第273話 悪意の王の力

 戦いが終わったと安堵しかけ、緊張を解きかけた瞬間。

 その感覚にコウが反応したのは、半ば以上奇跡だった。


 何かが来る、と感じたコウは、反射的に飛びのこうとして――腹部に激痛が走ったのを知覚した。


「くっ!?」


 傷自体は、内臓にギリギリ届かない程度。

 だが、かなりの深手だ。


「コウ!?」


 精霊壁を解除した直後のエルフィナが驚いて振り返った先にいたのは、腹部から血が溢れるコウと、その前に立つ――。


「嘘……なぜ無傷で……」


 消滅したはずの悪意の王ギルスエルヴァスが、そこに無傷で立っていたのである。


「驚いたぞ。まさか、あのエルスベルの連中が用いた破壊の力を、今も受け継ぐ者がいるとはな。さすがに直撃していたら、我でもどうなったかはわからぬところだ」


 エルスベル時代に核融合またはそれに類する力があったというのは驚きだが、考えてみれば地球より進んだ文明があった世界だ。法術クリフという破格の力があったとはいえ、核融合によるエネルギーの獲得を行っていたとしても、不思議はない。

 しかしそれで無傷というのはどういうことか。


 とにかく傷を癒そうとして――コウは法術クリフが発動しないことに気付いた。

 この感覚は、滅魔の結界ディナンレンブラーテだ。


「ぐっ……」


 まずい。

 コウの腹部の傷は致命傷とはいかなくてもかなり深い。

 このままでは失血死する恐れがあるし、下手に動くとさらに傷が広がってしまう。


「あれほどのことを出来る相手に油断する理由はないからな。力を封じさせてもらった」

「コウ!!」


 立て続けに悪意の王ギルスエルヴァスに対して矢が飛来したが、それらは全てまるで悪意の王ギルスエルヴァスを避けるように見当違いの方向に飛んで行く。

 興味なさそうにその射手――エルフィナをみた悪意の王ギルスエルヴァスは、自分の頭のすぐ横に細刃ティスレットの切っ先が迫っているのに気付いて思わず目を見張っていた。

 エルフィナは矢を放つと同時に一瞬で踏み込み、剣を抜いていたのである。

 だが。


「く!?」


 細刃ティスレットの切っ先が、まさに悪意の王ギルスエルヴァスのこめかみまで、あと指一本分もないほどの位置で止まっていた。そこから先に、まるで見えない壁があるかのようだ。

 その直後、エルフィナの全身を七つの精霊が包む。

 一瞬で精霊鎧メルムガルドを発動させたエルフィナは、その超至近距離から全精霊による攻撃を叩きつけた。

 しかしそれすら、悪意の王ギルスエルヴァスには届いていない。


「魔力を封じる必要があるのはこの男だけかと思ったが……なるほど、お前たちはどちらも油断ならぬ相手のようだ」

「エル、フィナ、逃げ……!」


 コウは腹部の傷を無視して、刀を振り抜いた。

 さすがにこの刀は無視できないのか、悪意の王ギルスエルヴァスは大きく飛びのいて二人から距離を取る。

 その間に、エルフィナはコウに近付くと、一気に治癒の精霊行使エルムルトでコウの傷を癒した。


「……ありがとう、エルフィナ。エルフィナは今も精霊が使えるのか」

「ええ。コウは?」

「魔力それ自体を完全に封じられている感じなんだが……そうか。あいつのそれは、個人に対してすら行えるという事か」


 傷が塞がったコウは、刀を構え、その切っ先を悪意の王ギルスエルヴァスに向ける。

 その視線の先で、悪意の王ギルスエルヴァスはむしろ感心したような表情になっていた。


「ふむ。先ほどの攻撃に、それほどの傷を即座に癒すとは。それほどの精霊メルムの力……ほどか」

「え!?」


 まさかここで悪意の王ギルスエルヴァスからフィオネラの名が出るとは思いもしなかった。

 確かに、もし一万年前にこの世界に来ようとした悪魔ギリルであれば知っていても不思議はないとはいえ、普通そう結びつけることはないはずだ。

 だが、それでも結びつけられた理由は――。


「フィオネラという人も、精霊使いメルムシルファだった……?」


 すると悪意の王ギルスエルヴァスは意外そうな顔になる。


「ふむ、さすがに伝わってはいないのか。我らからしても遠い過去だと思えるほどに昔だしな。なるほど。それほどの力があるなら、我に抗おうとするのも道理ではあるし、可能性が皆無というわけではないだろうが――」


