第30話
「……何をしているのだろうか」
慌てたように私の熱を測ろうとするアンを手で制し、私は言った。
アンは気まずそうに私の額に当てていた手を引っ込める。
「あらやだごめんなさい、エマが自分からトーマ先生に会いたいなんて言うから、私てっきり熱でもあるのかと……」
失礼な話である。
私はため息をつくと続けた。
「ほんの快気祝いにケーキを焼いてやろうと思っただけだ」
聞くや否や、今度はジュールが飛んできて窓から空を指さす。
「今日は雪が降るに違いないぞ!」
「たいへん! お洗濯ものしまわなくちゃ!」
ジュールに便乗するアン。
ブルーまでもが、まるで雪遊びをするかのように走り回っている。
「アン、ジュール……」
じっとりとした私の視線を感じてか、アンとジュールは気まずそうに笑いながら戻ってきた。
「とにかく、キッチン借りるからな!」
「あ、ちょっと作り方なら私が……!」
私はアンの言葉を無視してキッチンに続くドアを音を立てて閉めた。
アンとジュールはばたんという音に一瞬首をすくめたが、今頃嬉しそうに笑いあっているに違いなかった。
「でも、あの子、ケーキなんて作れたかしら?」
アンの声が聞こえた気がした。
それから1時間後。
「……アン、すまないが手を貸してもらえないだろうか」
私は見るも無残に黒焦げた塊をアンの前に晒していた。
アンは、あらあら、と口では言いながら、やけに嬉しそうに私の呼び出しに応じてくれた。
(ケーキとはこんなにも手間のかかる料理だったのか……)
私は隣でオーブンの薪の様子を確かめているアンを見上げた。
アンはなぜか機嫌がよく、鼻歌まで歌っている。
「煩わせてしまってすまなかった」
「ふふふ。私ね、エマはなんでも一人でできちゃうと思っていたわ」
「……がっかりさせしまったな」
まさか! と、アンは手をとめてこちらに向き合った。
「私、うれしいのよ。あなたが私を頼ってくれて」
うれしいの――そう、もう一度繰り返すと、アンはミトンを手から外した。
草いじりや料理で使い込まれたアンの手は日に焼けて皺も刻まれていたが、美しかった。
「あなたがもっと私たちを頼ってくれたらいいのにってずっと思っていたの」
「それは、私がまだ子どもだからか?」
「いいえ」
アンは静かに首を振ると、私と目線を合わせるように屈みこんだ。
透き通った瞳がこちらを真っすぐに見つめる。
「あなたが私たちの家族だからよ」
聞きなれない言葉だった。
けれど、なんだか気の抜けるような、逆に満たされるような、居心地の悪いような、むしろ安心できるような、不思議な響きのする言葉だと思った。
何も言えずにいる私に微笑みかけると、アンは立ち上がりながら続けた。
「それに私、お料理大好きなんだから」
オーブンからは、香ばしい、甘い香りが漂い始めていた。
アンが満足そうに息を吸いこむ。
「料理をするときはね、いつもあなたのことを考えているのよ」
「私のことを?」
私はアンを見上げた。
こげ茶の優しい瞳がこちらを見かえす。
「そう。あなたがたっぷりの栄養ですくすく育っていけるように、って」
「……その栄養の中にはどうやら私の苦手なにんじんも含まれているようだな」
「もちろん!」
そういうとアンは快活に笑った。
柔らかい身体が包み込むように私を抱きしめる。
私は体勢を崩し、思わずアンに身を預ける形になってしまった。
アンの身体からは焼きたてのパンのような甘い香りがする。
「にんじんだって、ピーマンだって、あなたのためになるものは全部与えてあげたい。たとえあなたに嫌われたとしてもね」
アンの息が耳もとにかかるのを私はくすぐったいような気持ちで聞いていた。
「……うっ、うっ」
気づくと吐息はすすり泣きに変わっている。
私は驚いて身体を離すとアンに向き直った。
「な、なんだ?! どうした?!」
「やっぱりエマに嫌われるのはやだああーーーーっ」
気が付けば私の首に腕を回したまま、アンが号泣している。
「エマ! アン! 大丈夫か!」
ばん! とキッチンのドアが開き、泣き声をききつけたジュールが慌てて飛び込んでくる。
興奮したブルーまでわふわふと鼻息を荒くしながら後に続く。
(たとえ嫌われても、か)
私はまだしゃくりあげていアンの柔らかい髪をそっと撫でた。
状況の飲み込めていないジュールはオーブンの前と私たちの間とを右往左往しているし、
ブルーはブルーで、混ぜて、と言わんばかりにまとわりついてくる。
私はそのままアンの腕に身を任せていた。
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