第32話

「よくもトーマに毒を!」


アルは叫ぶやいなや、私の襟を両手でつかみ上げた。

首が締まり、ひゅうという息が漏れる。

アイリスが悲鳴をあげる。


「……っ、毒なんかじゃない」


私は辛うじて出せる声で言った。


「これはクロモジという東洋の木の実だ。せいぜい血圧を下げるくらいの効果しかないよ。」


アルの手から力が抜けた。

一気に軌道に空気が流れ込み、私はせき込んだ。

慌てたアイリスが私に駆け寄り、背中をさする。


「これは、いったいどういうことなんです?」


トーマが困惑した表情で尋ねた。アルは黙り込んだまま、こちらをにらみつけている。

私はため息をつくと、かごの中から薬瓶を一つ取り出してテーブルに置いた。

先日、保管庫からくすねた薬瓶だった。


「ケーキに載っている木の実でしょうか……?」


薬瓶を覗き込むアイリスに、私は首を振って見せた。


「これはコヨティロ、強い毒性のある木の実だ。

 摂取して数日から数週間後に足先の麻痺、それから四肢が動かなくなって、最後には呼吸器系もやられてしまう恐ろしいものだよ」

「摂取してしばらくしてから麻痺って……、まさか!」


私はアイリスに向かって頷いて見せると続けた。


「そう、家畜の不審死の原因はこの木の実だ。おそらく、ここで預かっている間に餌に混ぜたんだろう。

 コヨティロの毒はすぐには効かない。だから家畜の死んだ時期が様々だったんだろうな」

「そんな……。こんな、ただの木の実が……」


アイリスは信じられないといった顔で薬瓶の中を見つめている。


「アル、お前はこの木の実の正体を知っていた。だから似た木の実を見てコヨティロだと思い込んだんだ。

 コヨティロもクロモジもこの国では採れないからな」


全員の視線がアルに集まる。

アルはうつむいたままだったが、しばらくして口を開いた。


「コヨティロっていうんだね……。名前も、知らなかったよ……」


トーマが車いすを動かし、アルの傍に寄りそう。


「でも、どうして動物たちを殺したんだい?」


静かな声でトーマが尋ねる。

アルは唇をきつく噛んだままで答えなかった。

私は小さく息をつくと、後を引き取るように言った。


「牛や羊はコヨティロの効果の確認だったんだろう。本来の目的を果たすためのな」

「本来の目的……?」


アイリスが困惑した表情を向ける。

私は頷くと続けた。


「あなただよ、アイリス」

「え……」


アイリスが口に手を当てる。


「トーマが馬に蹴られて脚を怪我したのは二年前の秋、その馬はアイリス、あなたの馬だった」


アイリスは小さく唇を震わせている。

当然だ、人からあからさまな悪意を、殺意を向けられていたことを知って平気な人はいない。


「トーマは動けず、熱も出していた。おそらくアルは人に助けを求めただろう。

 一番近いアンとジュールはその頃森を留守にしていたし、アルは街に、まずはあなたのところに助けを求めに行ったはずだ」


アイリスは全てを理解したようだった。

青ざめた顔に驚きと苦さが広がる。


「ここからはただの推論だが、アイリス、あなたはアルに森に帰るように言ったんじゃないか? 家から出ることもせずに」

「そうだよ!!!」


アイリスが答える間もなく、アルが叫んだ。

アルの瞳は、いまやアイリスを射殺してしまいそうなほど強い恨みに燃えていた。


「二年前の秋、あんたの馬に蹴られたトーマはひどい状況だった!僕はすぐにあんたの所に助けを呼びに行った。

 けど、どんなに呼び鈴を鳴らしても、玄関から誰も出て来やしない。

 喉がちぎれるくらい叫んで、やっとバルコニーから出てきたあんたは俺に向かってなんて言ったと思う?!」


アルの目にはいっぱいに涙が溜まっていた。

そのまま、振り絞るようにアルが叫ぶ。


「あんたは言ったんだ!『あなたはここにいるべきじゃない、さっさと森に帰りなさい』って! それからはどんなに僕が呼んでも決して出て来やしなかった!

 それで、それでトーマの脚は……!」


そこまで言うと、アルは悔しそうに唇を噛んで肩を震わせた。


「だから俺、あんたの馬に毒を飲ませて、あんたが落馬でもすればいいと思ったんだ……」

「そういうこと、だったのね……」


アイリスはそれだけ言うと、静かに立ち上がった。

まだ少し青い顔をしてはいるが、いつもの彼女らしさを取り戻したようだった。

アイリスは、歩み寄り、アルを引き寄せるとぎゅっと抱きしめた。


「……っ何を!」

「その日にね、私の父は死んだの」

「は……?」


アイリスから身体を離そうと暴れていたアルの腕から力が抜けた。

アイリスはしっかりとアルを抱きしめたまま続けた。


「あなたが尋ねてきたとき、街は疫病に侵され封鎖されていたの。 どの家も窓やドアを開けることを固く禁じられていた。

 父もその病に侵されていて、私たちは遺された最期の時間を過ごしていたの。

 私たちには時間がなくて、だからあなたには森に帰るように言うしかできなかった。でも、それであなたを傷つけてしまった」


アイリスの瞳には大粒の涙が溜まっていた。

それをこぼしてしまわないよう、目をしっかりと見開いていた。

アルを抱きしめる腕には力が籠められ、指先が白く、かすかにふるえていた。


「ごめんなさい」


アイリスは言った。

凛とした、強い声だった。


「そんな……」


アルは力なくつぶやいた。トーマはそっとアイリスの腕に触れると、その手をほどかせた。

アルの身体が静かに離れる。

トーマはアルを目の前に立たせると、その顔を真っすぐに覗き込んだ。


「アル、私はこの怪我でスコット家の皆さんを恨んだことは一度もないのですよ」

「え……?」


乾いたアルの唇から声が漏れる。


「疫病が過ぎた後、私たちに家畜の検診の仕事を斡旋してくれたのは彼らです。

 この車いすも、アイリス様の御父上が使っていらしたのを譲ってくださったのですよ。

 そうでなければ、私には手に入れることができるものではありませんでした」

「なんだよそれ……。トーマも恨んでたんじゃなかったの……?」


自嘲的な響きを含んだ声が、うつむいたままのアルから漏れる。


「それなら、それなら僕は、たった一人で、このぐちゃぐちゃをどうすればいいんだよお……」


アルは自分の胸のあたりを乱暴に掴むとぐしゃっと顔をゆがめた。

グレーの瞳はもはや燃えてはいなかった。

涙でいっぱいになった瞳はただ、混乱して、震えていた。

私はアルの腕をつかんだ。


「終わらせるんだ」


アルが歪んだ瞳をこちらに向ける。

たくさん傷ついたであろう心が全身で悲鳴を上げているのが分かった。


「それはお前にしかできないんだ。それに」


私はアルの目を真っすぐに見つめ返した。


「お前はもう、ひとりじゃないだろう」


アルの目が見開かれた。

私を、アイリスを、そして最後にトーマを、その瞳が順番にとらえる。


「……ごめんなさい」


アルは言った。

それから、何度も、何度も。

死んだ動物たちの数だけ、声が枯れてしまうまで、アルは謝り続けた。

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