第276話 崩れる世界

「……地震?」


 その日、アルガンド王国の王太子、キールゲン・エル・アルガンディアはカントラント河のほとりに立っていた。

 傍らには、幾人かの騎士と共に、妻であるステファニーもいる。

 王国元帥でもある叔父のハインリヒも一緒だ。


 視察と言いつつ、実質は夫婦の旅行の様な側面もないわけでないが、基本的には公務である。

 各地の状況を自らの眼で見て確認し、国の状態というのを肌で感じる。

 アルガンド王国では、王太子の間にアルガンド王国の各地を巡るのが、半ば義務付けられているのだ。


 今年の一月に王太子となったキールゲンは、その半年後の六月、正式にパスティア伯爵の次女であるステファニーと結婚した。

 式は王都はもちろん、各地でも盛大に祝われ、特に王都の華燭の宴は三日間も続いたという。


 キールゲンとしては、本当はコウやエルフィナも式には来てほしかったのだが、その時コウとエルフィナはあろうことか聖都に向かう道のりの途中だったというのだから、どうしようもなかった。エルフィナがどれだけ食べるのかというのを見て見たかったというのもあったが。


 その後、王太子として政務に精励しつつ、いよいよ最初の訪問先に選んだのが、ステファニーの故郷でもあるクロックス公爵領だった。


 その、雄大なカントラント河と、背後にあるカントラントの河壁の壮大さに驚き、しばらくその景色を眺めていたところで、わずかに揺れを感じたのである。


「この地域で地震はあるのか?」


 キールゲンは案内してくれたクロックスの騎士を振り返った。

 しかしその騎士は、わずかに首を傾げる。


「いえ。私の知る限り、この地で地震が起きたことは、ないと思います。でも……確かに揺れてますね」


 河壁を見ると、城壁の上に立つ者も戸惑うような表情になっている。

 だが、震れはそれほどではなく、河壁が崩れるようなことはなさそうで、そこはとりあえず一安心する。


「何でしょう……何かものすごく不安な、そんな気持ちになります」


 ステファニーがキールゲンの隣に来てそう呟いた。

 それに、キールゲンも同意する。

 何か明確なものがあるわけではない。

 ただ、どうしようもなく不安になる――そんな気がしてしまう。

 叔父のハインリヒを見ると、彼もまた小さく頷いた。

 どうやら同じように感じているらしい。

 それが何に起因するのか分からないのがなんとも気持ち悪い。


「とりあえずクロックスに戻ろう。街の様子も気になるしな」


 キールゲンはそういうと、少しだけ予定を繰り上げてクロックスに戻ることにした。


 そして――。

 クロックスに着いた彼らは、そこで信じられない報に接することになる。


 それは、アルガンド王ルヴァイン四世が殺害されたという報せだった――。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「馬鹿な――なぜ、貴方が」


 バーランド王国王都、キルシュバーグ。

 水路と運河が織りなす美しい光景で有名なその都市の中心にある王城。

 その最上層で、次期国王として王太子でもあるフィルツ王子は、信じられないものをみて、顔を凍り付かせていた。


「フィルツ~。その次期王の地位は居心地は良さそうだなぁ……俺はもう、どうでもいいが」


 醜悪としか表現できないほどに歪んだ笑みは、まぎれもなく去年死んだはずのグライズ王子のもの。しかしそもそも顔の半分以上は人のそれではなく、灰褐色の鉱物めいた肌を持つ――悪魔ギリルのそれだった。


