戦陣と兵(1)
危ない、と叫ぶ暇すらなかった。駆け出したが到底間に合わない。彼をかばおうとしていたゼルは、刺される覚悟で腕を伸ばした。だがその腕が届く前に、彼はぐらりと後方に倒れている。
やられたのか。一瞬、乱入者の剣先が血に濡れているのを幻視した。しかしその兵は剣など手にしていなかった。
嫌な音を立てて、襲われた新兵が地面に尻餅をつく。その時には、警戒していたはずの二人の兵が大笑いしていた。無様にも両手を泥に埋もれさせている彼は、周りよりもだいぶ遅れて状況を理解したことだろうが、ゼルは敵だと思った男をまじまじと見て、馬鹿らしく感じながらも胸をなでおろした。
高らかに死ね、などと宣言してきた男は、はぐれたのかと思われていたベレンズ兵その人だった。顔を覚えていたわけではない。ベレンズの軍服に身を包んでいたからだ。フェルティアードや幹部兵と比べると金属の装具が目立つそのいでたちは、横で笑っている二人と全く同じものであった。
剣の光ったのが見間違いだったという証拠はなかった。確かにあの瞬間、彼は剣を差し向けていた。どうやらそれは手の込んだいたずらだったらしい。動けなくなっていた新兵ばかりを見ていたのでゼルはわからなかったが、このたちの悪いベレンズ兵は、ぎりぎりのところで剣を収め、代わりに彼を突き飛ばしたのだ。いや、つついた程度だったかもしれない。標的になった彼の足を掬うのに、そこまでの腕力は必要なかったのだ。
「おいおい、消えたと思ったらおまえは。何やってるんだ」
「若輩をからかうにも度が過ぎるんじゃないか?」
言うことは最もだが、笑いながら、というのがゼルには不快だった。心から当のベレンズ兵に注意しているようには見えなかったからである。
なにも脅かすことはないだろう。ようやく立ち上がろうとした仲間に、ゼルは手を貸した。それを助けるように、近くにいた数人もよろめく肩を支えたり、声をかけたりする。
しかし、いずれはこうして馴れ合うこともなくなるのだろう。これから先、どのぐらいの頻度、規模で戦が起きるかはわからない。どんな状況になろうとも、手柄を立てるためには彼らも好敵手となるのだ。
それならばせめて今だけ。今日一日だけでも、お互いを思いやってもいいだろう。まだ楽しげに笑う三人を眺めて、ゼルは自身がしぼんでしまいそうなため息を吐いた。
笑い声が聞こえたのか、フェルティアードと幹部兵が歩いてきた。空気を震わせていた三つの音が、はたと止まる。
「やかましい奴らだな。ここは宴会場ではないぞ」
今回ばかりは、フェルティアードに大賛成だった。硬く重い低音は、相変わらず容赦がない。もっと言ってやってくれと心の中で押したが、それは三人のうちの一人の進言によって、あえなく阻まれてしまった。
「これは失礼致しました。実は今この者が……」
彼はたった今起こった、彼らにとっては面白おかしいらしい事件を述べ上げた。話の途中、フェルティアードは新兵達を一瞥した。しょうもないいたずらの餌食になったのは誰だったのか、確認したかったのだろう。彼ほど観察力に優れているはずの者でなくとも、一人汚れに汚れた服と外套の青年がいれば、推測するのに苦労はなかったはずだ。
フェルティアードは兵の口が閉じられる寸前、歯を見せ頬を歪めながら、呆れて物も言えないという風に空気だけを吐き出した。
「ふざけている暇などないだろう。士気を乱す邪魔者は早々に引き返してほしいところだが、今は数が要る。二度と馬鹿な真似はするな」
緩んだ笑顔はどこへやら、三人は足並み揃え承諾の台詞を発した。一人だけ声が際立って明瞭だったのは、当然と言えば当然だ。ゼルはその一人の顔を汗が伝っているように見えた気がした。しかし、肝を冷やすほど焦ればいいと、彼のことをよく思っていなかった節もあったせいだろう。強張っていたものの、その額にも頬にも、汗などにじんでいなかった。
