第13話 温かい場所

 真っ黒に染まる木々が軒を並べるように立ち、つつましやかな街灯の明かりが点々と過ぎ去っていく。

 都市部を後にしたアーシルたちは、国家プラントの中央にある『内核区』に入っていた。

 国家プラントは鋼鉄の外壁が円形に囲い、その内側を沿うようにビルの森のような街がある。

 そして更に中央にいくと、規模を縮小したドームが現れる。それがコンディーターの中でも限られた者だけに住むことが許される『内核区』だ。

 この国、イアポーニア帝国の聖地と言っていい場所にアーシルは立ち入っているのだ。

 内核区に入るにあたっての検問は人の手で行われ、プラント入国時より厳重になっていた。

 先ほどまでの浮ついた気持ちはどこかへと消え去り、今は緊張で身を固くして黙って外を見ることしか出来なかった。


 喧騒に吞まれていた都市部とは裏腹に、森を行くような内核区ここは虫の声とアーシルたち乗る車の音以外は静かなものだった。

 ふと、窓外の薄闇の奥にオレンジの光が見えて過ぎ去る。一度だけではない。二度目以降、アーシルは目を凝らしてみた。


 街灯とは違う明かりが、時折木々の間から漏れて見える。その明かりは四角く、横にいくつか並んでいる。それが上下二段。

 弱い明かりが列をなすことで照らす範囲を広げ、木々の奥にどっしりと鎮座する建物の影を浮かび上がらせていた。

 防衛プラントではまず見ることができない、先ほどの国家プラント内の住宅区画にさえ見られなかった豪奢な屋敷だった。

 建物の同士の間に広大な敷地があり、ぎゅうぎゅうに箱詰めされた他のプラントとは大違いだ。

 緊張を忘れ、アーシルが見惚れているとゆっくり景色が止まった。


「着いたぞ、さぁ、我が家だ」


 アイシスが言葉を車内に置き去りに外へと出る。

 スイセンもすでに降りており、見惚れていたアーシルだけが遅れた。

 慌てて外に出ると、目の前には聳えるというのが正しい佇まいの屋敷が現れていた。

 ひんやりとした夜気の混じる風の心地よさや、周りの木々の葉擦れの音も珍しいはずが、そのどちらもアーシルの意識には介入できずに過ぎていく。

 アーシルはもちろん、さすがのスイセンも言葉を無くし、目の前に現れた巨大な門扉越しに見える奥の屋敷に見入ってしまった。

 

「私だ、アイシスだ、今帰った。開けるがよい」

『お帰りなさいませ、確認いたしました。ただいまお開けいたします』


 アーシルがアイシスの方を確認すると、彼女は門扉の端に備えられたタブレット端末が張り付いたようなパネルに話かけていた。その上にはカメラが備わり、それで姿を確認しているようだ。

 端末から返ってきた声は穏やかだが擦れた声で、かなり歳を重ねている印象を持った。

 その声が途切れて少し。巨大な門扉の下面が鉄の擦れる音を立て、両脇へ引っ込んでいく。

「行くぞ」とアイシスが先行し、アーシルたちは言葉を発することも忘れ、後に続いた。


 玄関までは庭園のような景観だった。

 噴水が備わり、あたりには樹々や花壇が備えられ、歩くだけでもあちこちに興味を惹かれて忙しい。

 そして、今は夜。所々にある灯籠がほんのり優しい明かりであたりを照らしている。

 ドンっ、といきなり止まったスセインの背中に顔をぶつけたアーシルは、文句を言おうとスイセンの背中を睨んだが、悪いのは自分だった。目の前には大きな屋敷とその玄関が出現していた。

 どうやら周りの景観に見惚れている間についたらしい。門扉から見た時はそれなりに距離を感じたが、それを感じさせないように出来ているのかもしれない。

 アーシルたちが足を止めるなり、両開きの扉が蝶番を鳴らして押し開かれる。扉を開け、中から出て来たのは白い髪を綺麗に固めた高齢の紳士だった。先ほどの声はこの人だ、とすぐに分かった。

