試験開始(2)

 男は部屋を出ると何度か角を曲がり、やがて突き当たりに向かっていった。


「レイ・ストロン、ジュオール・ゼレセアン、ラジッド・セアスはこちらだ」


 その扉は、王宮に入ってからゼルが眺めてきたものと同じく、重厚感のあるものだったが、本当にそれだけであった。装飾もなければ、形状に関しても美しさの欠片もない。王宮の玄関で感じた近寄りがたさとは全く別の、跳ね除けられるような印象を受けた。


 デュレイを含む残りは、隣の扉の横に並ばされていた。やはり同じような種類の戸だ。誘導されていく時、デュレイが小さく手のひらを見せたので、ゼルも同じように返してやった。


 ゼルはまた壁にもたれたが、今度は試験場の部屋がすぐ隣という違いがある。はっとなって背を浮かせ辺りを見ると、案内した男はもと来た方へ戻っていくところだった。静かな広い廊下は、時折部屋を行き来する侍女が早足で通るばかりである。


「次の者」


 低く太い、それでいてすっと芯の通った明瞭な声が扉を開いた。そこに顔を向けたのはゼルだけでなく、その前と後ろにいた青年もだった。しかしせり出していた柱のせいで、声の主の姿は見えない。前に並ぶ青年の脇に出てまで覗こうとは、さすがに思えなかった。


 はっきりとだが、やや震えのある声で返答したのは、もちろん先頭の青年だ。名前を聞くどころか、顔もよく見ていなかったが、部屋に入っていく彼に、がんばれよ、とゼルは心の中で呟いた。


 一人分空いたところを進み、ゼルは調子を整えるために息をつき、天井を見上げた。円弧を描くそこには、幾何学模様に見える絵図が張り巡らされていたが、よく見ると植物を模しているようだった。

 すでに試験場の一歩前にいるのに、ゼルはその実感が沸いてこなかった。真剣での勝負ではないにしろ、相当の技術を持った人間と対することになるというのに。もちろん勝てるはずはないし、勝とうとも思っていない。ただ、相手に臆して自分の力を出し切れなかった、という結果にはしたくなかった。


 相手は一体どんな人なのだろう。屈強な男か、それとも素早い身のこなしで翻弄してくる者なのか。そんな想像をして、ゼルはすぐにその続きを考えるのをやめた。どんな相手か目星をつけたところで、今の自分がそれぞれに合った対抗策を取れるわけがない。この試験は、腕の良し悪しではなく、その癖や傾向を判断するものだと聞いていた。ならば見誤られることがないよう、自分らしさを惜しみなく見せられればいいのだ。


 そんな固められた意志の強さを確かめるように、意外に大きな音を立てて扉が開いた。途端に鼓動が速くなる。宮殿を前にした時の比ではない。


 とうとうおれの番か。そっと首をめぐらせると、先ほどの青年がこちらに背を向けて、ゆっくりと扉を閉めるところだった。そしてゼル達がいるのを忘れたかのように、廊下に出た彼は左右を見渡し、待合室のあった右手へ歩いて行く。彼をずっと目で追うと、その姿はこの試験場と同じ並びにある、突き当たりに近い部屋へと消えて行った。


 一人の試験が終わって次が呼ばれるまで、少し時間があるらしい。おそらく、どこの所属にするかを審議しているのだろう。ということは、実際に剣を交える試験官の他に、複数人が中にいるのか。


 ほんの少し足を動かすと、腰の剣が壁にぶつかった。中に入れば無用の物となるのに、ゼルの手はその鞘をしっかりと握り締めていた。

 平凡な村から来た若者が、貴族になる。ありえないわけではないが、容易なことではない。それでも、ゼルはその目標を揺らがせたことはなかった。まだどこの領地にも属さない自分の村を、自分の手で豊かにしたい。親友や、今まで育ててくれた叔父のためにも。

 そう叔父に意気込んだら、そんなことより生きて無事に帰ることだけ考えていろ、と言われたっけ。その時の彼の、悲しさと呆れの混ざった顔を思い出して、ゼルは口元を緩ませた。


「次の者」


 開音が声そのもののようだった。厳格さが音になったようなあの低い声は、ゼルの姿勢どころか顔つきまで正す威力を持っていた。


「はい」


 吸い込んだ空気を喉に溜め、振り返らないまま力強く一息に返事をする。上ずるかもしれないと思った己の声は、意外にも低音になって出てきた。そしてやっと入り口に体を向けたゼルは、そこに立つ男を振り仰ぐことになった。


