第11話 井の中の蛙

 話しがまとまると、急流に流されるような目まぐるしい時間が過ぎた。


 これまでの住処からの退去申請、所持者の登録、行動誓約書、エトセトラ……。

 次から次へと送られてくる書類データに目を通し、サイン。文面も一部を書き換えたようなものばかりで、本当にすべてが必要なのか疑いたくなった。


 アイシスに聞いても「一応、頼む」と返されるばかり。

 必要かどうか知っているなら、「一応」とは使わない。まして、目が泳いでいたとなるとなおさら怪しい。


 通常、この手の作業は仲介人が請け負うのだが、アイシスは雇っていなかった。

 なぜか、とは聞けず、観念したアーシルは無駄口を叩くより、サインを終わらせることに専念した。


 突然の出来事で、環境が変わることに疑問を挟む余地はなかった。

 あれよあれよと時間が過ぎ、すべての書類を処理し終わるとアーシルはソファーに沈みこんだ。

 しかし、「それでは行くか」とアイシスは溌剌と告げ、立ち上がる。


 ポカンとしてしまったアーシルをよそにスイセンが首をかしげて聞く。


「行くって、どこへでしょうか?」

「決まっているであろう? 我が家だよ」


 胸を叩くアイシスにアーシルは驚きで腰を浮かせてしまう。


「えっ! も、もうですか!」

「何か不都合があったか?」


 特に問題はない。書類手続きは済んだ。

〈管理者〉にも知らせは届いているはずだ。特別かわす言葉もなければ、置いてきて困る品はない。ただ、流れに呑まれるばかりで落ち着く暇のない心は不安に駆られる。

 一度は頷いては見たものの、やはり環境が変わるとなると尻込みをしてしまう。

 情けない、自分を罵るアーシルの不安は表情に出ていたらしい。アイシスが「すまない」と慌てた様子で頭を下げた。


「私としたことが……悪い癖なのだ。感情が高ぶってしまうとつい、な。神経が行き届かなくなってしまう。申し訳ない」

「そ、そんな! 頭を上げてください! 僕の方こそ、悪い癖なんです。これからという時に不安になっちゃうんですよ……」


 取り繕うように笑みを作るが、頬が引きつっているのが分かった。

 凛としていて厳しい印象のあるアイシスだったが、返って来た言葉は意外なものだった。


「そうか、私と同じだな。私もよく先を案じてふさぎ込むことがある。今もそなたらを迎える喜びの半面、もっと活躍をさせてやれる者が現れるのではないか、とな」


 てっきり、「シャキッとしろ!」などと叱責されると思っていたアーシルは失礼な話し、肩透かしを食らった気分になる。けれど、その複雑さはアイシスにもいろいろあると言う事だろう。

 深入りはするつもりはない。しかし、一つだけ聞いてみたいと思った。


「あの、どうしてその不安を無視できるんですか?」

「無視……か。できている気はしないな。そうだな、しいて言うなら、不安の先を見ている、というべきか」

「不安の先?」

「そうだ。例えば、私が不安に負ける。そなたらと契約をせず、より良い人物と出会うことを願うとする。確かにその可能性はあるが、逆もしかり。とんだ悪人と契約させられる可能性もある、ということだ。そうなれば、私は自分を恨むだろう。もしあの時、契約していれば、などという状況は目も当てられない」

「それが不安の先……ということですか」

「ま、私なりの考え方だ。聞き流しくれて良い。可能性など起きるまでは確定しない。だから、不安が過るなら、それが確定しないよう、今できることを考えて行動する。迷っていないように見えるのは、そう割り切ってるからだろう」