 燕尾服に身を包み、丁寧に頭を下げるのを見るに使用人だろうか。しかし、首輪や腕は見て取れない。


「アイシス様、お帰りなさいませ。旦那様が執務室にてお待ちしております」

「うむ、分かった。感謝するスザキ」


 アイシスは微笑みを返し、広い玄関ホールに入っていった。

 恐る恐る後に続くアーシルたちをよそに、スザキが出した両手にコートを乗せるアイシスは「行くぞ」と堂々と先を行く。さすがこの屋敷の住人だ、アーシルは感心してしまう。自分など緊張して一歩が重いと言うのに。

 スザキと呼ばれた老紳士は、アイシスが通り過ぎても頭を上げず、アーシルたちが通り過ぎようとすると「お邪魔でしょう」と優しい笑みで同じように上着を受け取ってくれた。

 慣れない対応にあたふたしながら、アイシスの後を追い玄関ホールの中央から伸びる二階への階段へと進んだ。


「父上、アイシスです。ただいま戻りました」

『入りなさい』


 二階最奥の木製の扉の前。

 アイシスはその扉をノックすると、低く澄んだ声が返ってきた。アイシスは「失礼します」と扉を開ける。


 入って右手の壁一面は本棚であり、左手には来客用のテーブルにソファ。そして奥の窓際のテーブルについている男性が「おかえり」と優しく微笑んで迎える。

 その男性を見て、アーシルは綺麗な人だな、とアイシスを見た時と同じ感想を得た。

 黒い髪は背中に伸び、目はアイシスほどきつくなく優し気で、瞳は黒い真珠のようだった。

 今は黒いシャツの姿だが、コートスタンドにはアイシスと同じような金の刺繍が襟や袖にされた黒いコートがあった。


「どうやら話は上手くまとまったようだな。二人連れてくるとは少し驚いたが」

「申し訳ございません、ですが二人とも探していた人物だったもので、つい……」


 うっ、とアーシルは思わず心内で息を呑む。

 想定外のおまけがついてきたようなもので、心苦しいこと極まりない。だが、思いのほか、アイシスの父親は嬉しそうにほほ笑んでいた。


「ほう、それはよい幸運に巡り合えたな。あいつがそう仕向けてくれたのやもしれん」

「はい……そうですね」


 あいつ? と口から出かかった疑問を呑み込んだ。

 アイシスとその父親は、笑みこそ浮かべていたが、どこか寂しそうに曇っている。出会ってすぐの、しかもディスポンサーが立ち入るべきではない、そう直感した。

 