 小さな青年とは対照的に、相手を見下ろしている巨人は、磨き抜かれた鋼を思わせる色の瞳をわずかに細め、道を開けるように部屋の中へ一歩だけ下がった。それが部屋へ入れ、という合図だということは、すぐに理解した。

 男の、夕日を思い起こさせるような、かろうじて金色の髪は、一分の乱れもなくまっすぐに揃えられていた。その色は獅子のような剛勇さをかもし出していながら、荒々しさまでは感じられない。それでも、今まで見てきた貴族とは比較にならない気高さが、ゼルの肌を服の上からちりちりと焼いてくるようだった。進める足どりが一瞬遅れたのは、そのせいだったかもしれない。


 固く閉じられた口元を、壮年らしく髭が覆っている。試験場に入ったゼルは、もう一度この貴族の顔を見ようとしたのだが、目立たぬよう見上げた視界に入ってきたのは、それだけだった。ゼルが正面に向き直るのとほぼ同時に、背後の扉が閉じられた。


 部屋の中は、扉と同じく殺風景なものだった。人の住まいというよりは、小さい闘技場である。内装こそ、待合室のような絢爛さがあったが、窓などは一つもない。家具らしいものといえば、いくつかの壁の明かりと、名簿とおぼしき紙。それよりも一回り小さい紙が無造作に重ねられたもの、そしてペンが投げ出された、小さく簡素な机ぐらいだ。


 そしてこの空間にいた人の数は、ゼルの予想を裏切るものだった。ゼルを招き入れた長身の男と、部屋のほぼ真ん中に立ち、こちらに横顔を見せている異様な風体の者との、たった二人だけだったのである。


「手紙を頂けるかね」


 頭上から落ちてきた催促に、ゼルは現実に引っ張られた気分になった。それほど、これから剣を交える相手らしい人の格好に、目を奪われていたのである。ゼルは貴族を相手にしている、という緊張感が湧き上がる前に、機械的に手紙を取り出し、男に渡していた。

 外気にさらされた彼の額に、わずかにしわが寄ったように見えたのは、自分の手紙がずいぶんとしわくちゃになっていたからだろうか。思い過ごしだと信じたいが、もしそうでなかったら。顔が熱くなりそうなのを、ゼルは必死で押し留めた。


「……結構。では外套と剣をこちらに」


 手紙を手にしたまま、彼はゼルが最初に見つけた机へ歩いて行く。その背は、碧色の外套で覆われていた。

 外套を脱ぎ、帯から剣を外す。男の後ろには、壁に沿って横長の机があった。そこに剣をそっと横たえてから、ゼルは目だけを先の貴族に向けた。腕をついて紙に何かを書き込んでいる様は、少し辛そうな体勢にも思える。よれた紙切れが、不安定な紙の塔に乗せられたところを見ると、あれはどうやら新兵に送られてきた手紙の束らしかった。


「では、ジュオール・ゼレセアン。これより、きみの配属を決定するための試験を行う」


 顔を上げたかと思うと、男はそうまっすぐに言い放った。ゼルは反射的に「はい!」と叫んでいた。体もすっかり強張ってしまっている。これではデュレイのことをとやかく言うことなどできない。そんなゼルの心中を察したか、男は厳しい表情を和らげた。


「そう緊張しなくていい。これは技術の高い低いを見るものではない。稽古だと思ってもらってかまわん。ただし、出し惜しみはしないように」


 堅固さが減った口調のおかげで、戒めが解かれたようになった体にとって、最後に添えられた一言は、適度に身を引き締めてくれるものだった。

 再びそばまで来た男は、ゼルが外套と剣を置いた机の陰から、一本の剣を取り上げた。ゼルが持つものとよく似た、飾り気のない質素な、細身の剣。しかし、その刀身に鋭い輝きは見受けられない。


「使ってもらうのはこの剣だ。見ての通り稽古用のものだが、使い勝手はそう変わらない。本物よりも少し軽いかもしれないな」


 言い終えると、男は剣の中ほどをつかみ、持ち手をゼルに向けて差し出してきた。腕を見られるものといっても、きっと些細な動作まで評価の対象になっているに違いない。右手で柄を握ると、男の手が剣から離れた。それを見計らって、ゼルは叔父に教えられていた通り、得物を胸の前に引き寄せ、一礼した。しっかりと目を伏せていたせいで、ゼルは男が満足そうに頷いたのを見ることはできなかった。


「では、試験官の正面に」

「はい」


 踵を返し、中央へと歩を進める。そのあいだ、ゼルの皮手袋はきつく剣を握り締めていた。

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