にいさま。

野村絽麻子

 あの夏、木犀の幹に寄りかかって木陰で休むにい様の肌はほとんど青白くて、濃藍の紗の布越しにでも、薄っすらと素肌が透けて見えるようだった。


 兄様は裾野の町の外れにある、ちいさな茶屋のおかみの一人息子だった。

 其処へは冬の大雪が降った日に訪れた。雪道で馬車が立ち往生し、屋敷まではまだ距離もあり日暮れも迫っていて、どうしようもなくなり茶屋の戸を叩くことになったのだ。

 おかみは驚いていたものの、快く夕餉の支度を整えてくれた。寒さで頬を赤くしていた僕に湯気の立つ薬湯を供してくれたのが兄様で、その日、とと様に見初められたおかみは僕のかか様になり、それで、兄様は僕の兄になった。


 物心ついた時には実の母を失っていた僕だったけれど、本当を言うと、僕はそんなに母様のことを好きではなくて、それは薬湯を飲まされるからに他ならない。

 床に就く前、行燈の明かりで書を捲っていると部屋の障子が少しだけ開いて「ぼん、薬湯ですよ。どうぞ、お飲みになって」と差し出される。障子の影では母様が廊下に膝をついて待っているので、僕はすぐさまそっくりとそれを飲み干さなくてはいけない。

 薬湯は墨のような色合いを裏切らず酷く苦い味がして、飲むと必ず軽い眩暈がした。

 或る晩、父様がみやこのお土産にくださった珍しい絵巻を兄様と一緒に眺めていると、いつものように薄く障子が開いた。

「坊、薬湯ですよ。お飲みなさい」

「はい、母様」

 温い熱を伝える湯呑みを受け取る。振り返ると、訝しげな顔をした兄様がこちらを見ていた。説明を遮って、口元に人差し指を立てる。

 兄様は、僕の手から湯呑みを受け取ると、中身を覗ってそのまま口をつけた。一瞬のことで、視界の中で白い喉仏が何度か上下するのを見終えてやっと我に帰る。

 空の湯呑みを僕の手に押し付けるので、それを廊下の床へ置いた。母様の白い手が障子を閉め、足音が遠ざかる。

「坊、あれは私が頂こう」

「でも、母様が」

「うん。坊には兄様の薬湯をやろう。交換って訳だ。どうかな?」

 秘密を共有することが嬉しくなり頷くと、兄様は安堵したように静かに笑んだ。


 思えば兄様が髪を伸ばし始めたのは其の晩からの事だった。

 艶のある黒い髪が肩まで伸びると、紐で括るのは僕の役目になった。僕は兄様の髪に触れられる優越感に浸りながら、うんと勿体ぶって、丁重に扱う。

「坊、私が死んだらこれをお前にやろう」

「髪を?」

「そう、髪を。売れば絵巻くらいは買えるだろう」

 そうしてどんな絵巻を買い求めるか相談しているうちに、とろとろとした眠気が訪れて、そのまま眠ってしまうのが常だった。


 兄様は日に日に透き通るように痩せさらばえていった。母様は丹念に薬湯を運び、僕と兄様はそれを交換し続けた。

 春が過ぎ、夏には臥せがちになった兄様は、冬を迎えることなくこの世から姿を消したのだった。

 水差しから白湯を飲んでもらおうとして、触れた兄様の手は氷のように冷たく固まっていた。たまらなくなって両手で包むと満足そうに微笑んだ。

「坊、ありがとう」

 掠れた声で告げる。

 其れが、最後になった。


 葬儀の晩、母様は永いこと兄様の棺に縋って涙をこぼしていた。「どうして、どうして」という甲高い悲鳴のような声と啜り泣きとが、いつまでもいつまでも、月のない夜空に途切れずにいた。

 僕の袂には布に包まれた兄様の髪束がある。この夜が明けたら町へ降りようと思う。兄様と交わした約束のとおりに。

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にいさま。 野村絽麻子 @an_and_coffee

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