「おっと、すまない。お前の友人たちが気まずそうにしている。感傷に浸るのは良くないな。アイシス、紹介してくれないか?」


 アイシスの父親は申し訳なさそうに笑みを浮かべた。アイシスもハッとして「すまない」と同じ笑みを向ける。


「父上、この二人が私の友人です。少女がスイセン、少年がアーシルと言います」


 二人は頭を下げて「よろしくお願いします」と声を重ねた。そしてアイシスは二人に振り返ると手のひらを男性に向けた。


「こちらが私の父、ソウジ・レイゼイだ」

「不出来な娘だが、スイセン、アーシル、仲良くしてくれるとありがたい」


 頭を下げるソウジにアーシルとスイセンは驚き慌てて「め、滅相もございません!」と両手を振った。

 まさか、コンディーターの、しかも華族に名を連ねる当主様から頭を下げられるとは。

 玄関ホールのスザキという紳士といい、この親子といい、アーシルの常識はものの数分で粉砕され、驚きを通り越して恐怖さえ感じてしまう。

 案の定、ソウジもかしこまるな、と言ってくれたが、はい分かりましたとすぐに頷けるわけもなく。「善処します」と言うにとどまった。


 詳しい話しは食事をしながら、ということになった。

 ソウジはデスクの端末を操作し、スザキを呼び出した。ノックが二回なり、スザキの入室が許可されると「こちらへ」と丁寧な示唆で廊下へ誘導され、部屋を後にした。

 廊下を歩いていると何度か人とすれ違う。住み込みの使用人のようで、アイシスを見ると足を止めて一様に軽くお辞儀をする。

 本当にお嬢様なんだな、と今更ながらに実感が湧いてくる。だが妙な違和感が付きまとう。恐らく慣れていないから。

 慣れないのは、誰もアーシルたちに侮蔑や忌避の目を向けてこないことだった。

 誰も彼も穏やかな笑顔だ。いつも愚痴をこぼし、しかめっ面を張り付けているような〈管理者〉とは随分雰囲気が違う。楽しそうに働いているように見える。


 恐らくそれは、この屋敷の主であるソウジの人柄を映す鏡となっている。使用人であれ、ディスポンサーであれ、壁をつくること無く、『人である』という指標を持って接しているのだと想像に容易い。けれど……。

 身の危険を感じないこの場所は、妙に落ち着かない。自分がここでどのように振舞えばいいのか分からないのだ。

 敵意を向けられるのなら、逃げればいい。絡まれれば、反抗せずに殴られる。これまで自分に課してきた行動の理念が通用しない状況。

 自分の知らない世界に放り出されたかのような不安感に最適解を見いだせず、戸惑いでついつい挙動不審になってしまう。


「安心しろ、誰もとって食わん」


 アーシルの挙動不審を見かねたらしく、アイシスが苦笑して肩を竦める。


「は、はー、分かってはいるのですが……」

「当然か、これまでの環境とは全く違うのだからな。少しずつでよい、慣れてくれ。私も助力は怠らぬ」


 アイシスが優しく肩に手を置く。布越しに伝わる他人の熱は自分が一人でない事を教えてくれる。

 少し落ち着きを取り戻し、感謝を伝えようとした時だった。スイセンがアイシスの手を押しのけながら割り込むようにして入って来た。


「大丈夫です、兄さん。兄さんには私がついてますから!」


 スイセンはアーシルの両手をガッシリと握り、視界を塞ぐように微笑みを寄せてくる。が、なぜだろう。今日一番に危機感を感じたのは。よく見ると、スイセンの笑みは若干引きつっているような……。


