第二章 新しい世界

第14話 記憶

 たくさんの大人たちが行き交う、賑やかな街並みに、小さなアイシスは心を躍らせていた。

 大切なこの日のために選んだフリル付きの可愛いワンピースを着て、今日一日を楽しむための気合も十分。

 はぐれないよう父の大きな手を握りながらも、あちこちに見える洋服やアクセサリーが飾られたショーウィンドウがアイシスを誘惑し、ついつい足を止めてしまう。


 父のソウジは多忙で、家を空けることが多く、基本的にはスザキたち使用人が遊び相手だった。だが、今日のように休みの日は必ず一緒にいてくれる。

 前日にはどこに行きたいか、何がしたいかを聞いてくれるので、遠足前夜のように興奮して眠れないこともしばしば。

 今日は遊園地に行きたいという希望が叶えられ、こうして一緒に出掛けているのだ。けれど、いざ街に出ると誘惑が多くて目的を忘れそうになる。

 ソウジにどこかに寄るかと聞かれたが、今日は遊園地の日だと我慢した。次の機会でいいと。


 実際、我慢して苦しかったのはその一瞬で、遊園地に着いてからは楽しさで来る途中の店のことなど忘れていた。

 ソウジがヘトヘトになるのがおかしく、頬の筋肉が痛くなるほど笑い、いろいろなところへ連れまわした。

 これで<アイシスの幸せな日>に書くことがまた一つ増えた。


 楽しいひと時というのは一瞬。入場の時には頂点に達する気配もなかった太陽も、今では空を紅く染めて水平線に潜りそうになっている。

 ソウジがそろそろ時間だという。急に心が沈む。アイシスの小さい体は、まだまだ力が溢れて、遊園地内を駆け回ることができる。が、日々の寂しさに比べれば、父が一緒に遊んでくれたこと以上に嬉しい事はない。

 これ以上は高望み、と喉元で燻るわがままを呑み込み、「分かりました」満面の笑みで出口へ向かった。


「すまない、いつも寂しい思いをさせているのにな……また来よう」


 申し訳なさそうに悲し気な笑みを浮かべる父の言葉。また来よう、その響きがアイシスは好きだった。そう、次でも、次の次でも、またその次でも、また遊びに来たらいいのだ。

 次はどこがいいかな、と未来に思いを馳せて、先までの寂しさをもう忘れている。

 楽しさを胸に出口となるゲートに近づきつつあるときだった。


「ふざけんじゃねーぞ、この人形が!」


 遠くから男の怒鳴り声が聞こえて、アイシスはドキリとして足を止めた。

 ソウジも険しい表情で声の方を見ていた。その視線の先には人だかりができ、ざわついている。


「アイシス、ジュースでも買って、あそこのベンチで休んでなさい。ジュース、買えるね?」


 ソウジは優しく微笑み、木製のベンチを指さした。アイシスは胸の多くがざわざわして落ち着かなかったが、よく分からず頷いた。

 ソウジの指輪からアイシスの指輪に通貨が転送され、「どこにも行くんじゃないよ」と言い置き、ソウジは人だかりの方へと歩いていった。


 アイシスは言われた通りにした。オレンジジュースを買って、ベンチに座る。けれど胸の奥のざわざわが落ち着かず、オレンジジュースを開けることなく眺めていた。

 その時、人だかりの方からまた男の怒鳴り声が聞こえてきた。人々のざわめきが少し大きくなる。


 不安が膨れ上がり、いよいよいてもたってもいられなくなった。アイシスには珍しく父の言いつけを破り、人だかりへと駆け出した。

 ひしめく大人たちの間をすり抜け、最前列へと飛び出した時、アイシスは目の前の光景に息を呑む。


 五十前後の男が、ソウジの襟を掴み上げ、歯を剥き出しにして睨みつけている。けれど、一番衝撃を受けたのは、ソウジも同じように鋭い視線で男を睨み返していたことだった。そんなソウジの表情を一度も見たことが無かった。


 男の服装から遊園地の従業員だと分かる。いったい何があったのか知りたくて、あたりを見渡す。すると、ソウジの後ろに綺麗な水色の髪をした少年が横たわっていた。首にはリングがはめられている。

 年はアイシスより少し上に見えるが、いたるところに赤くはれた痣があり、痛々しかった。


「あんた、なんのつもりだ? そのコートの金の刺繍……男爵だろう! それがなんで邪魔をする!」

「爵位があろうがなかろうが、関係があるものか。子供に対して暴力をふるなど、恥を知れ!」


 初めて聞く父ソウジの怒鳴り声。反射的にアイシスは体を震わせた。相手の男もその迫力に押されたのか後退る。けれど、男も引き下がりはしなかった。


「ふ、ふざけるな! あんた人間だろ!」


 男の言動にソウジの目が一層険しくなる。


「この非国民が! そいつぁ子供じゃぁねー! バケモンからできた道具だ! 道具がひとりでに出歩くのなんておかしいだろうが! だいたい、子供だとして金を払わないのはおかしいだろ! そいつは、それもしないで入り込んだんだ! 殴られて当然だろ!」

