第36話
翌朝早く、私は荷物をまとめるとアンとジュールが待つ1階に降りた。
何かを察してか、珍しくブルーがずっと着いてくる。
ばたばたとした準備にはなったがそもそも持ち物は少ないので、さほど問題にはならなかった。
「ブルー、危ないぞ。尻尾を踏んでしまいそうだ」
ブルーはくうん、という音を鼻から鳴らすとこちらを見上げた。
毛足の長い頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
「忘れ物ないか?」
玄関からジュールの声がする。
私はブルーの頭から手を離すと、トランクを両手で持ち上げた。
ここが数カ月前までは見知らぬ家だったということが今では信じられないような気分だった。
大きくとられた窓からは私のハーブ園が見えるし、キッチンに吊り下げて乾かしている薬草は、先週私が摘んできたばかりだ。
やっと使い方を覚えたオーブン、私のためにとジュールが買ってきてくれたティーカップ、初めて来た時より、少し物が増えている。
背中に温かい手が添えられ、私はジュールを見上げた。
ジュールは優しくほほ笑むと、驚くぞ、と言って玄関を開けた。
「な、これは……」
私は目の前の光景に言葉を失った。
家の前には、多くの人が集まっていた。
若い女性に手を引かれたミミ、母親なのだろう。
スコット家の老女と寄り添うようにしているアイリス。
クラバートの隣にはクリフォードが立っている。
トーマの車いすはアルが押していた。
「ふふふ、びっくりした? サプライズよ」
アンが嬉しそうに笑う。
私は何と言っていいのか分からずアンを見上げた。
「あなたがこの森を離れるって話をしたら、皆が見送りに来てくれたの」
私は集まった人々を見回した。
全員の視線が私に降り注がれている。
でもそれは今まで恐れていたようなものではなかった。
私はそっと眼帯に触れた。
「エマ! 行っちゃいやだ!」
駆けだしてきたミミが私に抱きついた。
泣いたのだろう、頬が濡れていた。
「ミミ」
「やだ!」
ミミはいやいやをするように私の胸に頭を擦りつける。
せっかくのおさげがくしゃくしゃになってしまっていた。
私はミミの身体をそっと離すと、トランクから一冊の本を取り出した。
ジュールにもらった、おとぎ話の本だ。
「ミミ、これを覚えているか?」
私は本の間から、初めてミミに出会った日に握らされた花を手に取った。
押し花になったそれは色こそ多少褪せているものの、あの日のままの姿を保っている。
「……おともだちの印?」
「そうだ」
私は押し花を本の間に戻すと続けた。
「たとえ離れていても、私たちは」
ここで言葉が詰まってしまう。
ミミのうるんだ大きな瞳がこちらを見つめている。
私は顔が熱くなるのを感じて、ミミから顔をそむけた。
「私たちは、と」
「と?」
ええい、と私は真っすぐにミミに向き直った。
「ともだちだ!」
ミミの顔に満面の笑みが広がる。
太陽のような眩しさに、私は思わず目をしばたたいた。
「お迎えに上がりました。おや、これはこれは皆様お揃いで」
馬車が到着し、御者席から降りたユーリが言った。
長旅に軍服では目立ちすぎるのだろう、今日は商人風の身なりをしている。
私は無言で荷物をユーリに押し付ける。
ユーリは苦笑しながらも恭しく受け取ると、馬車につけた。
「それでは、よろしいですね?」
ユーリが言いながら扉を開ける。
私は頷くと、馬車のステップに脚を掛けた。
「エマ!」
こらえきれなくなったようなアンの声が背後で響いた。
乗り込もうとしていた脚が止まる。
「いつでも森に帰ってきていいのよ! あなたのこと、愛していいるわ!」
気が付くと、私は駆けだし、アンをきつく抱きしめていた。
驚いたようなアンの顔が、しかしすぐに涙をいっぱいにたたえた微笑みにかわる。
アンの温かい腕が、何度も何度も私を抱きしめてくれた細い腕が、私を抱きとめる。
「私もあなたたちを愛している」
アンの腕の中で、私は初めてそう言った。
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