第6話 罪悪感を背負って〈チャイミ〉

 何てことだ!! ライムが海に落ちた!!


 突発の横波の衝撃で船縁に体を打ち付け、そのまま下に座り込んだ俺の目の前で、ヤーンも上半身が投げ出されて海に落下寸前だった。


 俺は咄嗟にヤーンの脚に抱きついて引き下ろす。



「ヤーンッ、大丈夫かッ?」


「ア‥‥ア‥‥チャイミさん、俺‥‥‥わざとじゃない‥‥」



 彼は相当ショックだったようで、俺に抱きついて震えてる。



「ああ、わかってる。とにかくヤーンは座ってろ!!」



 それより、今はライムだ!!



 俺はヤーンの背中を撫でて落ち着かせながらそっと引き剥がし、床にしっかり座らせた。


 早くライムを引き上げないと!!



 装備のオレンジ色の救命浮き輪を外して、ライム目掛けて投げた。上手くいったように見えたが。ロープの遊びの長さが足りない。ライムが掴むまでの間に、浮き輪は船に引っ張られてしまった。


 船は次の漁場目指して動いてる。乗っていればゆったり進んでるように見えるけどそうでもないし、浮き輪がライムからどんどん離される。


 潮の流れがある海で、走行してる船の早さに人が泳いで追い付く訳がない。



 すぐに止めなくては!! 離れたら波間に見失ってしまう!!



「ソムラータさんッ! ライムが落ちたッッ、戻って下さいッ!!!」


 俺は操舵室のドアをガンガン叩いて叫ぶ。



 ソムラータさんがビックリした顔で、ガッとドアを開いた俺の方を向いた。



「わっ、びっくりした! 何か言ったかい?」


「今の横波のあおりで、ライムが海に落ちた!!!」



 ヤーンを悪者にしたくは無かった。半分は不運な事故なのは事実。



「本当かッ!! それは大変だっ!!」



 ソムラータさんが船の方向転換を試みようとして、今まで一定だったエンジンの音が変わった。



 ───それだけであの男がこんな素早く反応するとは。



 流石、伊達に長年この船のキャプテンをしているわけでは無かったと言うべきか、さっきの突発の横揺れで起きてしまってイラついてただけ、と言うのが実情だろうか。


 この船を支配するその男が、操舵室の後方下にある船長室の扉から怒鳴りながら現れた。



「おいっ! お前たち!! 何で勝手に進路変更しようとしてるんだッ!」


「キャップ!!」



 ソムラータさんと俺は同時に叫んだ。


 ここは事実のみを淡々と伝えるのが正解だろう。


 船は急には止まれないから、この間にもどんどんライムの転落ポイントから離れてく。じれじれするけど、キャップの前で感情を顔に出したら駄目だ。


 この男は、変わりばえの無い船の上の生活には、飽き飽きして退屈している。俺たちの苦しむ顔を面白がって見たがってる。



「ライムが転落です! 俺がソムラータさんに救助を要請しました」


「‥‥ライム‥‥ああ、チャイミのコレか」



 キャップがニヤニヤと小指を立てた。


 ここではキャドとライム本人以外は、皆そう思ってる。まあ、これは俺が意図的に作り上げた結果なのだけど。


 キャドは真相は知っているけど、ライム自身においては、周りからそんな風に思われていることすら知らない状態だった。



 ここには男しかいないから、皆飢えてる。だから刑務所と同じで、弱いヤツは本能の捌け口の標的になる。


 俺が初めて見たライムは、見た感じもまだまだ少年で擦れた所もなく、純粋過ぎて騙され易くて、どうやら気も弱そうなのがすぐにわかった。


 顔も中性的でかわいらしく体も華奢で小柄だった。


 こんな子、ここに来たら、すぐに野卑な男たちのターゲットにされてしまうのは目に見えてた。



 同情してしまった。弟を思い出して。


 だから最初に俺が手をつけたってことに見せかけた。そうすれば他から手出しされる可能性は大分減ると思って。あの時、キャップもニヤニヤしながら許してくれてたし。


 何も言わなくてもキャドは俺の真意を分かってた。



 俺がここに連れてこられた時は、同時にキャドがいたから助かった。キャドは格闘技かじってて物理的に強かったから。襲って来た相手には容赦しない。同時に仕事初めたから一緒にいることが多い俺も守られた。