「当然? この子たちが金銭を持たされないのは知っているであろう。論点がズレているな。どんな理由があろうと相手は子供だ、殴らず、注意するに留めればいい、そう言っている」

「殴って何が悪い? こいつらは俺らよりよっぽど頑丈だろ! こんなのは日常じゃ当たり前、誰もがしてることじゃねーか! それとも何か? 華族様は俺らとは違うってか?」


 男の言葉がチクリと刺さったように、一瞬ソウジの目に困惑を浮かび上がらせる。が、男は気付かず感情で言葉をまくし立てる。


「笑わせるな、あんたらの方がひでーじゃねーか。そいつら集めて、如何わしい店まで出してるくらいだ! おまけに俺ら人間でさえ使い捨てる。 自分達に回って来る金は俺たち平民から絞り取った税だろ! それなのに過労で誰が倒れようが知らんふりだ」


 ソウジの眼光はナイフのようにとがり、男を射抜く。口を慎め、そう言っているようだった。

 気迫に飲まれ、言葉を呑んだ男の身がすくむ。右腕を動かすソウジを恐れた男が自身の顔を腕で庇う。

 しかし、ソウジの右腕が男に向かうと指輪からホログラムが呼び出された。男は恐る恐る、腕からソウジを覗く。


「子供の入場料はこの金額のはずだ。私が払う、だからもうこの子には関わるな」


 男は時が止まったように一瞬固まり、ようやく言葉を呑み込むと、今度は下品な笑みを浮かべる。


「冗談だろう? こいつぁディスポンサーだぜ? 十万だ、それなら手を打つぜ、男爵様?」


 なんて卑劣な奴だろう、といつの間にかアイシスは拳を握り、男を睨んでいた。だが……。


 ソウジはその瞳に何の感情も移さず「いいだろう」と指定された額を払った。


「へへ、まいどありがとうございます、男爵閣下。ですがね? あんたのそれはただの自己満足でしょ? 何も言い返せないから、あんたは金で事を収めた。正義面するのもいいですが、自分達の行動を見直すのが先でしょう? それもなしにディスポンサーを人間として扱うなんて綺麗ごと、妄言だとしか思えませんよ」


 あざ笑うかのように背を向けた男が立ち去ろうとした時、ソウジは「だからだ」と答えた。男は足を止め、振り返る。


「確かに綺麗ごとだ、今はこの方法しかとることができない。汚く、恥ずべきことだろう。だが、だからこそ、私たちは綺麗ごとを言い続けねばならない。誰も綺麗ごとを言わなくなれば、意識するものもいなくなれば、本当にそんな世界は訪れなくなる」


 堂々とした芯の通った声は力強く、その瞳には力が戻っていた。男は舌打ちして鼻を鳴らすと「せいぜい頑張ってくだせー」と感情のこもらない言葉を置いて立ち去った。

 ざわざわと大人たちが男の言葉に共感をこぼしながら解散していく。アイシスは我に戻り、ソウジに駆け寄る。


 ソウジは青髪の少年に手を伸ばし、助け起こすところだった。

 少年は恐る恐る手を取り、立ち上がる。それから、膝を着くソウジに泥やほこりを払ってもらっていた。


「父上! 大丈夫なのですか!」

「アイシス……ベンチで待っていなさいと、少し待っていなさい」


 ソウジは少年に怪我の具合を聞く。

 少年は首を振るばかりでお礼も言わない。アイシスは後回しにされたことと、少年の無礼にムッとした。

 それでもソウジは世話を焼き、出口まで送る。最後にお辞儀はしたものの、その少年は一度も口を聞かなかった。


「なぜあのような無礼者をお助けになったのですか?」


 夕暮れの帰り道、前に伸びる影を眺めながらアイシスは言った。帰りも行きと同じ道だったが、人が少ないせいか昼間ほどの賑やかさはなく、少しもの寂しく思えた。


「無礼……か、なぜそう思う?」

「それは、助けてもらっておきながら礼の一つも言わぬなど……これを無礼と言わずなんと言うのです」

「では聞こう、遊園地の職員だった男は形だけでも礼は言った、ならばアイシス、あのものに無礼はなかったか? あのものだったら、助けてもいいと思えたか?」

「……いえ、あのものに礼儀があったとは思えません、助けたいとも思いません」


 拗ねて答えたアイシスをソウジは正直すぎる、と声を出して笑った。

 それがアイシスの機嫌を逆なでし、抗議をするとすぐに謝罪が返ってきた。けれど、アイシスの腹の虫は収まらない。


「卑怯です、こんな問答。では、父上はあの少年に礼儀があったと、そうおっしゃるのですか?」


 睨むようにソウジの顔をアイシスが見上げる。ソウジは微笑みながら首を振った。


「そういうことではないんだよ、アイシス。私は、自分の行いに感謝など求めていのだ」

「ん? よく分かりません。誰かを助けても、感謝されないのでは寂しいではありませんか」

「感謝してもらえるのであれば、それは嬉しい事だ。だが、それ以前に、人の力になれることが私は嬉しいのだ。誰かに求められたからではなく、私自身がやりたくてやっていることだ。見返りが無ければ人を助けられない、そんな世界こそ寂しいと、私は思う」

