第五章「光射す。」
森と戦陣(1)
二日前にあがった雨の残り香は、ぬかるんだ地面に色濃く残っていた。進むにつれて木々の葉は幾重にも重なり、黒い土には光の粒が散らばっている。ゼルも他の仲間も、歩くたび形を変える足元に何度も自由を奪われていた。転ぶ者こそ出ていないが、いつ誰が倒れ込み、泥と抱き合うことになってもおかしくない。
そんな道とも呼べない悪路を、フェルティアードと新兵以外の兵士は、整えられた街道と同じように歩き進めていく。そのせいで遅れを取るまいと早足になるので、ゼル達は余計にふらつくのだ。
フェルティアードの脇を固めている兵士は、自分達より一つ上どころではなさそうだった。おそらく先輩にあたる兵は、戦闘部隊の一員として先に行ったのだろう。
ここ十年ほどは、エアルとの大きな戦争はなかったと聞く。たかが一年違うだけで、森とは言っても山道に近い起伏に富んだ地を、戦いの経験なしで易々と抜けることなどできない。つまり彼らは、フェルティアードと同程度に場数を踏み、力を見込まれ軍人であることを職にしている者達なのだ。
そんな彼らは、後ろに続くゼル一行を度々振り返っていた。時には太い根があるから気をつけろ、と注意してくれもする。どっかの誰かとは大違いだな。ゼルは前だけを見、黙々歩んでいく黒髪を一瞬だけ目に映した。少しでも意識を逸らすと、つまずいたり滑りそうになってしまうからだ。
緩やかな坂道を延々と登っていくと、先頭の貴族と兵士、そして木の枝の隙間から、天幕の先端が見え隠れし始めた。ようやく陣営にたどり着いたのだ。ほっと胸をなでおろし、その安心から坂を転げたりしないよう今まで以上にしっかりと、楔でも打ち込むかのように地面に足を踏み下ろす。
「うわっ」
斜め後ろにいたため、ゼルの視界から消えかけていた一人が声を上げた。枝にぶつかったのか虫でもまとわりついたのか、それだけでは彼に何が起きたかなどわからない。だがゼルは反射的に身体をねじり、腕を伸ばしていた。自分も道連れに合わないよう、低く体重を落としてからだ。
その行動は彼――エリオにとってまさに必要なものだった。ゼルの手首を掴んだエリオは、寸でのところで泥だらけにならずに済んだ。もう片方の手は、地面と彼自身を隔てるためにひどく汚れてしまったが、そんなところまで気にしてはいないらしい。すぐに起き上がりながら、エリオは礼を申し出てきた。
「ありがとう、ゼル。根っこで滑っちゃったみたいで」
エリオも気が抜けちゃったんだろうな。ゼルには、歩き詰めで上気した彼の顔が、隠し切れていない照れのせいのように見えていた。
道中での会話を禁じられていたわけではないのだが、ゼルは前方から強い視線を感じた。その主は見なくてもわかっている。エリオの体の具合を心配するのに集中して、その存在に気付かなかった振りをした。前進する速さが落ちることなどなく、二人は最後尾について残りの道を歩いた。
天幕が林立する陣営は、森の奥にしては開けた場所に張られていた。布でできた即席の住まいの
この様子だと、当初の予定の通りに事は運んだらしい。先に派遣された彼らと戦い、エアル兵は敗れたのだろう。敵がすでにいないことを知ってゼルは安心したが、少し残念でもあった。
「お待ちしておりました、フェルティアード卿」
歯切れのいい声でフェルティアードを迎えたのは、今さっき天幕の一つから小走りに出てきた兵士だ。金色になり損なった茶の髪をなびかせたその兵士は、周りの一般兵よりもしっかりとした軍服を着込んでいる。無論フェルティアードには及ばないが、ゼルは一目で、ここにいるベレンズ兵をまとめている中心人物だとわかった。彼はたるみなどとは無縁そうな姿勢と顔つきで、今日までの戦況をかいつまんで話し始めた。
その中身は、敵兵数人を捕虜として捕らえたということ以外は、ゼルが想像していたものとほぼ同じだった。軍勢とも呼べぬ少数のエアル兵は、本国からの援助が皆無だったせいもあってか、その倍もないフェルティアードの兵によって敗退。いや、殲滅されたと言ってもいいかもしれない。そして、かろうじて生き残った者は虜囚になったという。
捕虜に関しての話題になると、若い幹部兵はわずかに声量を落とした。それは新兵一同にも届いたが、何か問題でも起きたのだろうか、と懸念させるには十分過ぎるものだった。
「捕虜の話では、我々が到着した時と前後して、逃亡者が出たようです」
「しかし、エアルはやつらを見捨てたはずだ」
フェルティアードの眉間に、さらに皺が刻まれた。
「その通りです。ですので、その数人の逃亡者が身を隠せる集落でも見つけ出したのでしょう」
「なるほど。面倒なことになったな」
舌打ちもしかねないほど、フェルティアードはわずらわしげに言葉を吐いた。
「その捕虜と話はできるか」
「はい。ご案内致します」
自分達のことなどまるで眼中になさそうな大貴族に、ゼルはここで何ができるのかと辺りを見回した。まさかこのまま、敵兵の尋問に新兵が加わるわけはないし、そんなことをこの貴族が許すはずがない。
するとフェルティアードは彼らに、それぞれ休憩を取るように言ってきた。ゼルは目をしばたいた。てっきり無視してしまうかと思っていたからだ。慣れない山道のようなところを通り喉も渇いていたので、実はそこまで考えていてくれたのか。
しかしゼルはそこで見方を変えた。相変わらず面倒そうな、義務的な喋り方だった。休むよう言ったのは、そうしなければこれからのおれ達の動きが鈍くなるからだ。おれ達を労っての言葉じゃない。
ゼル達と共に来た兵士の中から二、三人を伴い、フェルティアードは茶髪の兵に続いて行った。その背を目で追うのもそこそこに、ゼルはまず水を分けてもらおうと、エリオと一緒に近くにいた兵士に声をかけた。
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