「あ、ありがとう、心強いよ。アイシスさんもありがとうございます。少しでも早くなれることができるように、僕も努力します」


 そう、自分は一人ではないのだ。

 そして、この生活は今日から始まるのだ。慣れていくための時間などいくらでもある。焦ることは何もない。


 現金なもので、自分を支えてくれる人が近くにいる、そう実感できるとアーシルは力強く言い切ることができた。

 その様子にアイシスが満足げに頷き話が途切れたときだった。ネズミのような、はたまた怪物のような鳴き声が廊下に響く。

 時間が止まったかのような一瞬の沈黙。

 アーシルはその鳴き声の主が自分の腹の虫と自覚したとき、顔が急激に熱を帯び始める。


「そうだな、今迫る問題は、空腹だ。アーシルの忠告に従うとしよう」

「ちょ、え? そんな、僕は……」

「大丈夫ですよ、アーシル君。食事の準備は万端です。すぐにその問題は解決するでしょう」

「えー、スザキさんまで……」


 恥ずかしさに困惑しているアーシルをよそに、アイシスとスザキが肩を揺らしに楽しそうに笑う。

 事情があるんだけどな、などと胸中で呟きながらも、温かな雰囲気が弁解など些細なことだと思わせてくれて、思わずアーシルも笑ってしまった。

 ただ、スイセンだけは、事情を察したのか、少し笑みに影が差していたのに気づく。他の二人に気付かれないよう、案内を依頼し、スザキが先導を再会した。


 案内されたリビングルームは想像していたよりも慎ましく、どこか落ち着く雰囲気があった。

 板張りのダークブラウンの床や壁、照明はほんのりオレンジ色。部屋の中央には長机が置かれ、椅子の正面に湯気の立つスープを始め、肉料理などが並べられていく。


「もうじき支度が済みますのでどうぞお席へ」


 促すスザキの声など左から右へ流れ、アーシルは部屋や豪勢な食事に視線が忙しい。

 アイシスは戸口から歩みを止めることなく上座のから右手の席へ座る。定位置なのだろう。


「何してる、二人とも? ここっちだ」


 アイシスが隣を手のひらで指し、呼ばれた二人は少し緊張した面持ちで並んで座った。


「あ、あの……僕らも同じ席で良いのですか? どこか別の部屋の方が……」

「なぜだ? そなたらがそうしたいのなら用意させるが?」

「い、いえ! そうい訳ではないですけど……」


 これも慣れなければならないことか、と胸内にため息がこぼれる。〈管理者〉と一緒に食事をすることもなければ、テーブルの上で上品に食事をとるなどしたことがない。


「なら良いではないか。いくら美味いものを食べても、それを共有できる者がいなければ喜びが減るだろ?」


 アイリスが自信ありげに聞いてきた。アーシルは「はぁ」とそれとなく返事はしたものの、内心ではそうなのか? と首を捻っていた。


 そうこうしている内に、配膳を終えた使用人たちも席につき始め、その光景にスイセンと二人で驚いた。

 ディスポンサーだろうが、使用人だろうが、関係ない。この家では主人と共に食事をすることが許されているということ。

 慣れるとは答えてみたが、今更ながらに一物の不安が浮かんでくる。


「すまない、遅くなった」


 ソウジが肩を揉みながら入って来た。一瞬、立ち上がりそうになるのを「よい」とアイシスが静かに止めてくれた。

 ソウジは上座に腰を下ろし、席に着くなり、アーシルとスイセンを使用人たちに紹介してくれた。二人は流れされるままに頭を下げ、使用人たちも挨拶を返して喜んでくれた。

 そのおかげもあって、緊張は和らぎ、嗅覚が元の機能を取り戻す。

 部屋中に立ち込めるスパイスの香ばしい香りや柑橘系の爽やかさを感じさせるソースの香りに胃が刺激を受け、空腹感が蘇る。

 ソウジが手を握り合わせ、感謝の祈りを口ずさみ、祈りを終えると各々が食事を始めた。

 アーシルは湯気が立ち、張り艶の良い肉や野菜を前に唾を飲み下す。埃や砂のついていない食事は初めてだ。


 ゆっくりと肉にフォークを当ててナイフで切り込む。驚くことに、分厚い肉の抵抗はなく、豆腐のように滑らかに切れた。