「では、私が困っていたら、助けに来てくれますか?」


 アイシスは不安げに聞いた。

 ソウジは優しく微笑み、小さなアイシスの体を自分の顔より高く持ち上げる。空が近づき、アイシスの見る世界が急に広がった。

 ソウジがアイシスを肩に乗せると曇りのない明るい声で言った。


「当然だ、我が娘よ! どこにいても、何をしていても必ず駆け付ける。そなたが拒否しようが困っていたら必ず。そなたは私の娘なのだから」


 見下ろしていたソウジの笑顔にホッとして嬉しくなった。

 いつの間にか機嫌はなおり、アイシスも笑っていた。そんな幸せな景色が少しずつ白い霧に塗りつぶされて、霞んでいく。

 やがて、小鳥の声が聞こえてアイシスは夢から覚めた。


                  ※


 あくびを手で覆いながら、クローゼットへと向かい、シャツとジーンズに着替える。

 カーテンを開けると、ちょうど太陽が全身を見せたころだった。眩しさを手で庇いながら、窓を開ける。

 樹々がもたらす涼しい朝の風が部屋に吹き込み、夢のせいで淀んでいた空気を清々しいものへと塗り替える。

 澄んだ空の下に宏がる森から聞こえる小鳥の声を聞きながら背伸びをし、身支度を始めた。

 顔を洗い、目が冴えてきたところで壁につけてあるドレッサーへと向かう。

 向かって右側の引き出し一段目から櫛をとり出し、猫を撫でるように優しく髪をすくと、二段目から眼帯を取り出す。鏡を見ながら微調整して身支度を終える。


 ふと、最下段のひと際大きな引き出しに目が行き、引き出しを開けた。

 中にはポツリと深い緑の日記帳が収まっている。表紙には金の油性ペンで<アイシスの幸せな日>とつたない字で書かれていた。


 スケジュールなどであれば腕輪の端末に保存する。けれど、犯罪防止とはいえ、データを管理している者がいる以上、個人的な記録は直筆にかぎる。

 アイシスはそれを手に取ると夢の事を思い出す。いや、夢というよりは記憶だ。


 なぜ、今あんな夢を……。


 ページをパラパラと繰り、ブックマーカーが挟まれたページで止まる。

 あの日の出来事が左側のページに書かれ、右側は白紙だった。あの日、日記最後の日の文末にこう書いていた。

 

 『私は父上のように弱い人を助けられる人になりたい。だから、強くなりたい。』

 

 それ以降のページはまっさらで何も書かれていない。けれど、あの日から十年にわたってソウジの休日で何をしていたかは鮮明に覚えている。


 日記が止まった次の休日、アイシスはどこへ行きたいかと聞かれると、剣の修業がしたいと言った。ソウジのように強くなりたいと。

 ソウジは戸惑い、初めは頑なに拒否していた。けれど、休日のたびに口論になり、それを嫌っての事か、最後はソウジが折れることになった。

 きっと、ソウジは最後まで剣を持たせたくはなかっただろう。だが、娘の意志を尊重することを選んでくれたのだとアイシスは信じていた。

 日記が途絶えたのは訓練の厳しさから書く気力などなくなり、夜はすぐに床に着いていたからだ。


 もしもあの日、強くなるなど思い至らなければ、今もこの日記は更新されていただろうか。普段から手に握るのは剣ではなく、可愛いバッグを持ち、服装にも気を掛けていたのだろうか。

 そんな事を思いながら、夢で見た父と同じ剣だこの出来た手を見て苦笑する。


 ああ、もしかするとスイセンと自分を比べたから夢を?


 馬鹿馬鹿しい、とアイシスはため息交じりに苦笑する。


「夢のせいでおかしなことを考えているな、私は……」


 後悔などはしていない。タコができた手も、筋肉で硬い腕も、どれも自分が望み、手に入れた誇りだ。その想いを確かめるように拳を握りしめ、日記を思い出と共に引き出しの奥に戻した。

 今日は華族が集まる大事な議会に同席させてもらうのだ。夢に動揺している場合ではない。

 心に立ち込める靄は、頬を叩いて振り払う。

 迷いのない足取りで戸口へ向かいコートを掴むと、振り返ることなく薄暗い部屋を後にした。

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