第4話 泣き虫のボクだけど〈ライム〉

 美しい満天の星空の下、潮風に吹かれているデッキの後方。


 水のベールの奥に沈んで見えなくなったアーティムさんの体。


 アーティムさんがここで心を許す仲だったのは、多分ソムラータさんだけだった。一体、何年の間ここで共に過ごしていたんだろう? まだ来て間もないボクには詳しいことはわからない。



 ごめんなさい。こんな大きな暗い海に一人きりで置き去りにして。



 ──どうか、アーティムさんが迷わず天国に行けますように‥‥‥



「‥‥‥ぐっ‥‥‥ううっ‥‥‥」


 どうにか涙をこらえようとするけれど、ボクには無理だ。



「‥‥こんなの初めてだろうし。ライムが泣くのも無理はない」


 船縁を掴んで底知れぬ水面を見つめるボクの肩に、チャイミさんが横からそっと片手をかけた。


「チャイミさん、僕たち、生きて帰れるんでしょうか? 今までにこの船を無事に降りた人はいるんですか?」


 この船は滅多に港には近づかない。



 チャイミさんが口を開く前に、後方から声がした。


「少なくとも、俺は知らないな。そんなヤツ。逃げたヤツならいたけど、捕まって他の船に売られてたな。借金は倍になったらしい」


 キャドさんだ。右舷で一人黄昏ていたキャドさんがこちらに来た。


「と、言うことで、チャイミだって知ってることは同じだ。俺たちは同じ日に、この船に来たんだから、な?」


 キャドさんが同意を求めるように、チャイミさんの肩にポンと手を置いた。


「‥‥‥キャド」


 チャイミさんが気遣しげにボクをチラリ見た。敢えて今まで言わなかったんだ。ボクに希望を捨てさせないように。


 自分が売られた代価が、自分の借金になるなんてどうかしてる。


 こんな光景と話を目の当たりにして、あの一方的な、3年拘束の理不尽な契約書でさえ守られるかどうか疑問に思う。



 チャイミさんがポツリと呟く。


「ここでは人は使い捨てだ。ただの消耗品。気に入らなきゃ棄てる。壊れたら棄てる。誰かが事故で海に投げ出されても、船は止まることはない」


 暗い顔でキャドさんが呟く。


「ソムラータさんの場合、舵も取れるし海にも詳しいからな、海の男として有能だからあの状態でも残されたんだろうけど、体調が悪化したり回復が遅れたら‥‥‥」


「ああ。彼はまだ、ここに残れて良かった。母船に乗せられたら間違いなくそのまま海に棄てられる」


 その言葉にボクは愕然とする。



 なんて世界だ!!



「‥‥‥そんな‥‥そんなのは嫌だ! うううっ‥‥‥うわーっん」


 ボクは幼い子どものように泣き出した。これは自分でも止められない。


「ライム‥‥‥」


 チャイミさんがボクを抱き締めた。ボクはチャイミさんの胸に涙を押し付ける。


 キャドさんが加わって、チャイミさんとボクを覆うように両腕で包み込んだ。



 チャイミさんの胸を借りて、背中にはキャドさんの体温を感じて、ボクは泣いた。次から次に湧いてくる涙に恥ずかしさは感じない。



 ボクたちは生きている。


 誰もが同じようにこうして息をして生きているのに────



 支配するものと支配されるもの。


 どうして、こんな風に分かれてしまうんだろう?


 ボクにはわからない。


 このような状況を生み出す元凶が。

 ボクが不本意にも放り出された、この世界の仕組みが。



 ただ弱く、力も無いボクは、愚かにも泣くことしが出来ないんだ。


 ボクはこんな自分が恨めしい。


 ねえ、ボクに出来ることは無いの?



 ‥‥‥あ。



 あるかも知れない。だってボクは────



 *



 乗組員たちは、食堂や、大部屋、あるいは箱のような3段ベッドの中で、あの銃声を聞いたことだろう。そして、今夜何が起こったか、大体の想像はついているんだ。


 今夜の見張りのヤーンさんとサナンさんがそこの操舵室にいるけれど、この出来事に関わり合いたくないのか、知らんぷりしていた。


 同じ船員が亡くなって海に葬送されるその時にも。


 ボクたち3人が、今こうして慰め合っていても。



 ならば、今ならチャイミさんとキャドさんに話してもいいかも知れない。



 彼らは反対するだろうか? ボクの思いついた考えに。


 その前に、ボクの仲間になってくれるだろうか? だって、チャイミさんは言っていた。



《ここでは誰にも仲間意識は持つな。他人を守ろうとする心はキャップに利用される》



 初めて会ったその日から、ボクの心の中ではこの二人を勝手に仲間認定していた。



「あの。このままの姿勢で聞いて下さい。ヤーンさんたちに聞かれないように」


「どうした? 言ってみろ」


 キャドさんが操舵室をチラリと見たのが分かった。


「ボク、試してみたいことがあるんですけど、協力して頂けませんか?」



 ボクは今まで誰にも言わないで隠していたことを二人に話した。

 そして、これからしようと思いついたことも。





「可能性はあるけど。もし、たどり着く前に捕まったら見せしめの拷問だ‥‥」


 チャイミさんが息だけの声で、悩ましげに言った。


「‥‥‥でも、チャンスではある。ライムは家に帰れるし、拉致された人たちがここにいるって知らせることが出来る可能性があるぜ? だけど、失敗すればライムはヤバい危険に晒されるわけで‥‥‥」


 キャドさんは賛成? 反対? 