 キャドは強さを見込まれたのか、すぐにキャップの用心棒的な役割に置かれて、当時俺と同じ17と若手だったけれど、この船で上位の立場をすぐに勝ち取った。


 キャップはなんとなくキャドを最初から気に入ってるように俺には見えてたけど、どうやら彼の実力を見抜いていたのかも知れないと今では思う。



 そして今ではこの俺も若手ではナンバー2だ。


 俺も今、キャップに接する機会が多くて秘書のような役割をしてる。


 その為、俺は船員たちから期待されてる役目がある。


 キャップの機嫌を悪くさせないように気持ちを読んで、船員たちに被害が及ばないようにキャップを誘導すること。


 これを一回こなしてみせたら船員たちからも感謝され信用され始めた。


 船員たちから信用を得て来た俺をキャップも便利に使うという相乗効果で、俺の立ち位置はあっという間に高くなっていった。


 だから、その俺のお気に入りと見せかけたライムに手出しするヤツは、多分ここにはいないはずだった。


 キャップは問題ない。ノンケだ。あの男は、母船に捕った魚を移す時に、女奴隷を自室に連れ込んでいる。その手引きの役目は‥‥俺だ。



 この船に、俺自身にガチ恋してる男が数人いるのに気づいてはいた。その1人がヤーンだった。そいつらを牽制しておくのに、ライムは無自覚のままに俺の役に立ってくれてもいた。



 ───ここに来て反作用が出た。



 ヤーンの俺への歪んだ恋愛感情による嫉妬が、ライムに向かった。


 ライムへの憎しみが、駄々もれになっていた。ライムは自分の状況を何もわかっていなかったし、気づいてさえいなかったのに。


 その恋は、この船の状況が作り出した、ただの虚像だと言うのに。



 直接ライムとの仲を問われたから俺は否定したが、ヤーンは信じなかった。


 まあ、気持ちはわかる。俺がそう見えるように振る舞って来たのだから。



 ───その結果が。



 ライムに良かれと思ってしたことが、今回こんな最悪な裏目となって現れるなんて思いもしなかった。



 とにかくライムを海から拾わなくては!!


 それなのにキャップは───



「駄目だ。そのまま静かに進んでこの海域を速やかに通り抜けろ。この辺りはイスターン国の巡視船の目が厳しい。バーディー島に近いからな。やつらに見つかったら巻くも厄介だ」



 その非情に、ソムラータさんが異を唱えようとした。


「待って下さい、キャップ───」


「あー? 船長の俺に逆らうつもりか?」


 ソムラータさんが青ざめる。アーティムさんの銃殺が過ったんだろう。



「しかし‥‥‥」


 彼の怪我を熱心に看護してくれたのはライムだ。恩がある。


 しかしここで言い張れば、ソムラータさんだって殺され兼ねない。もちろんライムも助けることなど。


 俺もキャップを何とか納得させられる抗弁をしたいのだけれど、思いつかない。下手なことを言えば、俺だって簡単に殺られる。しかしこのままでは!



「‥‥キャップ、10分だけ時間を下さい。俺が───」



 俺の言葉は戻って来たヤーンによって遮られた。



「キャップ、救難浮き輪のロープも切れてしまい、ライムはさらに潮で流され、双眼鏡でも見失いました!」


 つかつかとやって来て、キャップに敬礼した。



 待て、あのロープが切れることなんて滅多にあることじゃない‥‥‥


 俺が確認しようと操舵室のドアに手をかけた瞬間、キャップに制止された。



「ならば、もう手遅れだ。仕方がないな? チャイミ。ガキ1人より、この船とここにいる全員の方が大事だろう? もし警備船に捕まって損害が出たら、その分は、連帯責任として乗組員全員の借金に均等にして上乗せだ」


「そんな‥‥‥」



 それでは俺たち3人は、乗組員全員を敵に回してしまう。


 絶句するソムラータさんと俺を尻目に、キャップとヤーンの行動は素早かった。



「速やかに元の航路へ。ヤーン周囲の警戒を!」


「了解」


 キャップは自ら舵を取った。


「チャイミ、機関長を呼んでこい! ソムラータはもういいから餌の仕込みを始めとけ!」



 ───済まない‥‥‥ライム。



 俺には何の力も無い。一生許されることなんて、無いだろう‥‥‥



 今戻れば助けられるはずなのに。それなのに───



 悔しさで頭がクラクラする。自分の無能が恨めしい。



 ソムラータさんが、俺に慰めを言った。



「チャイミ、私はライムにはまだ希望はあると思う。わずかだが────」



 ソムラータさん、それって? こんな広い海に身一つで投げ出されて希望なんてあるわけないだろ。


 俺たちは一生、この罪悪感を背負って生きていかなければならない。



 こうなった発端は俺にある。ああ、そうだ。そもそも俺が初対面のライムに同情などしなければ───放っておけば良かったんだ。


 ここでは仲間意識を持つな、他人を護ろうとするなって、ライムに教えたのは、この俺だってのに‥‥‥アハハハ‥‥‥ハハ‥‥‥


 

 ───滑稽だ。



 今頃ライムは、死への恐怖に苛まれながら、見捨てた俺を恨んでいることだろう‥‥‥





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