第275話 教皇の意地

 悪意の王ギルスエルヴァスの力に侵蝕されるかのように、結界が光を失っていく。それと同時に、わずかな震動が感じられた。

 それはまるで、世界それ自体が恐れ慄いているかのようにすら思える。


「もはや我が力は止められん!! これで、次元結界アクィスレンブラーテは崩れ去り、悪魔われらがこの世界に至るのを阻止するものはなくなるのだ!!」

「させ……るか」


 コウは足の激痛を無視して立ち上がった。

 激痛でまともに力が入らない状態だが、魔技マナレットなら、痛覚を強引に遮断することも多分できる。

 そうすれば、最低限身体は動くだろう。

 今悪意の王ギルスエルヴァスを斬ることで事態が止まるかは分からないが、少なくともやらないよりはマシだ。


「うぐ!?」


 そう思った直後、コウは腹部に強烈な衝撃を受けて吹き飛ばされた。

 ミレアが突然目の前に現れ、折れた槍の石突をコウに突き込んだのだ。

 一体いつここまで移動したのかと思ったが、そのミレアはコウ以上に派手に、受け身も取らずに転がった。

 なんとミレアは、悪意の王ギルスエルヴァスの力で吹き飛ばされ、コウに一撃を入れたのだ。

 ただしその代償として、ミレア自身も相当な傷を負ったらしい。

 倒れたまま動かなくなっている。


「コウ!?」


 エルフィナが一瞬、悪意の王ギルスエルヴァスの元にいるティナに向かうべきか、コウの元に行くべきか迷う。

 だが、コウの眼を見て、すぐに悪意の王ギルスエルヴァスの方に向き直ると、風の精霊の力で突進した。

 この行動は悪意の王ギルスエルヴァスにも予想外だったのか――というよりはエルフィナに注意を払っていなかったのか――至近距離までの接近を許してしまう。


「ぬ!?」


 エルフィナはその勢いのまま、ティナに抱き着くように体当たりしつつそのまま駆け抜けた。

 結果、二人が重なるようにゴロゴロと転がる。


「ふん。無駄なことを。結界を完全な形で顕現させた時点でその娘の役割は終わりだ。わが力で結界が消えるまであとわずか。世界の終わりをこの目で見届けるがいい」

「お前を斬ればいいのだろう!!」


 その声に悪意の王ギルスエルヴァスは驚いて振り返り――すぐ目の前に、コウが滑り込むように現れたのを見て驚愕した。

 すでに動けないと思っていたからだ。

 だがコウは、全身を魔技マナレットで強化し法術を併用することで、いわば魔力で体を動かすようにして飛び込んだのである。


 神速の刃が再び振り抜かれる。

 その狙いは、悪意の王ギルスエルヴァスの急所。魔核それそのもの。

 体勢不十分だった上に油断していた悪意の王ギルスエルヴァスにその刃を回避することは不可能であり――コウの刀は、魔核を完全に捉えた。

 そして――。


 凄まじい衝撃がその空間に響いた。

 それはまるで、超重量の物体同士が激突したかのような音と衝撃であり、直後、悪意の王ギルスエルヴァスとコウが、どちらも反対方向に派手に吹き飛んだ。

 さらに、エルフィナとティナ、倒れているアメスティアやミレアまでも吹き飛ばされる。


「くあ!!」


 さすがに身体が限界に近い。

 それでもコウは、なんとか立ち上がろうとして、刀を床に突きたてる。

 そして吹き飛んだ悪意の王ギルスエルヴァスを見ると――こちらもわずかに呻いていた。

 だが。


「浅かった、か」


 完全に魔核を捉えたと思った一撃だったが、魔核はまだその形を保ったままだった。というより――。


(斬れなかった、のか?)


