第274話 絶望の序幕

原初文字テリオンルーンの一つ、[虚無ミュト]……」


 エルフィナが呆然と呟いた。


 ザルツレグの資料館で見た原初文字テリオンルーンの記録。

 その中に記載のあった文字の一つだ。『あらゆる存在がないことを意味する』とあったが、その意味はさっぱり分からなかった。

 ただ、第一基幹文字プライマリルーンをはるかに超える力を持つことだけは、確かだ。


 文字通りであれば、おそらく核融合の熱すら、『なかった』ことにしてしまったというところか。


 今の法術が通じないのであれば、もはや普通の方法では勝ち目はない。

 おそらく魔核には普通の攻撃も届くだろうから、何とかしてそれで魔核を破壊するしかないだろう。

 相手の[虚無ミュト]による攻撃の無効化に限界があるのかどうかわからない。無効化できる限界があるのであれば、それを上回る飽和攻撃を加えれば、まだ可能性はあるが、そんなことが人間に可能かといえば、わからない。

 さすがに時間を遡行して、過去を『無かったこと』にできるほどではないと思いたい。そうなれば勝ち目はない。

 もっとも、それがなくてもまともに戦って勝てる相手ではない。弱点が存在するだけマシとは言えるが、果たしてあれを弱点と言っていいのか、甚だ疑問だ。


 だが、今回の勝利条件は悪意の王ギルスエルヴァスの打倒ではない。

 今回の相手の目的は次元結界アクィスレンブラーテの破壊。

 それを失敗させればいいのだ。


教皇グラフィル、今のうちに――」


 コウに言われてアメスティアが頷き、まだ意識のはっきりしないティナの手を引いて下がろうとした。

 だが。


「ああ、逃げられても困るな」


 悪意の王ギルスエルヴァスはそういうと、軽く手をかざす。

 直後、戻るための階段と、そこに通じる穴が


「なっ……」

「これで退くこともできまい。お主らには、我を滅ぼす以外の選択肢はないということだ」

「……そうらしいな――」


 コウは深く、浅く呼吸をすると、刀を鞘に納めた。

 逃げることが不可能なら、もはや抗うしかないだろう。

 そしてもはや、後先を考えている場合ではない。


「コウ?」

「エルフィナ。あとで回復を頼む」

「え?」


 現状、悪意の王ギルスエルヴァスはこちらを下に見ているからか、一切の力を抑えてきていない。つまり今なら、法術クリフ魔技マナレットも使い放題だ。

 ただそれは、おそらくある一つを除いて、悪意の王ギルスエルヴァスに通じる力がないからだろう。


 その例外はコウの腰にいた刀。おそらくこれ以外の攻撃は、即座に回復されてしまう。そもそもこれによる攻撃でも、回復が遅いだけではあるが、それでも大きな違いだ。

 そしてこれを魔核マナオルトに叩きこむことができれば、逆転の可能性はあると思えた。

 

 距離をおいての魔技マナレットは、確実にあの力によって『なかったこと』にされるだろう。

 つまり、接近戦しかない。

 ただ、おそらくまともな方法では攻撃を受けることはないだろう。

 先ほども、コウの攻撃はことごとく捌かれていた。少なくとも普通の方法では、まず攻撃を食らってはくれない。

 それならば、人間の限界を超えるしかない。


 コウは深く深く息を吸う。

 そしてゆっくりと吐き出した。それと同時に、体内に押し込めた魔力が、全身に行き渡るような感覚が広がっていく。

 全身にその感覚が行き渡ったのを確認すると、コウは刀の切っ先を下げ、半身に構え、やや前傾姿勢になると――。


 直後、その姿は悪意の王ギルスエルヴァスの眼前にあった。


「!?」


 その首に、斜め上段から振り下ろされる刀が迫る。

 悪意の王ギルスエルヴァスはかろうじて腕をかざし――吹き飛ばされた。


「な!?」


 かろうじて体勢を立て直した悪意の王ギルスエルヴァスの、その眼前に再びコウが迫る。

 飛び込んできたその勢いのまま、今度は横薙ぎに刃を振るい、悪意の王ギルスエルヴァスは魔力を集束させた腕で受けたが――再び吹き飛ばされていく。


(くそ、まだ斬れないか)


