第258話 聖都の市場

 翌日は朝から空が暗かった。

 どうやら天気が悪いらしく、灰色の空が天井に映っている。

 ちなみにこの映っている空はやはり外の空を映しているらしい。

 どういう原理で動くものであるかはコウでもさっぱりわからないが、エルスベル時代の設備なのだろう。

 そんなわけで今日は天気が悪いようだ。


 ファリウスについて三日目。

 コウとしては今日には神殿にある書庫で色々調べてみたくもあったのだが、折悪く書庫の整理が二日前から行われていて、今は入れないらしい。

 この予定をアメスティアはすっかり忘れていたらしく、昨日夕食の後に神殿によってティナに会いに行った際、アメスティアにひたすら謝られた。

 ちなみに度忘れしていただけだったらしいとは、従神官のネーゼの言葉。


 書庫整理が終わるのは三日後ということで、それまでは予定がない。

 ただ、今日は昨日アメスティアから書庫のお詫びに、というわけではないが、街を案内してもらえることになり、そのために二人は、宿の前である人物を待っていた。


「ランベルトさんが案内してくれるんでしたっけ」

「そう聞いてるが……来たな」

「すまん、少し遅れた」


 現れたのは予定通りランベルトだ。

 時刻は九時過ぎ。といっても、十五分六刻も過ぎてはいないだろう。


 ランベルトの服装は、これまでの旅路で着ていた旅装ではなく、正規の神官衣をまとっている。さすがに昨日着ていた正装ではないようだが、白を基調にしたその服はやはり目立つ――のは普通の街の話で、この街に関しては違和感はない。

 確かに街の人々で神官衣を着ていない人は少なくないが、それでも往来は神官が多いのだ。むしろ、コウやエルフィナのような旅装の方が非常に珍しい。


 コウが纏うのは藍染めのジャケットに近い上着に、下は普通にくるぶしまである長さのズボン。もっとも、ジャケットの強固で特殊な糸を編み込んだもので、並の刃ではまず通らない防刃性を誇る。

 エルフィナはいつもの皮革の鎧はつけておらず、ゆったりとしたローブ姿。ただ、その上から同じく防刃性のコートを羽織っている。


 ファリウスの内部は外に比べるとはるかに暖かいが、それでも腕を出していると少し寒気を感じる程度。コウの感覚では十五度くらいだ。

 それでも外――真夏のこの時期でも外に水を置いていると朝には凍り付くらしい――よりははるかに暖かい。


「遅れたというほどではないが……そういえば、ティナはどうしてるんだ?」

「昼まではアメス姉さんにいろいろ教えてもらうらしい。なので昼に神殿に迎えに行く」

「ティナちゃんも来るんですね」

「ああ。まあファリウスを案内するなら、一緒にしてくれということらしい。なんで私が……」

「世話係だからだろ」


 コウの言葉に、ランベルトががっくりと肩を落とす。

 ちょっとかわいそうになってくるくらいの落ち込みようだ。


「そこまで……大変なのか?」

「大変というか……あの二人と一緒に食事……あ、コウは慣れてるのか……」


 なるほど。

 旅の途中では、エルフィナもティナもいつもそんな大量に食べていたわけではない。これは、エルフィナに言わせれば移動中の食事はやはり美味しくするにしても限界はあり、そこまでたくさん食べたいものではないのだろう。

 そしてこれまでの道中は大半が移動だったので、街に宿泊した時くらいしか『見てるだけでお腹いっぱいになる』という食事光景は目の当たりにしなかった。


 ただ、ランベルトによるとアメスティアはティナにファリウスを気に入ってもらうためというのもあるのか、特に食事には気を使ってる――というか美味しいものを出しているという。