 先ほどの衝撃は、刀と魔核マナオルトがぶつかった時に起きたように思う。

 あるいは、原初文字テリオンルーンを斬るという行為は、さすがにヴェルヴスの力でも無理だったのか。


「お、のれ……ち、力が上手く……」


 だが無傷ではないらしい。明らかに悪意の王ギルスエルヴァスから漏れる力が弱まり、結界の侵蝕が遅くなったように思う。

 とはいえ、時間の問題だろう。


「やはり、貴様らを先に葬るべきであったか。いいだろう。世界の狭間に消えるがいい!!」


 直後。

 突然、コウの背後の結界の一部が裂けた。

 それは結界が崩れたのかと思ったが、そうではなく、結界のさらに手前の空間に『穴』が開いたのだ。

 そしてそこに、急激にあらゆるものが吸い込まれ始める。


「くっ、これは」

「ここまで結界が弱まったなら、一時的であれば空間をこじ開けられる。世界の狭間にて、朽ち果てるがいい!!」

「しまっ、た!!」


 その吸い込む力はすさまじく、すぐ近くにいたコウは、あっという間に身体が浮いた。

 慌てて飛行法術を発動させようとするが、その魔力すら穴に吸い込まれ、法術として発動しない。


「みんな、逃げ――」

「コウ!!」


 コウがそのまま、その裂け目の中に消える。


「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」


 エルフィナは慌てて立ち上がると、コウの消えた裂け目に駆け寄ろうとして、がく、と突然体勢を崩された。

 何かと思って振り返ると、片腕を失ったアメスティアが、エルフィナの足を掴んでいたのだ。

 自分で治癒したのか、肩の傷からの血は止まってはいるが、それでもひどく痛々しい有様で、意識を保っているだけでも奇跡だと思えるような状態である。


「え、アメスさん、大丈夫なんですか!?」

「大丈夫……ではない、ですが。行ってはダメです。貴女では、あの空間に入っても、耐えられ、ない。だから、待って、下さい」


 その強い視線に、エルフィナは自殺的にあの裂け目に飛び込もうとしていた自分を律した。それは、アメスティアがまだ何かできる方法があると言っていると思ったからでもある。

 そしてアメスティアはなんとか立ち上がると、呼吸を整えてから悪意の王ギルスエルヴァスを睨む。


「貴様、まだ息があったのか。だがその状態で、何ができるというのだ?」

「貴方の好きにはさせません、悪意の王ギルスエルヴァス。私だって、この世界を護る使命を帯びた、教皇グラフィル、なのですから」


 アメスティアから力が放たれる。

 それは、次元結界アクィスレンブラーテそれ自体を覆い尽くすかのように、大きく、そして優しい輝きに満ちていた。

 直後、ティナからの力の放出が止まる。


「馬鹿な。貴様、何をした」

奇跡ミルチェというのは、人では成しえないことを成すから、奇跡ミルチェ と呼ばれるのですよ」


 だが、ティナの力が止まっても、次元結界アクィスレンブラーテが消えることはなく、その侵蝕も止まらない。


「無駄だ。すでに我が力は結界に楔となって食い込んでいる。その娘がいなくても、その裂け目を広げるのは我一人でも十分――」

「わかってます」


 直後、結界から無数の光の蔦が伸びると、それがことごとく悪意の王ギルスエルヴァスを拘束する。


「なに!? これは……」


 その光にからめとられた直後、悪意の王ギルスエルヴァスから力の放出が止まり、同時に次元結界アクィスレンブラーテの侵蝕も止まった。

 そしてそれとは違う柔らかな光が溢れ、エルフィナとティナを包みこむ。


「エルフィナさん。行って下さい。あの先で、コウ様を助けられるかはわかりませんが――貴女にしかそれはなしえないと思います」


 完全に血の気を失った顔で、それでもアメスティアは毅然と告げた。


「あとのことは任せて下さい。大丈夫。私は教皇グラフィルですから」

「でも……」

「あの中がどうなっているか、私にも全く分かりません。ですが、今貴女に与えた加護なら、きっと耐えられる。コウ様を助けてあげてください」


 同時に、エルフィナの身体が宙に浮く。


「貴女とコウ様の二人なら、きっとこの世界を救ってくれる。そう信じています。だから――お願いします」

「アメスさん!?」


 アメスティアが軽くエルフィナを押すと、それだけでふわりとエルフィナの体が移動を開始する。

 直後、エルフィナもまた、その裂け目に吸い込まれた。


 アメスティアはそれを見届けてから、今度はティナの方に近寄る。

 ゆっくり抱き起すと、ティナはかすかに呻いた後に、目を開いた。


「よかった。傷つけられたわけではないようですね」

「あ……れ? おねえ、ちゃん……?」

「気付いたのですね、ティナちゃん。よかったです。でも、時間がありません。いいですか。ランベルト君に伝言を頼みます。すべての神官を連れて、ファリウスを去りなさい、と」

「え……」

「すでに結界は致命的なきずを受けました。おそらく、遠からず悪魔ギリルの大群が現れるでしょう。そしてその起点はこのファリウスになってしまう。多分ランベルト君なら、それで成すべきことを理解してくれると思います」