 手の震えで口元へ運ばれる肉もプルプルと振動しているのを眺めてから、一息に口の中へ……。

 刹那、口の中で弾けるようにスパイスの風味が広がり、柔らかな肉から溢れるように肉汁が漏れ出してくる。

 初めての感覚だった。口の中から体中に熱が広がり、心が飛び跳ねる。

 美味しい、その言葉が自然と心に浮かび上がり、全身の力がみなぎる。 


「おい、どうした! 口に合わなかったか?」


 アイシスが心配そうにアーシルを見ている。その視線の意味が分からず、「え?」ととぼけた声が漏れる。しかし、その声は震え、手の甲にぽつぽつと雫が落ちてくる感覚。

 頬をなぞるように熱が降り、気が付くと皆がアーシルを心配そうに眺めている。


「あれ? あれ? どうしたんだろう……。食事はとても美味しいです……こんなにも美味しい食事は……初めてで……」


 頬を伝うものが涙だと知り、何度も拭うが、湧いて出る喜びの感情と共に次から次へとあふれ出てくる。

 少し間を置くと落ち着くことができ、食事の雰囲気を崩したことに謝罪した。


「謝る必要などないよ。口にあったのなら何より。コック長のルークの料理はどれも美味いぞ。なぁ?」

「そりゃもう、腕を振るってますから! 泣くほど美味いと言ってもらえて嬉しいですよ!」


 ソウジに尋ねられ、ルークと呼ばれた男が力こぶを作る仕草をした。


「そういうことだ、遠慮なく食べるがいい」


 アイシスに促され、アーシルは食事の手を進めた。口に運ぶものは、どれもとろけそうなほどに美味しく、次の一口が惜しく、食べる手がせわしくなってしまう。

 のどに詰まりそうになった時、スイセンに水をもらい、周りから笑い声が上がる。恥ずかしさを笑ってごまかし、こんなにも賑やかで温かい空間があるなんて知る由もなかった。


 アイシスの言葉が脳裏を過る。確かにこの空間を共有できることが嬉しく、高揚した気分が食事の味を引き上げているようにも感じる。

 知らなかった。食事だけでもこんなに幸せを感じることができるなんて……。

 改めえてこの家へ迎えてくれたことへの感謝が芽生え、この幸せがすべての人に行き渡ればいいのに、とこれまでの想いが一層強くなるのを感じた。


 全員が食事を終えるとスザキたち使用人が席を立ち、手際よく片付けを始めた。

 屋敷の主人であるソウジも手伝おうとしていたが、家の格式に障る、とスザキに窘められていた。

 肩を落とすソウジにを見て困惑していると、「いつものことだ」とアイシスは優雅に食後の紅茶を啜っていた。


 本当に不思議な空間だ、とあたりを見渡す。

 子供のようにしょんぼりする主人、男爵家の誇りを説く執事、いつものことと微笑ましく見守る他の使用人たち。

 温かで、穏やかな、世界の優しさをすべて詰め込んだと思えてしまう屋敷の雰囲気。

 始めてみる団欒の光景に心を満たされながらも、反面、不安が影をちらつかせる。

 この光景は、あの暗い部屋で寝ている自分の夢なのではないか、と。

 ディスポンサーとしてはあまりに恵まれすぎている。何かを返したい、そう思い至り、ある提案をすることにした。


「あの、ソウジ様、僕が代わりにスザキさん達のお手伝いをしても良いでしょうか?」

「おい、アーシル。君らは私の友人だ。そんな事をする必要は――」

「アーシルがしたい事なのかい? ディスポンサーとしてではなく、君自身が望んでいることなのかい?」


 ソウジが片手を出し、アイシスの言葉を遮る。アーシルに問う目は真っすぐと見据えられ、真意を聞かせて欲しい、そう言っていた。

 アーシルは自分の胸にもう一度問う。これはディスポンサーとしての本能が義務を感じていることなのか?

 違う、アーシルの心が即答した。これは自分が感じた感謝の気持ちから湧いたものだ、と。

 自分の胸の奥がポカポカと温かい。この感覚をソウジ達にも返したいと言う気持ちがある。


「はい、これは僕自身の意思です。ディスポンサーだから、ではなく、今日感じた嬉しい気持ち、この気持ちを行動で返したい、そう思いました。お願いします、僕にお手伝いをさせて下さい」