暗い青色の外套が翻り、金色と見紛う瞳が新兵に向けられる。こんなことでひるむなどけしからんとか、そんなお小言でも飛ぶんだな。予想できていれば、この男の厳しい口調などそう刺さってくるものでもない。
「おまえ達、今すぐに陣営へ戻れ。これではただの足手まといだ」
お小言どころではなかった。今のは本当に自分達に向けられたものかと疑ってしまったゼルは、フェルティアードの視線を追っていた。しかし彼は、あの三人の兵にしっかりと背を見せている。この命令の対象が、兵として初めて戦場に出た者達であったことは明らかだった。
突然の退陣を命じられた彼らは、その事態についていけていないようだった。誰かがどういうことですか、とおそるおそる言いかねない。この男ならそれに答えず、ただ帰れと畳み掛けてきそうだ。
「今さらなんなんだ、来るかどうか聞いたのはそっちじゃないか」
その重圧を避けようと、ゼルは先手を打った。義務なら文句はないが、自分で募っておいてこの場を去れとは、あまりに勝手過ぎる。きっと全員が思っていて、だが言い出せないことだ。
皆が恐れるならおれが、という思いがなかったわけではない。それよりもゼルは、自分の意見としてフェルティアードに口を出さずにはいられなかったのだ。
しかしゼルは、何よりも大きな失敗を犯していた。数え切れぬほどの視線を感じ、ゼル自身もそのことに嫌でも気付かされ、心内毒づく。
今おれは、誰を相手にしてあんな話し方をした?
あの時は一対一だった。会話を遮る人はいなかったし、いたとしても状況を知った人物になっていたはずだ。でも今回は? 誰も知らないんだ。おれと彼に起こったことを、エリオでさえも。
「ゼ、ゼル……! ちょっと今のは」
脇にいたエリオが、前兆もなしに舞い降りた静けさに溶け込むような声で囁く。相手は大貴族で、しかも最も位が高いのだ。ゼルの意見が通る以前の問題で、この態度云々で倍になって返ってきてもおかしくはない。
誰も彼もがはらはらとした様子で、ゼルとフェルティアードを交互に見る。怒りを露わにしているゼルを見下ろす大貴族は、いつも通り不機嫌そうではあったが、それだけだった。いくら表情に乏しいといっても、こんなにもなってない口の利き方をされれば、何らかの変化はあるだろう。そう踏んでいたらしい大多数は、逆に面食らったようだった。
「ここまで腰抜けだとは思わなかったからな。とっさの対応もできんとは、敵が現れた時に邪魔になるだけだ」
「それなら、彼だけ帰してやればいいだろう。どうしておれ達まで戻らなきゃならないんだ」
視線が合った。ゼルは今の発言が、全体ではなく自分に対してのものだと解した。何より、この言葉遣いに突っ込んでくるかと構えていたのだが、彼はもう気にしていないのか。
それならそれでと、ゼルは一瞬よぎった後悔を無視し、同じように理由を問いただしていた。突然のことに動けなくなった彼は仕方ないにしても、全員帰されるのは腑に落ちない。
「おまえ達の力量など、一人見れば十分だ。敵兵どころか、獣に食い殺されるのが落ちだろうな」
勝手なやつめ。でもおそらく、他のみんなの腹は決まってる。なんせ隊の指揮者が言うんだ、黙ってあの坂道を戻るんだろう。
「おれは残ります。自分で行くことを決めたんだ、人間だろうが獣だろうが、命を危険にさらす覚悟はできてる」
けれど、おれはそう簡単に諦めないからな。誰でもあんたの言いなりになると思ったら大間違いだ。
「いいや、残ることは許さん」
「あんたは兵士の一人も信じないのか!」
「戻れと言うのがわからんのか」
もう一言言わせれば、確実に大声になっただろうな。ゼルがそう読み取るぐらいに、フェルティアードの声は膨らんだ苛立ちを押さえ込んでいるように聞こえた。
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