「お、お姉ちゃん!?」

「頼みますよ、新たなる教皇猊下リエル・グラフィル

「アメスお姉ちゃん!?」


 直後、ティナの姿が消えた。

 それを見て、悪意の王ギルスエルヴァスが忌々し気な目をアメスティアに向ける。


「まさかこれほどの力を持っているとはな……次元結界アクィスレンブラーテを利用した力とはいえ、他者を転移させ、我を一時的に拘束するほどか」

「これは、あなたが次元結界アクィスレンブラーテきずをつけたからこそ出せた力でもあるのですよ、悪意の王ギルスエルヴァス

「なに?」

「いえ、貴方が知る必要はないこと、ですね――」


 アメスティアの顔は、蒼白を通り越して真っ白に近かった。

 すでに普通の人間ならとっくに失血により意識を喪失している状態であり、まだ立っていること自体が奇跡に等しい。


「確かに我を縛るこの力は見事だが、いつまでも持つ? 一日もあるまい」

「そうですね。そしてあなたは自由になれば、結界をすぐにこの場で破壊を再開――いえ、またティナちゃんを探して今度こそ一気に結界を完全に破壊するつもりでしょうが――」


 アメスティアは懐から短剣を取り出すと、それを口に咥え、そして自らの左手首を切った。アメスティアの身体に残っていた血が、命もろとも流れ出していく。


奇跡ミルチェをここに固定します」

「なんだと?」


 アメスティアが腕を動かす。その手首から流れ出す血が、アメスティアの魔力を受けて複雑な紋様へと変わっていった。


「貴様、自分の命を使って……」

「ええ。そうでもしなければ、あなたをここに留めることはできない。ですがこの方法なら……そうですね。多分三年から五年くらいは何とかなるでしょう」


 そういうと、アメスティアは一度目を閉じた。


(あーあ。もっと美味しい物たくさん食べたかったし、恋もしてみたかったなぁ)


 教皇グラフィルともあろうものが、最後にこんな俗っぽいことを考えるのはどうかと思わなくはないが、所詮人間、やはり楽しみがなければやってられない。

 ただ、ここで自分が生き延びる目はなく、そしてこれをやることで、世界を確実に延命できる。ならば教皇グラフィルとして、やらない理由はなかった。


 この、力が漏れ出す状態になっている次元結界アクィスレンブラーテの間近であれば、自分の奇跡ミルチェの力が最大限強化され、一時的とはいえ悪意の王ギルスエルヴァスを拘束することが叶う。

 そして自分自身を触媒としてここに力を固定することで、自分が死んだ後も術をある程度の期間、継続させることができるのだ。

 それは、次元結界アクィスレンブラーテの寿命をさらに縮めてしまう事にもなるのだが、今必要なのはたとえ数年でもこの悪意の王ギルスエルヴァスをここに縛り付け、封じる力だ。


(ティナちゃん、ランベルト君、あとは頼みますね。そして……コウ様、エルフィナ様。どうか、この世界を――)


 結界から伸びる光はさらに強くなり、悪意の王ギルスエルヴァスを覆っていく。それに、悪意の王ギルスエルヴァスは抵抗することなく、むしろ感心した様な目をアメスティアに向けていた。


「なるほど、大したものだ。いくらか影響は出たとはいえ、決定的な崩壊にはつながらなかったか。仕方ない。一時、ここに封じられてやるとしよう。一万年の時を待ったのだ。たかが数年、我にとってはいかほどの時でもない」


 だが、それにアメスティアが答えることはなく――その瞳には、もう何も映っていない。

 そして結界の間は、静寂に包まれていった――。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 まるで全身があちこちに引っ張られているかのようだった。

 空間の裂け目に飛び込んだエルフィナは、進む方向すら自由にできず、まるで嵐の中の小船の様に翻弄されていた。


「コウ、どこ、です、か!?」


 目を開けているのも辛いほどの状況。

 それでも何とか目を開けると、そこに見えたのは無限の星空。

 かと思えば、何も見えない闇。

 次の瞬間には、逆に眩しすぎて何も見えない、白い世界。

 もはや何が何だか分からない。

 ただそれでも、エルフィナには一つだけ分かっていることがった。


 コウは生きている。

 それだけは確信をもって言える。

 コウの誕生日に贈った腕輪。あれには、コウがさらに付与を行い、お互いの魔力自体を感じ取れるようにもなっている。

 そしてそれから、コウの存在を感じられるのだ。だとすれば、コウはまだ生きているし、どこかにはいるはずなのだ。


 だが、どこにいるかは全く分からない。

 そもそも、まともに周囲を見ることもできないこの状態では、探しようもないどころか、意識を保つのすら難しい。


(コウ、お願い、無事でいて――)


 エルフィナは嵐のようなその空間で、まるで嵐の中の木の葉のように弄ばれ――それでも必死に、手を伸ばし続けていた。

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