 確かに、最悪な結果が見えているのなら、そこから逸れるための選択をしてくだけ。

 簡単に言うなー、と心の中で苦笑してはいた。が、それが運命に抗うことに繋がるのかもしれない、そうどこかで府に落ちてもいた。


 現金なもので、不安でいるのが自分だけでない事を知ると動揺していた心は落ち着きを取り戻していた。

 やはり、アイシスの傍にいれば何か答えが見えるかもしれない。昨日の戦闘で感じていた感覚が蘇り、アーシルは軽く一歩を踏み出すことができた。


                  ※


 基地庁舎の外に出るとアーシルは路肩に止めてある車を起動させる。

 運転手のいないその車は、ドアのスイッチで起動し、同時にそのドアがスライドして向かい合う座席が出迎える。


「準備できました!……て、あれ?」


 アーシルが振り向くとアイシスの半分ほどの背丈のおばあさんがペコペコと頭を下げ、アイシスが苦笑いを浮かべて困惑している様子が見えた。


「あの方、ここに来る前にアイシス様に助けてもらったみたいです。荷物持ちとか、道案内とか」

「へぇ、それで遅れてきたのか……」


 勝手だ、などと決めつけた少し前の自分を殴り飛ばしてやいりたい。申し訳なさを感じつつも、そういうことができる人は『本物』だと思える。


「すまない、待たせたな」


 おばあさんと別れを済ませたアイシスが合流し、三人で車に乗り込む。

 アーシルとスイセンが並んで座り、対面にアイシスが座った。


「急な契約だ、そなたらも一度家に戻りたいのではないか? 先に行き先を登録してくれ」


 アイシスが手のひらを差し出すようにして促した。

「どうしますか?」とスイセンが訪ねて来た。順序を聞いているのであろうが、特別何もないしな、と思う。

 ふと、薄暗い廊下と明かりの漏れる扉の映像が蘇る。扉一枚を挟んで、ひんやりとした空気の感覚も。


「すみません、僕はいいです。スイセンの家だけで結構なので……」

「そうか、詮索はしない。が、本当にいいのだな?」

「ええ、大丈夫です。スイセン、入力して」

「兄さん……分かりました。では私の家にお願いします」


 哀し気な表情を見せたスイセンは肩を落としたまま、リストバンドをタップし目的地を車のナビに転送した。

 アイシスは外に視線を向け、流れ始める景色を黙って見ていた。少し、纏う雰囲気がとげとげしい気がするとアーシルは感じた。

 礼儀知らず、と思われただろうか。

 無理もない、道すがら出会った老人を助けることができるような人だ。しかし、会いに行ったところで会話などしないだろうし、アイシスやスイセンに嫌なものを見せるだけだ。

 きっと、これまでの苦労を織り交ぜて嫌味も言われるかもしれない。それなら、会いに行く必要もない。むしろ迷惑だろう。


 軽快に走る車とは裏腹に、車内の空気は重く沈んでしまっていた。

 救いだったのは、防衛プラント内の作りだ。

 基地と共住区画を区切らない雑多な構造のおかげで、さほど時間を要さずに目的地に着いた。


「では、行って参ります」


 スイセンが窓越しに微笑みを浮かべ、打ちっぱなしのコンクリートだと分かる二階建ての家へ歩いていく。


 スイセンは少し先で待っていたアイシスに合流し、家の前に立つ中年の男女に一礼した。その二人、〈管理者〉たちもアイシスたちに、いや、アイシスに一礼する。


 スイセンがアイシスに何かを告げて家の中に入っていく。

 すれ違うスイセンに一瞥もくれない〈管理者〉にアーシルは少しムッとした。

 売れた商品を名残惜しそうに見る店員がいないように、売れたからと言ってディスポンサーに情を抱くコンディーターもいない、ということだ。

 スイセンはBランクだ。それなりの額は入る。管理していた側の功績でもあるのだろうが、ランクを上げる努力をしたのはスイセンだろうに……。


 そんなことを考えながら〈管理者〉を睨んでいると、少しその二人の表情が引きつり始める。

 よく見ると、アイシスが獅子のごとく荒々しい見幕で何かをまくし立てている。

 今にも胸ぐらを掴み上げそうな勢いのアイシスは、奥歯を噛みしめ拳を握りこむと踵を返してアーシルの方へと向きなる。

 歩き出した足並みは荒く、肩も怒りで吊り上がっている。

 自分が睨まれているような気分になり、アーシルは思わず窓下へ隠れた。

 コツコツと靴底の音が近づき、ドアのスライドする音と共に「まったく不愉快だ!」と怒鳴り声が飛び込み、アーシルは身を竦める。


「ど、どうされたんです?」

「あの〈管理者〉の二人、スイセンに声を掛けない上に、『お買い上げ、ありがとうございます』ときた」


 そういうことか……。


 頬を膨らませ、腕を組んで座るアイシス。なるほど、本当に普通のコンディーターとは違うようだ。けれど、だからこそアーシルは心配になる。

 この人は生きづらい道を行っているから、自分と同じ『普通じゃない』道を。


 現に家の前にいるコンディーターの男女はアイシスを前にしていていた時と表情が違う。

 険しい顔で忌々しそうに何かを囁き合っている。きっと、いい気になって、などと陰口を言われているのかもしれいない。


「あれが普通ではありませんか? いちいちアイシス様がお怒りになっては、この先身が持ちませんよ」

「嘘をつくな」

「嘘? ですか……」


 なるべく機嫌を損ねぬよう注意して明るく言ったつもりだった。けれど、アイシスは今度こそアーシルを睨み据え、鋭い視線で心の内を見透かしているようだった。

 息を呑み、言葉を継ぐことができなくなったアーシルから視線が外の男女に向けられる。