 体が悲鳴を上げる。


 コウは、導師レクリアとの戦闘で使った自己強化の魔技マナレットを、文字通り全開にしていた。

 その効果はすさまじく、おそらく脳内物質が出ているからか、感覚すら加速したようになっている。

 そしてその速度は、明らかに人間の限界を超え、出せる力は桁違いになっていた。おそらく今なら、大型魔獣すら素手で吹き飛ばせるほどだろう。コウはそれに、さらに法術を併用している。

 おそらく普通の刀では、最初の衝撃であるいは折れていたのかもしれないが、このヴェルヴスの力を宿す刀はそんなことで折れるはずもなく、コウの力に十分に応えてくれていた。


 ただ、これは文字通り諸刃の剣。

 すでにコウの肉体は悲鳴を上げていた。

 こんな力を揮って、無事で済むはずがない。

 ただコウは、それらを無視して魔力を全身に行き渡らせ、肉体の限界を超えて強化する。


 筋肉が千切れるのが先か、悪意の王ギルスエルヴァスを倒すのが先か。


 自身でも回復法術をかけてはいるのだが、文字通り焼け石に水に近い。

 もっともそれがなければ最初の一撃で力尽きていたとは思えるが。


「化け物か!?」


 悪意の王ギルスエルヴァスから初めて動揺した声が漏れた。

 それが、コウにこの攻撃が無駄ではないことを知らせてくれる。


(ならば――これで!!)


 体勢を立て直した直後の悪意の王ギルスエルヴァスに迫る。

 その飛び込んだ勢いのまま、大上段に構えた刀を、彗星のごとく振り下ろした。

 悪意の王ギルスエルヴァスは魔力を集めた両の腕で受けるが――。


 振り下ろされた刀は、悪意の王ギルスエルヴァスの魔力の壁を突き破ることは出来なかったが、直後、ミシ、と悪意の王ギルスエルヴァスの体の軋む音とともに、ぐしゃり、と何かが砕けたような音が響いた。

 直後、悪意の王ギルスエルヴァスの両腕が奇妙な曲がり方をしている。


「オノレ!!」


 折れた腕に構わず魔力による衝撃を放つ悪意の王ギルスエルヴァスを、コウはわずかにかがんで避けると同時に、刀を鞘に納めた。


「ヌ――!?」


 抜き放たれる刀は、文字通り神速の一閃。

 それを辛うじて、悪意の王ギルスエルヴァスは腕で防ごうとしたが――その腕があっさりと切断され、刃が胴部に届く。


「ガア!?」


 鮮血が飛び散る。

 それでも悪意の王ギルスエルヴァスはかろうじて魔核への直撃は避けたが、その刃は悪意の王ギルスエルヴァスの胴を逆袈裟に斬り裂いていた。


「おのれ……これほどとは。だが、この刃を『消して』くれる!!」


 あろうことか、悪意の王ギルスエルヴァスが折れた腕で刀を掴んだ。

 捕まれた位置が悪く、コウの動きが一瞬止まる。


「貴様もろとも全て消えるがいい!!」


 魔核に刻まれた文字が輝く。

 原初文字テリオンルーンの一つ、[虚無ミュト]の力が溢れ――。


「しまっ……」


 コウ自身、失敗したことを痛感した。

 あの文字の力が話の通りだとすれば、コウ達を直接『無かったこと』にしてしまうこともできる可能性があるのには気付いてた。

 だが、それはまさに反則と言えるほどの力であり、文字通りチートだ。 

 そしてこれまでの言動から、少なくとも悪意の王ギルスエルヴァス自身、全く遊びがない性格というわけではない。だから、その『油断』している間に倒せばと思ったのだが、追い詰め過ぎたらしい。