「ああ、お前には実はあんまり恨みはないんだよ。ただなぁ……あの伯父だけは許せねぇ。あれがさっさと俺に王位を譲ってれば、俺は今頃……なぁ」


 ペロリとグライズ王子の顔をしたは自らの腕にある、まるで剣の様に長い爪を舐める。

 その様は、もはや人間であるはずはなく、完全に悪魔ギリルのそれだ。


「まあ、お前は……そうだな」


 悪魔ギリルが動いた――と思った時には、すでにそれはフィルツの真横にいた。

 直後。


「が?!」


 フィルツの左腕が宙を舞い、フィルツが倒れる。

 一体いつ斬られたのかすら、分からなかった。


「あ……が……」

「アギェギェギェ。無様だなぁ、王子様」


 倒れたフィルツを見て、グライズの顔を持つ悪魔ギリルが、ひどく不愉快な声で笑った。

 そして、もう興味はないとばかりに、フィルツの横を通り抜け、奥の扉へと進む。


「ま……て……」


 それを止める力は、フィルツにはもうなかった。


 バーランド王イルステールが弑されたと国民が知るのは、この翌日のことである。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「恨まれてるだろうって自覚はありましたけどね、私も」


 パリウス公爵であるラクティ・ネイハ・ディ・パリウスは、冷めた目で自分の前に立つ四を見た。


 奇妙な地震があったその日、領内に被害がないか指示を出しているところで、突然屋敷が何者かの襲撃を受けた。そしてその襲撃者はあっさりと護衛の騎士たちを叩き伏せ――領主の執務室に踏み込んできたのである。


「まさかこのような形で再会するとは思いもしませんでした」

「ラクティ~。お前が素直に死んでいれば、儂は……」

「小娘……貴様が余計なことをしなければ、儂は今も……」


 どことなく叔父アウグストや従兄姉たち、あるいはあの内乱で処刑したエンベルク伯爵の面影のある悪魔ギリルを前に、もう一度、心底呆れたようにため息を吐く。


「自分たちの行いを悔いているならともかく、なおもこのような形で現れることに心底呆れるばかりです。少なくとも貴方たちを処刑した私の判断が間違ってはいなかったと分かっただけ、よかったというところでしょうか」


 今日は正式に来客がある予定だったが、その直前に割り込んできた彼らは、明らかに望まれざる来客だった。


 強がってはいるが、自分がもう助からないだろうとはわかっていた。

 部屋の前にはメリナも立っていたはずだが、彼女が来ないということは、おそらく殺されたか、少なくとも大怪我をしているのかどちらかだろう。

 いずれにせよ、今この瞬間にここにいないなら、駆け付けられる状態ではないのは明らかだ。


 そして、ラクティ自身には何の武力もない。

 目の前には悪魔ギリルが四体。ここから生き残る術は、さすがのラクティでも思いつけない。

 どうしようもなく怖くて、逃げ出したくて仕方ないが、逃げることはどう考えても不可能。そして命乞いをしても無駄なのも明らかだ。それならばそんな無様は、アルガンド貴族として晒したくはない。


(お兄ちゃんにもう一度会いたかったなぁ……。エフィちゃんがちゃんとお兄ちゃん落とせたのかだけでも知りたかったのだけど)


 悪魔ギリル達がにじり寄る。

 わずかばかりの心残りを胸に、ラクティは静かに目を閉じた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


皇帝陛下ラエル・ヴェルヒ。地方都市での悪魔ギリルによる事件は、例の地震以後、これで十回を超えます。現在、皇宮騎士リストーラ巡検士アライアが総出で対処しておりますが、皇帝直轄領と周辺三国だけでも、手が回らないほどの状況となります」

「面白くない報告だな、宰相フータール

「申し訳ありません」


 帝国宰相であるユーヴェントは深々と頭を下げた。

 無論この程度で、皇帝が理不尽な怒りをぶつけてくることはないと分かっている。だがそれでも、これほど不愉快な報告を連日することには、ユーヴェント自身、忸怩たる思いがあった。


