第33話
泣き疲れて眠ってしまったアルを個室に寝かせると、トーマと私はダイニングに戻った。
アイリスは今回のことは自分にも非があるから、と罪に問うことはしないと言って、帰っていった。
「エマ、今回はありがとうございました。まさかとは思いましたが……」
パシンッと乾いた音がして、トーマの言葉が遮られた。
打たれ、頬を赤くしたトーマが驚いたようにこちらを見つめている。
「ふざけるなよ」
私は言った。
トーマを打った掌がじんじんと熱かった。
「おまえ、アルが犯人だと気づいていたな?」
「……なぜ、そう思うのです?」
トーマからは、先ほどまでの和やかな雰囲気は消えていた。
部屋は薄暗く、10月の冷気が部屋中を満たしていた。
「あんたは私が焼いたケーキを他の人間に食べさせないで、まずは自分が食べようとした。ご丁寧にトッピングの木の実はよけてな。アルは気が付かなかったみたいだが。」
トーマは何も答えない。
私は続けた。
「ブルーの腹を下させたのもおまえだな、おおかた、配達に来たブルーに腹下しでも食わせたのだろう。そのうえで診察に応じて、お礼のジャムを口実にアンが家に来るように仕向けたんだ。
わざわざアイリスが来るのと同じ日時を指定してな。
アンには薬草の知識がある。アイリスの話を聞かせて、アンに見つけさせたかったんだろうよ」
「……かすかな望みでした。偶然が起きればいいと。まさか、ここまでとは思いませんでしたよ」
トーマはふっと笑うと車いすの車輪に手を掛けた。
床板がぎしぎしと音を立てる。
「おっしゃる通りです。アイリスさんから馬の話を聞いたとき、私はアルの仕業だと気が付きました。
コヨティロについては、知識としては知っていましたから。
ただ、アルが街の封鎖を知らなかったとは……。なぜわかったんです?」
「アルは文字が読めないだろ」
トーマの顔に驚きが広がる。
「なぜ、そこまで」
「コヨティロの薬瓶のラベルだよ。隠すつもりなら他の薬瓶にあわせて適当に名前を入れるが、あの薬瓶のラベルは空白だった。
実際に私もそれで見つけたしな。アルは書かなかったんじゃない。書けなかったんだ」
トーマは何も言わずにこちらを見つめている。
私は続けた。
「アンもジュールも疫病のことは新聞で知ったと言っていたし、封鎖令も大方立て看板やなんかだろう。
読み書きができなければ知りようもない。あんたもそれどころじゃなかっただろうしな」
トーマは答えない。
ただ自分の両脚に視線を落としている。
「なぜ自分でアルに尋ねなかったんだ」
「……できるわけないでしょう」
「なぜだ」
「私が敵に回ってしまったら、アルはどうするんです? 彼は、また一人になってしまう!!」
トーマはそこで一度区切ると息をついた。
しばしの沈黙が暗闇を満たす。
トーマは再び口を開いた。
「もう、あの子を一人ぼっちにはさせたくなかったんです」
「一人ぼっちにはなりたくなかった、の間違いだろう」
トーマは弾かれたように顔を上げた。
私はトーマの顔を真っすぐに見据えた。
「お前はアルのためを思って黙っていたんじゃない、お前がアルに嫌われたくなかったから黙っていたんだ。
アルに嫌われて、一人ぼっちになるのが怖かったんだ」
トーマは何も言わない。
私は続けた。
「アンは料理に私の嫌いな人参もピーマンも入れるんだ。
何度残してもやっぱりいれる。みじん切りにしてみたり、形の分からなくなるくらい煮込んでみたり、手を変え品を変え何が何でも入れる。
でも、それはアンが私のためになると思うからだ。私のためになるなら嫌われたってかまわないからだ」
「……何の話ですか」
トーマが呟く。
疲れたような声だった。私は無視してつづけた。
「お前なんかより、アルのほうがよっぽど怖かったはずだぞ」
「――っ!」
トーマは一瞬、何かこらえるような表情をこちらに向けた。
しかしすぐにそれは消え、いつもの穏やかな表情が戻っていた。
「私は、アルに謝らなければいけませんね。彼がもっと頼れる大人でありたい」
「そうだな」
私は頷くと続けた。
「お前たちは家族なのだから」
短く答えてやると、トーマは一瞬目を見開き、そしてしっかりと頷いた。
私は空になったかごをテーブルの上から拾い上げた。
ついでにコヨティロの瓶も回収する。
「あなた、本当は何者なんです?」
トーマが言う。
私は逡巡して口を開いた――その時だった。
「それ、私も知りたいですね」
突然見知らぬ声が降ってきて、私は振り返った。
背後の扉はいつの間にか開いており、背の高い男が戸口にもたれかかるように立っている。
赤い長髪を後ろで一つに束ね、薄く白い耳には銀の飾りが片方だけはまっている。
瞳はほほ笑んでいるように細められていたが、笑っているのか、それが通常の表情なのか分からなかった。
「よかったら、少しお話聞かせてくれませんかね?」
赤髪の男はそう言うと、にこりとほほ笑んだ。
胡散臭い笑顔だった。
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