森と戦陣(2)

 水だけでなく食い物もやる、と快諾した一人のベレンズ兵は、二人を天幕に連れて行ってくれた。大きく見えていても、中にいた数人の兵は狭苦しそうに、寝台や小さな腰掛けに座っている。それなのに彼らは嫌な顔一つせず、入り口近くにいた兵などはわざわざ席をエリオに譲り、並列した寝台の三人目の座客になった。


 ゼルも同じように席をもらい、先導してくれた兵士から水筒を受け取った。一口分だけで事足りるだろうと、感謝の意を示してから口に流し込む。しかし決して冷たくはないその水が伝った喉は、待ちわびた癒しに歓喜し、さらにその液体を求めた。


 これでは全部飲んでしまう、と染み渡らせるように力強く嚥下し、ゼルは水筒を返そうとした。だが当の兵は気にしなくていい、汗だくだろう、と押し返してきた。言われて、滝のようにとは言い過ぎだが、それなりに汗もかいていたことを思い出す。フェルティアードの目を気にして、体の調子まで失念していたなんて。


 好意に甘えてその水筒の中身を頂戴し、隣の兵からは干し肉を渡された。少量だったが、不足ではないのは食べてすぐわかった。あまりに固くて、そう簡単に飲んでやれないのだ。こればかり食べていれば、顎だけ強くなってしまいそうだった。


 思いのほか和やかだった彼らの雰囲気は、ゼルをその場に引き止めようともしていた。しかしそう長居はできない。フェルティアードはいつ戻ってくるかわからないのだ。早めに行っていたほうが無難だろう。


 席を立つと、兵達はもう行くのか、とか、あの方のところは忙しいな、とこぼした。忙しくはないのだが、まあ似たようなものかもしれない。二人はお礼を残して天幕を出た。葉や土の香りが混ざり、鼻を突いてくる。


 大貴族に注意されるのを避けるためか、他の新兵も早々に元の場所に集まっていた。が、彼らはそれからさらに軽く十分は待たされた。集合に遅れて注意されるよりはもちろんましだ。それにしても、そんなに長い話でもしているのか。


(逃亡者、か)


 ベレンズ側としても、逃げ出したという敵兵を放置する気などないだろう。もしあの若い兵士の言う通り、国内の村に身を潜め、あげく占領などしていたらなおさらだ。

 とすると、ベレンズの勢力がここに居座ってももう意味はないのか。それよりも周辺の集落を調べ、彼らが遠くまで行かないうちに探し出したほうが。


 今後の動きを考えていると、天幕の合間を縫って、ようやくフェルティアードが姿を現した。後ろには、連れ立っていった兵と、あの幹部兵が見える。何分間休んでいいかくらい言い残して欲しかったもんだ。いらつきから生じたため息は、彼が話を始める前に消え去っていた。


「わたしはこれから敵陣を視察する。ついて来る者はいるか」


 前置きも何もない発言に、一同がうろたえたのがわかった。ゼル自身もそうだった。自分達の意見も聞かずについて来い、というのではない。選べというのだ。そしてそれは、本来は予定になかった行動でもあった。


「それは、義務ではないのですか?」


 そう聞いた同期は、ゼルの中で顔と名前が一致している人物だった。ラジッド・セアス。最初にフェルティアードに手厳しい返答をされた、あの青年だ。


「そうだ。逃亡者は、我らベレンズ勢の指導者の命を狙っているようだ。わたしがここを離れれば、奴らはわたしを殺すため姿を見せるかもしれん」


 数少ない勢力で、大勢のベレンズ軍に太刀打ちはできない。それならば、その軍勢に対抗するよりも、指揮する者を倒せばいい。エアルから見れば逃亡者、裏切り者とされた彼らはそう考えたのだ。そしてフェルティアードは、その残りの敵兵をおびき出そうとしている。この罠に相手がうまくかかれば、当然大貴族に付き従う者にも命の危険が生まれる。だから彼は、新兵に選択の余地を与えたのだ。


 とは言っても、これは半ば試されているようなものだ。陣営に残ると言えば、この男はその兵を見限るに違いない。ゼルの中にも恐れはあった。不確かといえども武器を持ち、自分を殺そうとしてくる人間に出会うかもしれない。