「帝都でも悪魔ギリル出現の報が幾度かもたらされています。現在は冒険者レディオンの働きもあって、事態は速やかに対処されておりますが」

「帝都はあ奴らに任せておけばよかろう。神殿イスタはまだ何も言ってこぬか?」

「はい。冒険者や傭兵と協力して、神官戦士たちが対処に協力はしてくれておりますが、公式には何も」

「そうか――分かった。下がってよい」


 ユーヴェントは深く一礼すると、皇帝の執務室を出て行った。

 あとには、直衛の役割を与えられた皇宮騎士リスト―ラが二人だけ残る。

 その二人を一瞥した後、プラウディスは思考の海に沈んだ。


 奇妙な地震が起きてから以降、突然各地で異様な頻度で悪魔ギリルが現れるようになった。

 それからもう半月ほど。

 帝都ヴェンテンブルグはまだかろうじて平穏を保っているが、帝国各地はかなり混乱をきたしている。


 そして何より、この異常事態は帝国だけの問題ではない。

 冒険者ギルドによれば、大陸の東側でも同じ様な事件が起きているという。

 しかもあろうことか、アルガンドやバーランドの国王が悪魔ギリルによって殺されたという報まである。

 それ以上はどちらも混乱していて今どうなっているか分からないし、帝国としても他国に構っていられるほどの余裕はない。


 悪魔ギリルの出現は、地震から数日が一番顕著で、それ以後は頻度は落ちているらしい。

 何が起きたのかは分からないが、感覚的にはあとひと月も耐えればいったんは沈静化するのではとプラウディスは見ている。


 ただその一方で、奇妙なことが一つあった。

 神殿イスタの動きだ。

 神殿イスタは、国に属さぬ存在であると同時に、冒険者レディオンと同じく民の守護者を自認している。

 無論、今回の事変でも、非公式に戦力の供給はしてくれているが、本来であれば神殿が率先して動いても不思議はないのに、その動きがあまりに鈍いのである。


(ふむ……神殿イスタで何かあったか……? そういえば、あ奴らはそろそろ着いているはずだが)


 久しく忘れていたが、あのコウとかいう冒険者と、次期教皇とも目されていたティナという少女のことを思い出した。

 彼らが旅立ってから半年。そろそろ聖都に着いていてもおかしくはない。

 というより、彼らが着いた頃にこのような事態になったのは、単なる偶然か――。


「へ、陛下!!」


 考え事を中断させたのは、先ほど出て行ったはずのユーヴェントの、珍しくひどく狼狽した声だった。


「何事だ。少し落ち着け」

「は、は。申し訳ありません。その、神殿から先ほど正式に通告が届きまして」

「何?」


 ユーヴェントが持っていた紙を示す。それは、神殿が正式に何かを通達する時に使う書式で、帝国では関係ないが、他国では王位継承の承認などの際に使われるものだ。


「読め」

「は、はい。『聖歴ファドゥラ一〇二四六年八月二十五日。聖都ファリウスが悪魔ギリルの襲撃を受け、第三六七代教皇グラフィルアメスティアが死去。翌日、第三六八代教皇グラフィルとしてティナが即位。新教皇グラフィルティナは、九月十日を以って聖都ファリウスの放棄を決定し、同地域の完全な封鎖を宣言する』と……」

「……は?」


 プラウディスは、およそ皇帝に就いてから一度もしたことがない、間の抜けた反応をしてしまった。

 しかしそれも無理はない。

 突然の教皇グラフィルの代替わりだけでも十分衝撃的だったが、それ以上に強烈だったのは最後の一文。


 聖都ファリウス。

 それはこの大陸で唯一、一万年の昔から在り続けた都市であり、人類の歴史の象徴。永遠の都にして、人々の心の支えである。

 世界がどのようになろうが、聖都だけは永遠に維持されると、誰もが信じていた。

 それが突然失われたという事実は、文字通りの意味で世界から希望それ自体を打ち消すに等しい報せだったのである。



 聖歴ファドゥラ一〇二四六年。

 この年は、人々にとって忘れがたい年となった。

 それは、世界の終わりが始まった年、と云われることになったからである。



 ―――――――― 転移直後に竜殺し 第一部 了

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