022 井戸の故障
「嘘……だろ……」
信じられなくて何度もハンドルを上下に動かす。
それでも、井戸はうんともすんとも言わなかった。
鉄と鉄の擦れるようなキュキュキュという音が鳴るだけだ。
まるで「もう疲れた」と泣いているようだった。
「馬鹿野郎! こんなタイミングで壊れることあるかよ!」
井戸に向かって怒鳴る。
もちろん相手は井戸なので何も言わない。
「雅人君……」
伊織は胸の前で手を組んで不安そうにしていた。
「大丈夫だ、伊織……!」
彼女の顔を見ていて冷静になる。
ここで俺が取り乱してしまってはおしまいだ。
「落ち着け一ノ瀬雅人、考えろ……!」
念じている言葉が口からこぼれる。
右に左に歩きながらどうすればいいか考えた。
そんな俺を、伊織はただ静かに見つめている。
目に涙を浮かべて。
「よし」
俺は大きく息を吐いた。
考えがまとまったのだ。
「伊織、改めて言う。大丈夫だ」
「本当に?」
「仮にこの井戸が二度と使えないとしよう。その時は川の水を煮沸して使うとしよう」
「煮沸……?」
「土器や水筒に汲んだ水を焚き火で似て沸騰させるんだ。そうすれば飲んでも大丈夫な水になる。もっともあの川は綺麗だったからそのままでも大丈夫とは思うけどな」
「なるほど!」
伊織の顔に安堵の色が広がる。
最悪の場合でもどうにかなると分かってホッとしたのだろう。
「だが、川に移動するのはあくまで非常手段だ。なにせ作業小屋はここと違って柵に囲われていない。それに川は大型の獣も水飲み場として使うから危険だ」
「じゃあ、まずは……井戸をなおす?」
俺は「そうだ」と頷いた。
「井戸の水が涸れたのか、それとも手押しポンプがイカれたのか。そのくらいの判断なら俺たちにだってできる。井戸自体が無事でポンプが壊れているだけなら、土器に紐を付けて井戸水を汲み上げればいい」
「おー!」
伊織が拍手する。
もはや不安は消え去っていた。
「そうと決まればまずは手押しポンプを家に運び込んで調べるとしよう」
「了解!」
井戸の口径は一般的なマンホールと同程度だ。
鉄製の蓋がしてあり、隅のほうにポンプが取り付けられている。
「ポンプと蓋はボルトで固定されているが、蓋自体はそのまま井戸に乗せてあるだけだ。このまま持ち上げて蓋ごと家に持っていこう」
まずは俺がポンプを両手で持ち上げる。
井戸の中からチャポンという音が聞こえてきた。
「伊織、このくらい上げたら大丈夫か?」
「うん!」
伊織が蓋の下に指を入れた。
「「せーの!」」
一気にポンプと蓋を上げる。
しかし、ここで予期せぬ問題が発生した。
ポンプの底、普段は見えない場所に長いパイプが付いていたのだ。
塩ビ管のような物で、井戸の奥に向かって長々とのびている。
ホースの役割をしているものだ。
「ホースがないと井戸水まで届かないもんな」
当たり前と言えば当たり前。
なのに、この期に及ぶまで気づかなかった。
「どうする?」と伊織。
「戻そう」
持ち上げたポンプと蓋を下ろす。
「ポンプを家に運ぶには、蓋とポンプのボルトを外し、さらにポンプに繋がっているパイプも外す必要がある」
状況を説明した。
「外すのはいいけど……」
「そう、問題は付けるほうだ。たぶん一度外したら付けられない」
なにせポンプは30年以上も放置されていたもの。
老朽化が著しく、剥き出しのボルトは錆びだらけだ。
ポンプとパイプも酷い状態だろう。
「かくなる上は仕方ない。この場でポンプの状態を調べよう」
「この場で?」
「おそらく問題はポンプにある」
「そうなの?」
「さっきポンプを上げた時、井戸から『ちゃぽん』という音が聞こえたからな。井戸水が涸れているならそんな音はしないはずだ」
「たしかに……!」
「あとはポンプのどこに問題があるかだ。パイプが詰まっているならお手上げだが、他の部位ならどうにかなるかもしれない」
手押しポンプは遥か昔から存在している。
それは言い換えると構造が単純であるということ。
点検・修理する箇所はそう多くないはずだ。
「とりあえずポンプを分解しよう」
俺は工具箱からモンキーレンチを取り出した。
それでポンプ側面のボルトを取り外しに掛かる。
伊織が何か言う前に作業内容を説明した。
「これはポンプ本体とハンドルを固定するボルトだ。このボルトならどうなろうと問題ない。いざとなれば別の方法で対応できるしな」
ナットを外し、ボルトを抜いた。
全てのボルトが抜けたらハンドルを持ち上げる。
ハンドルとそれに付随するピストン部が本体から外れた。
「これを家に運んでおいてくれ」
伊織は「ラジャ!」とハンドルを受け取った。
「おそらく本体は問題ないな……」
素人目に見た限り問題らしい問題は見当たらない。
見たくなかったな、と思える程の汚さをしているだけで。
「原因があるとすればハンドル、いや、ピストン部のはずだが……」
家に戻ってピストン部を確認する。
ハンドル本体は当然ながら何も問題ない。
そこから伸びるピストン部の棒も汚いだけで正常だ。
「そうなると、この栓に問題がありそうだな」
ピストン部の先端には栓が付いてある。
形は洗面台などのゴム栓と同じようなものだ。
「今さらだけど、手押しポンプってどういう仕組みで井戸水を吸い上げているの?」
栓のパッキンをくまなく眺めていると、伊織が尋ねてきた。
「俺も詳しく知っているわけじゃないが――」
予防線を張ってから答える。
「――採血用の注射器みたいなものだ。血管が井戸、注射器がポンプ、血を抜く際に引く注射器のケツについているパーツがハンドルさ」
「なるほど! じゃあポンプ内の気圧は真空状態になっているんだね!」
「そうそう。だからこの栓が劣化して隙間ができると水が吸い上げられなくなるわけだ」
しかし、素人目に見る限り栓も問題なかった。
パッキンがズレているかと思ったが、そんなことなかった。
(やべーな、原因が分からないぞ)
井戸とポンプに問題がないとすれば、原因はパイプにある。
その場合、土器を使って水を汲むことになるだろう。
「ここに大きな注射器があればいいのにね。そしたら一気に水を抜けるよ。ポンプと違って何度もハンドルをギコギコしなくていいし!」
伊織がユニークな冗談を言う。
俺に気遣ってくれたのだろう。
原因が特定できず密かに焦り始めていたのだ。
「ははは。それならポンプと違って――」
そこまで言った時、俺はハッとした。
「――あああああああああああ!」
「どうしたの雅人君!?」
「分かったぞ!」
「え、本当に!?」
「たぶん! でもきっとそうだ!」
俺はハンドルを持って家を飛び出した。
ポンプ本体にハンドルを取り付け、ボルトで固定する。
「伊織、水は出るか?」
「ううん、出ない!」
伊織はハンドルを動かすが、ポンプは無反応だった。
「では一度、家に戻ってくれ」
「え? あ、うん、分かった!」
伊織が言われたとおり家に戻る。
彼女からこちらの様子が見えなくなったところで俺はあることをした。
時間にして数秒の作業だ。
「伊織、もういいぞ」
「なになに、どうしたの?」
家から出てくる伊織。
そして次の瞬間、彼女の目はカッと開いた。
「ポンプがなおった!?」
「おう!」
うんともすんとも言わないポンプが一瞬でなおった。
たった数秒の作業によって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。