 だがそんな怯えもへし折るぐらいに、ゼルはフェルティアードについて行く覚悟を確固たるものにしていた。ほんのわずかであっても、この男に迷いや隙を見せるものか。


「是非わたくしを行かせてください」


 第一声はゼルだった。あの一件から数日しか経っていないせいか、見知った人物相手にやむなく口調を丁寧にしているような気分だ。最も、非常に険悪な意味での“見知った人物”だが。


 ゼルに続いてエリオが名乗りを上げると残りも次々に同意し、結局ここに残る者は出なかった。フェルティアードは、思惑通りに事が運ばなかったからなのか、つまらなさそうに口を曲げたように見えた。二、三人は脱落者が出ると思っていたのか。彼のことだから、新兵達は敵に遭遇する恐怖より、臆病であることをさらされる恐怖のほうが勝って、嫌々ながら敵地に臨むことにしたと解しているだろう。


「全員か。では来い、列を乱すな」


 進行した方向は陣営の北だ。ゼル達はここから見て南側から入ってきた。北はさらに森の内部――山間部へと進むことになる。

 フェルティアードが、自身の脇に茶髪の幹部兵を従えたのと、陣営から呼ばれたらしい三人の兵士が最後尾を務めている以外は、来た時と同じ形態だ。生い茂った草葉を手で払っていると、地面の傾きが変わった。下り道になっている。


 天幕の並んだ領域の地面は乾いており、歩きやすかったが、しっかりと足跡を残すこの土は、また兵達の靴を絡め取ろうとしていた。おまけに今度は、転びなどしたら転がり落ち、フェルティアードに激突してしまう。慎重に足場を見極めながら、ゼルは平地を待ち遠しく感じていた。


 坂が終わってから五分ほど進むと、先ほどの味方陣営ほどではないにしろ、人の手が入ったことが窺えるような、下草の少ない場所にたどり着いた。それと同時に、黒く汚れた大布や骨組みらしき物の残骸が散乱し、到底使い物にはならないような、小型の刃物が放置されている光景も広がっている。周りは木々が密集し、数十歩先は暗がりと言ってもいいぐらいだ。


 慣れたはずの森の匂いに、異質なものが混じっている。鉄か血か。自然物しかないこの場とっては、不釣合いなことだけははっきりとわかった。

 生きていない人間の姿は、ざっと見ただけでは目に入らなかった。無意識に避けたのかもしれない。目を凝らさなければ、気になった物の詳細はわからなかったからだ。


 人の気配は、自分達以外にはない。これが戦場だった場か。どんな表情でこれを見ているのだろうとフェルティアードに向けようとした碧眼は、背後から聞こえてきた声の主を映した。


「ん? もう一人はどこだ?」


 それは大貴族の耳にまでは届かなかったようだ。聞こえていたら、誰かいなくなったのかと問い詰めかねないその内容は、ゼルも不思議がるものだった。


 一人はぐれたのか。人数を数えてみたが、新兵は全員いる。もしや、一番後ろにいた兵士が? そういえば、三人いたはずなのに二人しか見当たらない。フェルティアードと話すのに前方に移動したのかと前を見るも、当の彼は幹部兵と言葉を交わしている。すぐ隣にいるのは警護役の兵士で、話が終わるのを待っている様子ではない。目を移す過程で兵士の数も数えなおしたが、やはり一人足りなかった。


 まさか、道中に敵が潜んでいて、襲われたっていうのか? 二人に気付かれずに? しかし現に、二人になってしまった元三人の兵はフェルティアードに報告しようとしている。彼らのすぐ前、新兵の列で見れば後部にいた同期などは、やはり同じく敵の存在に思い当たったのか、顔が青ざめているようだった。


 がさがさと揺れた低い位置にある枝と茂みは、その表情からさらに色を抜いていった。彼らはもちろん兵士二人も、間を空けていたゼルもとっさに身を低くする。風ならいいのだが。幹の陰から、あるいは茂った草木を押しのけ、何かが飛び出してくるのでは。

 目を凝らせば凝らすほど、緊張で体が固まっていく。出てきたのが小動物であっても、柄にかけた手が得物を抜けるとは思えなかった。


 一際大きく揺らいだ茂みが、大きく割れた。


「死ね!」


 獣ではない。人間。それと同時に理解できたのは、その人が細長い刃物を掲げていることだけだった。凶器は一直線に、硬直していた一人の新兵の胸に吸い込まれていった。

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