第5話

 忘れ物をしないようにしなきゃ。


 そう思うけれど、夜はなかなか眠れず、朝は毎日遅刻寸前。

 夜に持ち物の確認をしても、筆箱や教科書を忘れることもある。


 そもそも確認自体を忘れることもあって、授業が開始するたびにハラハラする。忘れ物に気付くのが、大抵この時間だから。


「やべっ、ワーク忘れたわ、はは」

 前方で、お調子者の男子が笑う。またかよー、と笑いが起こる。先生も「次からはちゃんとしなさいよ」と笑う。


「すみません、ワーク忘れました」

 私が手を挙げる。またかよ、と場が白ける。先生が「また……」と呆れる。


 ──私とあの男子、何が違うのだろう?


 私も笑えばいいのだろうか、という考えが一瞬頭をよぎるが、すぐに違うと気付く。

 前にも似たようなシチュエーションで笑ってみたら、私は『へらへらするな!』と怒鳴られた。


「せんせー、そこ漢字間違えてるよ」

「えっ、ああ、これはみんなが気付くかどうかテストしてたんだよね!」

「嘘だぁ」


 さっきの男子が口を開く。みんながまた笑う。

 その笑いに、また私だけ取り残されていた。


 ──ああ。私は『あっち側』に行けないから、場が白けるんだ。


 気づき、もうみんなの前で口を開くのはやめようと固く心に誓った。

 私という存在は、あっち側の人の迷惑になるのだから。


 溢れた涙を、誰にも見られないように拭う。誰も私のほうなんて見ていないと、わかっているつもりなのに。


   ◆


 六月くらいか、寝ても寝ても疲れが取れないことに気がついた。


 と同時に、授業を受けている最中に腹痛が起こることが増え、気づけば毎回のように授業を抜け出してトイレに行くようになっていた。


「あの子、めっちゃサボるよね。忘れ物もやばいし。毎回抜けてない?」

「最近、もう何も言わずに教室出てってるよね。なにあれ、病気?」


 ふと扉の前に陣取っている女子グループを横切ると、おそらく私への陰口が聞こえてきた。

 わざとなのかわざとじゃないのかは、わからない。考えたくなかったし、考える余裕もなかった。


 ──こんなときばっかり、聞こえなくても。


 悪口は脳内予測変換しやすいからか、普通の会話よりもよくわかる。他の声は音にまぎれて、言葉になっていないというのに。


 ──死んでしまいたい。


 トイレに入って、声を殺して泣く。トイレの中ですら、雑談をする人の音で落ち着かない。


 雑音のない世界に行きたい。


 でも、ここにそれがないのなら……。

 キリキリと痛むお腹を抱えて、泣き続ける。そうしているあいだにチャイムが鳴った。


 もうどうにでもなればいい。このまま私なんて、いなくなれればいい。


 ──これが私がまともに登校した、最後の日の記憶だ。

 

 しかしまともに登校はせずとも、まったく行かなかったわけではない。

 定期テストは別室で受験したし、何よりスクールカウンセラーや先生との面談で幾度となく登校した。


「何か嫌なことでもあったの?」

 不登校になって半年が経つのに、先生はまだそんなことを聞いてくる。

「別に、ないです」


 嫌なことって、何だろう。

 聞かれるたびにいつも考える。いじめとか、悪口を言われるとか、そういうことなんだろうか。

 それとも……。


「忘れ物とか、うるさいこと、ですかね」

「それって、どういうこと?」

「毎日忘れ物をして、毎日怒られる。嫌な顔をされる。……それが嫌でした。あと、教室がうるさくて、まともに言葉が聞き取れないことも」


 一歩だけ、踏み出してみる。

 今までは『どうせいじめられたかどうかを聞きたいのだろう』と決めつけて『ない』以外の返答をしたことはなかったが、もしかしたら違うのかもしれない。


 だって今まで私は、散々普通の人間とすれ違ってきたのだ。今回だって、すれ違いが起きているのかもしれない。


「何を言ってるの? 忘れ物は、気をつけたらいいだけじゃない」

「……」


 ああ、またか。

 何も言えなくなって、俯いた。気をつけることすら忘れてしまう、そうする前に寝てしまう私は、いったいどうすればいいのだろう。


「……すみません」


 家に帰った瞬間疲れ果てて、もう消えてしまいたいと思ったまま眠ってしまう。

 そう言えば、この人は何かしてくれるのだろうか。忘れ物も、怒らないでいてくれるのだろうか。

 でも怒られなかったとして、私がダメなことには変わりない。


「教室がうるさくて、言葉が聞き取れないこともあるんだね。そっか……」

 先生は何やらメモを取ると、「他に何か言いたいこととか、ある?」と問う。


「えっと、ないです。すみません」

 何に謝っているかわからないまま、怒られる前に謝っておく。先生は頷いて、教室から出るように言う。

 それから、スクールカウンセラーが教室のうるささについて聞いてくるようになった。


「教室で、言葉が聞き取れないことがあるんだ?」

「えっと、はい。結果的に無視してしまうこともあって」


 早く終わらないかな。そう思いながら、私は淡々と受け答えしていく。

 この人が私のために時間を割いてくれているのが、たまらなく居心地悪かった。

 カウンセラーは頷いて、「そっか、それはトラブルになったりして大変だよね」と何かメモを取る。


「声が不快とか、そういうのはない?」

「音が頭に突き刺さるような、そういう感覚がすることもあります。ずっと騒音のなかにいると、頭が痛くなったり……。不快と言えば、そうですね」

「そっかそっか。なら、教室ってかなり居心地悪いよね」

「あ、えっと、はい」


 カウンセラーは相変わらず何か書いているが、何をそんなに書くことがあるのだろう。


 教室の居心地が悪いなんて、だから何だという話だ。

 教室のほうを変えるなんてできない。まさか私ひとりのために、休み時間喋るなと言うことはないだろう。

 耳栓やイヤーマフも、雑音を遮断するのはいいかもしれないが、声や言葉の聞き分けはさらにできなくなる。


「一度、私の先生のお医者さんにどうすればいいか聞いてみる?」

「えっと……」


 カウンセラーがまっすぐ私のほうを見る。鈍い私でもわかる。発達障害か何かの疑いをかけられているのだろう。

 だって私も、自分は発達障害なのではないかと思っているのだから。


「はい」


 もう何でもいいから、楽にしてほしかった。何でもいいから、怒られたくなかったし、こんな尋問みたいなこともやめてほしかった。


「それじゃあ、親御さんには私から話しておこうか?」

「はい、すみません」


 頭を下げると、ちょうどカウンセリング終了時刻になる。

 教室を出ると、上の階からぞろぞろと人が降りてきて、慌てて逃げた。

 キラキラした彼らを、視界に入れたくなかった。

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