「だって、ボクたちだっていつケガをして働けなくなるかわからないじゃないですか! いつ船から落下するかも知れない。その時には手遅れですよ? ボク、二人に迷惑はかけません」


「‥‥‥落ち着け、ライム。ひとまずこれは置いておこう。今、お前は神経が立っていて冷静に考えていないんだ。俺たちだって、慎重に考える時間が必要だ」


 チャイミさんはボクを心配してくれてる。


「そうかも知れないけど‥‥‥」


 キャドさんが、後ろからボクの耳にささやいた。


「黙れ。足音がする。‥‥いいか? ライム、そのこと、絶対誰にも話すなよ?」



 近づいてくる靴の音が側で止まった。


「おい、お前ら! ソムラータを流したんだろ? 部屋に戻れ。もう、気が済んだんだろ。いつまでもそこでメソメソされてても目障りだ」


 ヤーンさんに急に声をかけられて、抱き合っていたボクたちはそれを合図にほどけた。


 大丈夫。今の話は聞かれてはいないはず。



 ボクは涙が流れ過ぎて、もやもやした目をこすりながら言った。


「違いますよ。亡くなったのはアーティムさんです‥‥」


「えっっ? どういうこと?」


 ヤーンさんは、ケガをして働けないソムラータさんが、キャップに銃でトドメを刺されて棄てられたと勘違いしてたんだ。


 ここではそれが通常だから? 非情だ。



「アーティムさんはソムラータさんの治療の処遇についてキャップに抗議したんです‥‥そしたら‥‥そしたらキャップがいきなり‥‥‥ぶうぇっ‥‥グズッ‥‥うううっ‥‥」


 思い出したらまた涙が止まらない‥‥‥


「マジかよ‥‥‥じゃ、ソムラータは?」


「隔離室で休んでます‥‥。ボクが‥‥ぐずっ‥‥仕事の合間に世話するつもりです‥‥きっと‥‥良くなります‥‥‥だから、お願いします。このままにしておいて‥‥ぶうぇっ‥‥ズズズ‥‥‥」


「‥‥‥そうか。それ、俺に言われてもな‥‥‥。お前ら、早く寝ろ。俺らはただでさえ寝不足だ。体力落ちたらこっちまでケガすんぜ? 死んだヤツのこと、いつまでも引きずってんな!」



 ヤーンさんは嫌なヤツだけど、全てが意地悪ってわけじゃない。彼には彼の、ここで生き抜くための振る舞い方があるんだ。彼は悪じゃない。わかってるけど、やはり冷たいと思う。



「だな。ヤーン、今夜は寝ずの当番ご苦労さん。じゃ、俺らは次に備えて寝ることにしよう」


 チャイミさんはいつもスマートだ。彼がヤーンさんをねぎらうと、ヤーンさんの顔が緩んだ。


「ああ、キャドさんも、チャイミさんも大変だったな。おやすみ」


 さっきまでの態度は軟化して、ボクたちにねぎらいの言葉をかけるとは。


 チャイミさんにかかれば、ヤーンさんも手のひらの上?



 ヤーンさんには今の話を聞かれてはいないと確信してボクたちは目配せした。



 ボクは眠れそうになかったから、ソムラータさんのいる部屋に寝袋を持って行って、看病しながら休むことにした。



 ***



 ソムラータさんが寝ている部屋に戻ると、彼は一人むせび泣いていたようだった。



「大丈夫ですか? 痛み止め、効いてますか?」


「‥‥‥アーティはもう?」


 ボクの質問には答えなかった。


「ボクたち3人で水葬しました。ボク、天国に行けるように星空にたくさん祈りましたから、直行してると思います」


 ソムラータさんは自分を責めているに違いないから、少しでも罪悪感から逃れて欲しい。ソムラータさんに罪などない。


「‥‥ありがとな、ライム。ウウウッ‥‥‥ライムみたいな、私の息子よりも下の子どもがこんなところにいるのは胸が痛むよ」


「ゆっくり休んで下さい。ソムラータさんが良くなるまで、仕事の合間にボクが看護しますから」


「‥‥‥ありがとう。私はもう寝るから。ライムも休みなさい。おやすみ‥‥‥」



 無理に微笑んだその顔。ボクのために。


 ボクはみんなを助けたい。もしかしたらボクになら出来るかも知れない。



「具合が悪い時は起こしてください。ソムラータさん、おやすみなさい‥‥‥」


 そうは言っても、あと3時間でボクの仕事はまた始まる。



 終わりは見えないまま────







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る