 だが。


 バチ、と何かが弾かれるような衝撃と共に、コウは刀ごと吹き飛ばされた。


「ぐっ……」

「コウ!?」


 エルフィナが慌てて駆け寄って、即座に治癒の精霊行使エルムルトを使ってくれた。

 とたん、激痛が和らいでいく。


「ありがとう、エルフィナ。これでまだやれる、が……」


 今の間合いは致命的だったはずだ。

 少なくとも、[虚無ミュト]から放たれた力が、自分を捉えるのをコウは確かに知覚した。

 にもかかわらず、何の影響もなかったのである。


「バカな……貴様一体、何者だ」


 唖然としているのは悪意の王ギルスエルヴァスも同じだった。

 信じられない物を見るかのように、コウを見る。


「コウ、大丈夫なんですか?」

「ああ。何とも……ないな」


 どういう理屈かは全く分からないが、コウ自身、そして刀には[虚無ミュト]の力が及ばないらしい。

 考えられるとすれば、刀に宿るヴェルヴスの力か。

 ヴェン原初文字テリオンルーンにすら抗しきれるほどの力があるとはさすがに思わなかったが、世界の異なる存在だ。あり得ないとは言えない。


「これなら、勝機はあるかもしれない」


 少なくとも、この刀があれば原初文字テリオンルーンの力の影響を直接は受けないのだろう。

 そしてそれは同時に、この刀であの魔核を斬れれば、おそらく悪意の王ギルスエルヴァスを倒すことができる可能性があることも意味する。


 すでに全身の筋肉が悲鳴を上げ、エルフィナの治癒を受けても完全には回復しきれていないが、それでもあと数回は動ける。それで斬ればいいのだ。


 戦っていて分かったが、いかに悪意の王ギルスエルヴァスといえど、今は人間の姿をとっているからか、その力も速度も人間であり得る範囲にとどまっている。

 自己強化の魔技マナレットなら身体能力は圧倒できるため、十分に致命傷を与えられるだろう。


 長い時間はかけられない。

 次の一撃で決めるべく――コウは刀を再び鞘に納め、体勢を低くした。

 やること自体は、いつもと同じ居合。ただ、踏み込む距離が大きいだけであり、今の身体能力に[縮地]を併用すれば、一瞬で十メートル二十カイテル以上を詰められる。


「これで――終わらせる!!」


 文字通り、神速の踏み込みに大気が爆ぜた。

 それとほぼ同時の抜刀。悪意の王ギルスエルヴァスは全く動く様子もなく――。


「!?」


 コウは、その繰り出した刃が完全にくうを切って、転倒しそうになる。


「な?!」


 悪意の王ギルスエルヴァスの身体を、刀がすり抜けたのだ。

 驚いて視線を戻すと、悪意の王ギルスエルヴァスの姿が揺らぐ。


「あぐ!!」


 その悲鳴は、コウの背後、エルフィナよりも後ろから響いた。

 驚いて振り返った先に悪意の王ギルスエルヴァスがいて――その腕が、アメスティアの右の肩を貫いていたのだ。

 そしてその横に、いつ意識を取り戻したのか、ミレアが立っていた。

 先ほどの悪意の王ギルスエルヴァスは、ミレアの魔技マナレットによる幻像だったのか。


「アメスさん?!」

教皇グラフィル!?」

 

 肩を貫かれて千切れたアメスティアの右腕が、鮮血をまき散らして床に落ちる。

 アメスティアはそのまま崩れるように倒れ、そして悪意の王ギルスエルヴァスの腕に、まだ呆然としたティナが収まった。


「貴様が何者であるかは分からぬが――油断できぬ相手のようだ。ここは、我が目的を先に果たすこととしよう」

「させるか……!?」


 もう一度踏み込もうとした瞬間――コウの足に凄まじい衝撃が走った。おそらくは筋肉が完全に断裂したか。


「さあ、顕現せよ、忌まわしき次元結界アクィスレンブラーテ。我ら悪魔ギリルの新たな大地を言祝ぐために!!」


 悪意の王ギルスエルヴァスから魔力が溢れ、それがティナにまとわりつく。ややあって、ティナの身体から膨大な魔力が溢れた。

 その魔力は瞬く間にこの空間全体に広がると――突然、星空を凝縮したかのような光が現れた。

 無数の小さな光の連なりが、天井を隙間なく埋め尽くしている。


「こ、れが――」


 エルフィナが呆然と見上げる。


 その、無数の光の連なり。

 これこそが、次元結界アクィスレンブラーテそのものなのだろう。


「これだ。これこそが我らを阻む、世界の意思。だが、それもここまでだ!!」


 悪意の王ギルスエルヴァスが膨大な、澱んだとしか表現できないような魔力を放出した。その魔力が、結界の光に重なると、そこから光が失われていく。

 そしてその領域が、じわじわと広がり始めるのだった。


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