「お前は嘘をついている。昨日、戦闘で見ていたお前は、同胞を助けることに躍起になっていた。そんなお前が、今のやり取りを見て「普通」などと思えるはずがない」


 苛立ちを含み、言葉の圧が少し増したアイシスの声は低く冷えていた。

 見透かされたことに驚き、「嘘」という言葉が心に刺る。真っすぐとアイシスの顔を見ることができなくなり、うつ向いてしまう。

 そう、嘘をついている。その場を丸く収めるために、目の前の不快な出来事を「当たり前」にすり替え、心を騙して納得した振りをする。

 自分の身に降りかかる理不尽や痛む心から身を護る術として体に染みついた癖だった。


 顔から首へ、血が降っていく。

 一瞬目の前の景色が揺れ、自分の言葉に恐怖を感じた。自分に理解を示してくれている相手に対しての理不尽を「普通」と自然に切り捨てようとしたことに。

 罪悪感を覚える。視線を上げていられなかったのはそのためで、アイシスの憤りも当然のこと。


「情けない……ですよね。自分の事を考えてくれている相手が不等な扱いを受けているのに……」

「だな。決して褒められたことではない。そなたにもいろいろあったのだろうが、今の発言は無分別だったな」


 真っすぐな正論が胸の奥深くに突き刺さり何も言えない。自分への苛立ちにくちびるを噛み、血の味がほんのりと口中に広がる。


「ただ、罪悪感や後悔を感じているのなら大丈夫だ。いくらでも意識は書き直せる。だから忘れるな、情けない自分に手を差し伸べてくれる者の存在を。その者は、そんなそなたでさえ支えてくれているはずだ。大事なものを違えぬようにな」


 アイシスは薄く口元に笑みを浮かべた。

 慰めてくれている、そう感じた。やはり優しい人だと確信できた。

 言葉は堅く、凛々しい表情から厳しい印象はあったが、なんとも心を広く持っている人だ、と感嘆してしまう。

 今もボーっと見惚れていると、頬を赤くして「これは受け売りだがな」と窓外に視線を逃がした。思いのほか、茶目っ気も持ち合わせているようだ。


「それでも、ありがとうございます。僕も心にとめておきます」


 好きにしろ、と顔を向けずにアイシスが言った直後、スイセンが家から出て来た。ボストンバッグを肩から下げて、〈管理者〉に一礼している。

〈管理者〉はバツが悪そうに目を逸らしてはいたが、片手を上げてスイセンに返した。アイシスの逆鱗が少しは響いたのかもしれない。


 どうしたのでしょう? とスイセンが車に乗り込むなり不思議そうにしていたが、アイシスは何も言わないのでアーシルも「さぁ?」と肩を竦めるだけにした。


「本当にいいのか?」

「ええ、僕は別に大事な荷物があるわけではありませんし」


 そうか、とアイシスは短く答えたが、今度のその表情に怒りは無った。もしかすると、初めに不快そうにしていたのは、アーシルにではなく、〈管理者〉への想像が悪い方へと働いたのかもしれない。

 だとすれば、やはりアーシルの〈管理者〉にアイシスを合わせる訳にはいかない。スイセンの家でこれだ。アーシルへの態度を見たアイシスがどうなるか。想像しただけで寒気がする。


 車が動き出し、窓から斜陽が飛び込んでくる。アーシルは思わず手をかざす。

 もうそんな時間か。スイセンの家が壁になっていたこともあるが、目まぐるしい一日で時間の進みなど忘れていた。

 いつもなら、この後は暗い部屋で一人、本を読むだけなのだが今日は違う。この後どうなるか全く予測が出来ない。

 アーシルの心は未知への興奮で跳ねまわり、いつもの変わらない景色がそこにあるだけなのに、オレンジに塗り上げられているその景色が妙に鮮やかに感じた。


「あーそうだ、二人とも、私の事はアイシスでいい。様もいらん」


 思い出したかのようにアイシスが切り出した。

 アーシルとスイセンは慌てて首を振ったり、手の平を突き出したり、全力でアイシスを思いとどまらせようとした。

 いったい、どこの世界に主人を呼び捨てにしていい規則などあろうか。

「ですが私たちは」とスイセンが異議を唱えようとするとアイシスが手を突き出し言葉を遮る。


「言ったであろう? そなたらは私の友人だ。奴隷でも、従者でもない。」

「そう言われましても……」


 スイセンが口ごもるのは当然。アーシルも希望を叶えたい反面、心の奥にいる道具としての自分が抵抗し、口が重くなる。


「……さすがに難しいですね」

「まぁ、急には無理、か。仕方ない。だが、そめて『様』はやめてくれないか?」

「では……アイシス……さん?」

「ま、そうなるか。うむ、それで頼む」


 アーシルが恐る恐る伺うように聞くと、アイシスは妥協した笑みを見せた。

 その笑みを見た時、隙間風の吹いていた胸の奥に温かいものが満ちていくのを感じた。それはアーシルに落ち着きと安らぎを与え、自然と口の端が持ち上がった。


「にぃさーん? なにをニヤついているんですか? アイシスさんを見て」


 顔を両側から挟まれ、強引にスイセンの方へ首がねじれる。

 視界に入ったスイセンの目には笑みが、口元は引きつり苛ただし気に見える。器用だな、と思っている間に顔の中央にかかる力が増し、側頭骨に痛みが生じ始める。


「そ、そうかな? 自然にしていたつもりだけど……何を怒って」

「怒ってなんていませんよ? ええ、怒ってなんていません。ただ、どうしてかなーって。ふーん、自然ですか、そうですか」

「え、え? ちょっ、ス、スイセンさん? あれ?」


 ジリジリと万力のように顔が潰されていく感覚と共に痛みが強くなり、いつしかアーシルの声は悲鳴に変わった。

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