 悪意の王ギルスエルヴァスはそういうと、軽くコウを見やり――直後、コウは自分を縛る力が消えたのを感じた。


「より絶望を味わうと良い。先ほどの力、もう一度放ってみよ」

「は?」


 悪意の王ギルスエルヴァスの意図が分からない。

 すると悪意の王ギルスエルヴァスから、何かが浮き出てきた。

 体の表面に、黒い、拳程度の大きさの魔力塊が見える。


「これが我が魔核マナオルト――人間エリルでいうなら心臓というところだ。これが我のこの世界における急所ということだな」


 悪魔ギリルヴェン同様、この世界の住人ではない。それでも無理やり現界するのであれば、この世界への『楔』を必要とするのは同じらしい。

 とくに、物理的に存在しようとすればなおさら。

 バーランドで戦ったあの悪魔は、グライズを媒介として出現した。

 あるいは、あれもグライズの『中』に魔核とやらを持っていたのか。

 だが、あれはヴェルヴスの力の宿った刀で斬ることで、消滅させられた。

 それに関してはこの悪意の王ギルスエルヴァスも同じではあるだろうが、それが分かっているのか、明らかにコウの刀を警戒している。


 ただ、話の通りならその魔核は例外なのだろう。普通の、この世界の力で消滅させることができる可能性がある。

 おそらくヴェンの竜命点と同じようなものか。


「さあどうした。これを消せればお主らの勝ちであろう? ああ、一応教えておいてやろう。先ほどはこの魔核マナオルトにあの力が達する前に避けただけだ。危なかったぞ。体のほとんどは消滅したからな。だが、今度は避けぬ。ここを動かぬと約束しよう」


 何を考えているかわからないが、好都合だ。

 先ほどの法術は十分な時間がなければ放てないし、当てるのも難しい。

 それを食らってくれるというなら、遠慮なく吹き飛ばさせてもらう。

 エルフィナを振り返ると、こちらも小さく頷く。

 現状、あれがコウとエルフィナが繰り出せる最大の攻撃であることは間違いない。

 先ほどはぎりぎりで避けたようだが、話している通りだとすれば、今度は避けないつもりらしい。

 本当にその通りにするかはともかく、いずれにせよ隙は作れる。

 うまくいけば、刀で斬りつけることもできるだろう。


「じゃあ遠慮なくいくぞ――エルフィナ!」

「はい!」


 膨大な数の障壁が圧縮される。

 やがてその、指先ほどの大きさの障壁の球体が赤く輝き――。

 直後、悪意の王ギルスエルヴァスの周囲の気体が消える。


「聞こえはしないだろうが――吹き飛べ。[融合熱線フュージョンレイ]!!」


 再び、濁流めいた熱線が真空へ踊りだす。

 そしてそれは悪意の王ギルスエルヴァスを直撃――する直前で、消えた。


「え?」


 放たれた熱線は、唐突に悪意の王ギルスエルヴァスに達する直前に、まるで何事もなかったかのように消滅したのである。

 空間を開いて別の場所に送ったとかではない。

 文字通り、唐突にすべて消えた。

 しかも消えたのは熱だけで、真空状態になった精霊の力はそのまま――だったが、それも唐突に解除された。

 エルフィナを見るが、彼女が解除したわけではないようだ。


「どうした、終わりか?」

「……何をした」


 どう考えてもつじつまが合わない。

 この世界には法術クリフ精霊メルムの力があるとはいえ、基本的な物理法則は地球のそれとほぼ同じだ。

 つまりそこには、物理的な理由が存在する。

 [融合熱線フュージョンレイ]にしたところで、核融合反応を発生させるための微少量の空気の転移は、二つの地点を魔力でつなぎ同一座標と仮定することで原子核を強引に衝突させて核融合反応が発生する理屈だ。実際に転移しているわけではない。


 つまり発生した熱が唐突に、なんの残滓も残さずに消えるなど、考えられない。

 だがそれが目の前で起きた。


「ふむ。何も知らずにというのは酷か。ならば教えてやろう――」


 そういうと、悪意の王ギルスエルヴァスは魔核をよりはっきりと出現させた。まるで心臓が胸部の上にあるかのようだ。

 嫌がらせかと思ったが、そうではなく――そこに複雑な文様が描かれていた。


「……まさか、原初文字テリオンルーン……?」


 あの文字の形は、見覚えがある。

 エルフィナの命を一度奪った、あの法術符クリフィスにわずかに残っていた、原初文字テリオンルーンと思われる一つ、[ウィル]の文字。それに似ているがさらに複雑な文字が、そこにはあった。


 元々真界教団エルラトヴァーリーの中に原初文字テリオンルーンの使い手がいる可能性があるとは考えていた。

 ただ、これまで真界教団エルラトヴァーリーの中に、その使い手が全くいなかったのですっかり忘れていたのだ。

 だが、ここまでいなかったということは、この目の前の、真界教団エルラトヴァーリーのトップが持っているのは当然であり――。


「ほう、知っていたか。いかにも。これこそが、すべての世界を形作った力の一端。この世界においては原初文字テリオンルーンと語られる力。そして、わが世界そのものともいえる、[虚無ミュト]である」


 

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