                  第1章 満天の星空に夜明けを探す《終》

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