 アーシルが頭を下げるとスイセンもやらせてほしいと同じく頭を下げた。


「と言っているが我が娘よ? 判断はそなたに任せる」

「ここまで言わせて……卑怯ではありませんか父上? 私はアーシルたちをディスポンサーとして招いたのではありません。彼らの意思は尊重します」


 ソウジに言葉を遮られ、勝手に話を進められたことは不服そうにしていたものの、ソウジの話しには納得がいっていたようだ。ため息交じりに許可してくれた。


「おっ、そうだ。期せずして好都合!」


 突如、アイシスが意地の悪い笑みに変わる。スイセンを呼ぶと困惑するスイセンの背を押し、二人してリビング―ルを後にした。


「すまないなアーシル。小難しい娘で」

「いえ、とても素敵なお嬢様だと思いますよ。他のコンディーターの方と全く違う……これも、ソウジ様の薫陶を受けているからなのだと思います」


 ソウジはスザキが持ってきた紅茶を啜りながら苦笑いをしていた。アーシルは何か失言をしたのかと思ってしまう。


「すみません、自分のようなものがしった口を――」

「ああ、違うんだ、すまない。そんなにかしこまらないでくれ。私もアイシスも、そんなに大した人間ではないよ。たまたまコンディーターとして生まれ、先祖から男爵家の爵位を継いだに過ぎない。別に様などつけず、呼び捨てにしてもらってもいのだが――」

「さ、さすがにそれは、恐れ多いと言いますか、僕自身も望めないと言いますか……」


 アーシルがあたふたしているとソウジが笑った。低いのに澄んでいるせいか、よく響く。してやられたと恥ずかしくなる。


「冗談だよ、すまない。どうやら娘の小難しさも私の影響のようだ。ただ、君は先ほど私の薫陶と言ってくれたが、そうだとしたら、私はあの子を生きにくい世界に引き込んでしまったのかもしれないな……」


 ソウジは辛辣な顔になり、テーブルの上をぼんやりと見ていた。


「そんな……」と口から出ようとした否定の言葉をアーシルは呑み込んだ。

 ソウジやアイシスのことを何も知らない。それで否定や肯定の判断を付けようと言うのは傲慢だし、空っぽの言葉をかけて満足するのは自分だけだ。


「親というのは大変なものなのですね」


 代わりに言えたのはこれくらいだった。けれど、ソウジは笑みを取り戻し「そうだろう?」と肩を竦めて見せ、暗くならないよう気を遣ってくれた。


 ドンっ、いきなり扉が勢い良く開けられ、アイシスが戻って来た。


「父上、アーシル! 見るがよい!」

「ちょ、ちょっとアイシスさん! なんでこんなっ!」


 スイセンが廊下から顔だけ出している。耳まで真っ赤に染まっているが、なぜだろうか。


「何をしている、それでは見えないではないか」


 また悪戯な笑みを浮かべるアイシスが、スイセンの手を引き戸口へ引っ張り出す。

 スイセンが躓きそうになりながら出てくると、その場の面々は唖然として固まった。


「見ないでください! 目をつむってください! 忘れて下さい!」


 泣き叫びながらしゃがみ込むスイセンは、女性用の使用人服を着せられていた。

 それだけなら特に問題は無かったのだろうが、スイセンのそれは、スカートの丈は膝上、腹部や胸元は露出し、袖も切り落とされている。明らかに、他の使用人と違う。


「なぜ私のは他の方と違うのですか! 同じでいいではありませんか!」

「何を言う? それでは面白くないではないか、それによく似合っているぞ? なぁ、アーシル」


 スイセンの潤んだ瞳がアーシルに向けられる。アーシルは話題を振ったアイシスに抗議の視線を送るが、アイシスはニタリと口元を歪めている。

 さっきの憂さ晴らしをしているのかもしれない。自分を介さず話を進めたものだから。


「に、似合っているよ、と、とても……可愛いと思う」

「う~、兄さんがヘンタイになってしまいました」


 なぜ? と思ったが、半泣きのメイド服の少女を前に可愛いと言った状況に愕然とし、確かにそう見えると自覚した。


「一体どうしろっていうのさぁー!」


 悲鳴のように叫ぶアーシル。それを「ふふん」と嬉しそうにほほ笑むアイシスに「すまない……」とソウジは額を押さえ、ため息を吐く。

 本来、森閑としている夜の森に佇むはずの屋敷は、窓から温かな光を漏らし、賑やかな笑い声が溢れてい出ていた。

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