第29話
トーマの家は医者の家らしく、薬草は全て一か所に整理されていた。
キッチンの裏にある小さなスペースで、四方を囲む壁面に備え付けの棚には、小瓶に入った薬品がきれいに並べられている。
ラベルにはすべて丁寧な文字で薬品や薬草の名前が書かれていた。
(この身体には優しくない作りだな……)
私は腰に手を当ててため息をついた。
棚の位置はどれも高く、私の背では背伸びして一段目がやっとだ。
見渡す限り踏み台になるようなものもない。
仕方がないので、とりあえずは棚の一段目を探してみることにした。
(薬を隠すにはや薬棚の中が一番、と思ったんだが……)
瓶のラベルの文字を指で追いかけていると、目当ての瓶は存外にすぐに見つかった。
一つだけ、ラベルに何も書かれていない瓶が、四方を囲む棚の左端、大きな瓶の影になる場所に置かれていた。
瓶の中には指先ほどの大きさの黒い木の実が数粒転がっている。
(やはり、な……)
私は暗い気持ちで瓶の中の木の実を転がした。
いったいこんな悪趣味なもの、どこで手に入れたのやら。
私は瓶をポケットに滑り込ませた。
(――だが、隠し場所にしてはあまりに簡単すぎる、か?)
「何をしているの」
突然背後から声をかけられ、私は思わず肩を震わせた。
振り返ると、扉の影に隠れるようにして膝を抱えて座り込んだアルがこちらを見上げている。
私は飛び跳ねた心臓を落ち着かせると、薬瓶の棚を身体で隠すようにアルの方に振り返った。
「……脅かさないでくれ。解熱に使えるものを取りに来たんだ」
「ここは獣医だよ、人間用のはないし、あるなら君の家に行ったりしない」
私は目の端で素早く棚の薬瓶を眺め、二つの瓶を手に取り、アルに見せた。
「それは料理用だよ、薬じゃない」
「ああ、だがタイムには抗菌作用があるし、オーツ麦の利尿作用は熱の排出を促してくれる」
アルは目を丸くしてこちらを見つめた。
頬に涙の乾いた跡があった。
「君、本当に子ども?」
「そうらしいな」
私はそう言うと肩をすくめて見せた。
「それで、なぜこんなところに座ってたんだ。トーマのところに行かなくていいのか」
「……君には関係ないだろ」
泣きはらしたためか、はれぼったい瞼を重そうにしぱしぱさせている。
「用が済んだなら出てってくれよ。誰にも会いたくないんだ」
そう言うとアルは膝の間に顔をうずめてしまった。
私はため息をつく。
「わかったよ。お前は好きなだけそこで拗ねてろ」
「……! 拗ねてなんかない!」
アルは燃えるようなグレーの瞳でこちらをにらみつけた。
「君には分からないよ。のけ者にされて生きていくのがどういうことか。アンやジュールみたいな人に囲まれて育ったお嬢さんに、分かるわけない」
私はお嬢さん、という言葉で吹き出してしまった。
アルの顔がみるみる赤くなる。
「何がおかしいんだよ!」
「いや、悪い悪い」
私はそう言いながら手を振って見せた。
アルは変わらずにこちらをにらみつけている。
「のけ者の『恨み』は、分かるよ、私にだって」
私はそう言ってそっと自分の眼帯に触れた。
アルは何かを察したのか、真剣な表情になってこちらを見つめた。
「……アンとジュールが?」
「まさか! あの二人は底抜けのお人好しだよ。これはもっと古い傷だ」
「そっか……。君も捨てられたんだね」
100年以上前になるがな、とは言わずに私は黙ってうなずいた。
アルはふうっと息を吐くときつ脚を抱いていた腕をほどくと、床に手を下ろした。
そのまま上を見上げる。
子どもらしくない、暗い瞳が天井に向けられる。
「たまに、自分でもどうしていいのか分からなくなるんだ。ずっと前のことも今のことも一緒くたになって、急に腹の底から吹き上がってくる。
トーマがどんなに優しくても、それはいなくなってくれない」
アルは言ってしまうと小さな膝を両手で抱えた。
私は黙ってアルの言葉を聞いていた。
アルは続けた。
「トーマも」
「……え?」
「トーマも僕と同じ捨て子だったんだ。異国の血が混ざってるからって、随分ひどい思いをしてきたみたい。恨んでると思う」
私はアイリスの言葉を思い出していた。
交易の盛んな港湾の都市でもなければ、外国人などそうそう目にすることもない。
この地ではよほど奇異な目を向けられたに違いなかった。
トーマは好んで森に住み始めたのではなく、森に住むしかなかったのかもしれない。
私は口を開いた。
「なあアル、怒りや悲しみは時間が解決してくれる。
身体の傷だって――まあ、ほとんどは、だが――時間が癒してくれるものだ。だがな、恨みだけは違う」
アルがこちらに瞳を向けた。子どもらしい繊細さと、底なしの暗闇がまぜこぜになったような瞳だった。
私は静かに続けた。
「恨みだけは、自分の手で終わらせなきゃいけないんだ」
アルの瞳が揺れる。
小さな唇がためらいがちに動いた。
「君は、それができたの?」
「――100年以上かかったがな」
「え?」
なんでもない、というと私は立ち上がった。
尻についた埃を軽く払うと、薬瓶を二つ拾い上げる。
ねえ、とアルが声をあげた。
真剣なまなざしが私を見上げている。
「――僕にも、できるかな」
「さあな、そういうことはやってから考えるものだ」
アルは、なんだよそれ、と言うとクシャっと笑った。
始めて見せる、子どもらしい笑顔だった。
薬品庫を後にし、アンたちの元に戻るとトーマは熱が落ち着いたのか、身体を起こしていた。
少し疲れて見えるのは発熱のせいかアンとジュールに身体を拭かれたせいかはわからない。
「オーツ麦とタイムをもらった。煮だしておいてやるから、飲むといい。味には期待するなよ」
「すみません」
トーマはそう言うと微かに頭を下げた。
私はさっそくカップに煮だしたものを注ぐとトーマに手渡した。
トーマは顔をしかめながらその苦い液体を一口飲み下すと言った。
「それにしても、よくアルが薬草保管庫に入れてくれましたね」
「え?」
聞き返すとトーマは困ったように笑った。
「しばらく前から、アルがすっかりあの場所を独占してしまって。
薬も薬草も全部自分がとりに行くからって聞かないんですよ。子ども心は難しいものですね」
私は心臓が脈打つのを感じた。
あの木の実があったのは棚の一番下の段。
子どもの背では目と鼻の先だが、大人にとってみれば目線のはるか下になる。
そこは決して「簡単すぎる」隠し場所なんかではなかったとしたら?
そこにしか手が届かなかったのだとしたら?
私はおとなしくお茶をすするトーマに声を掛けた。
「――お前、その脚を怪我したの、2年前の秋じゃないか?」
「え? ええ、よくわかりましたね。怪我から熱も上がってしまって、しばらくは大変でしたよ。アルにも怖い思いをさせてしまいました……」
そういうことか。
私は深く息をついた。
だから、誰も助けてくれなかった、なのか。
私は暗い気持ちで保管庫の方に目を向けた。
薄暗い廊下の影に隠れるように、グレーの瞳が見えた気がした。
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