 そしてティナも、アメスティアに心配させないためもあるのか、いい意味で遠慮がないようで、結果として食事はお互いにとっては楽しい時間らしい。

 そしてそれに、ランベルトも付き合わされるのだが――。


「まあ……俺は慣れたな」


 最初こそエルフィナの食事量には驚いたが、すぐに慣れた。というかあれだけ幸せそうに美味しそうに食べている光景は、見てるだけでこちらとしてもわけもなく嬉しくなる。

 そうでなくても、もう一年以上一緒にいるのだ。慣れないはずがない。


 なお、その話題にされたエルフィナは恥ずかしいのか、少し顔が赤い。


「し、仕方ないじゃないですか」


 実のところは食べなくても平気だと昨日判明したわけだが、かといってもともと食事のために森を出たエルフィナが、食べても問題がない時に食事を我慢する理由はない。


「まあそれはともかくだが、今日はどこに行くんだ?」

「ああ。まずは市場、それから農業区画だ」


 農業区画。

 一万人あまりの聖都の住人の食を支えるファリウスの区画で、この都市部とは別の区画にあるという。

 要するには地下農場というわけだ。

 こんなものがあるあたり、本当にこの都市は長期間の隔離を考えた特殊な施設だと思わされるが、実際どういう形で生産しているのかも気になるところである。


 ランベルトが案内したのは、聖都の壁際にある大きな建物。

 ともすると巨大な倉庫にも見える建物だ。


「ここは?」

「農業区画への入口兼ファリウスの市場いちばだな」


 中に入ると、数多くの食料品を扱う屋台のようなものが並んでいた。

 朝の十時前――日本の感覚だと朝八時前――なのだが、かなり活気がある。


「食料は大体誰でもここに買いに来る。無論大聖堂も、二人が泊まってる巡礼者用の宿もここから仕入れるんだ」


 いわば、この街唯一の食料品売り場らしい。

 扱っている食材も一般的な野菜や果物以外に、牛やイノシシ、鶏に羊、ヤギ等。

 さらには魚まである。


「すごいな……これは」

「そういえば……あの時はあまりに他に衝撃的な話を聞いたから聞きそびれていたが、コウって……その、この世界とは違うところに住んでいたんだよな」

「まあ……そうだな。こっちに来たのは……ちょうど二年近く前だ。多分二年前の十月ごろだ」


 正確な日付は分からない。

 ヴェルヴスと戦ってかろうじて生き残った後、四日か五日ほど山中を彷徨い、気付いた時はフウキの村にいた。

 数日は眠っていたらしく、気付いたのは十月十日ごろだったか。だとすれば、九月末から十月頭頃にこちらに来たのだろう。


「その、正直に言えば信じられないんだが……なんせ見た目も、妖精族フェリアよりも俺たち人間エリルに近いし」

「まあそれは俺も不思議だが……言葉も最初は通じなかったしな」

「言葉が?」


 ランベルトが不思議そうな顔になる。


「ああ……そうか。言葉が『違う』って概念がこっちはほとんどないんだよな」


 エルスベル時代から同一の言語を大陸中で使い続けていたこの世界では、そもそも『異なる言葉』という概念自体がほとんど存在しない。何しろ会話可能な魔獣すら、話す言葉が同じなのだ。

 唯一の例外が精霊と対話するための言語だが、そもそも対話できる存在があまりに少ない。


「言葉が違うってのは……不思議だな」

「エルフィナにも言われたがな……俺からすれば世界中で同じ言語を使う方が不思議なくらいだが」


 もっとも、おそらくエルスベル時代に言語が統一される前は、あるいは違う言語もあったのかもしれない。

 一万年以上前の事なので分かるはずもないが。

 ただ、一度統一された言語が、その後も変わらず使い続けられているのは、おそらく神殿というネットワークがあったからだろう。神殿が教育を請け負っていることを考えると、言語のも抑えられやすくなる気はする。


「それにしても……季節感無視して色々な野菜や果物がありますね。しかもどれもすごく美味しそうですし」

「確かにな……どういう環境で作ってるんだ?」

「そこはティナと合流してから案内するよ。先に二人を案内したのは、そのうち自分でも作りたくなったら、ここに買いに来ればいいってことを教えておきたくてな」


 巡礼者の滞在は、大抵は一週間から一カ月程度。

 ただ、コウとエルフィナの場合滞在期間がいつまでになるか全く未定だ。

 無論、滞在が短いに越したことはないと思っているが、次元結界アクィスレンブラーテの修繕という何をすればいいのかもわからない作業に、どのくらいの時間がかかるかなど分かるはずもない。


 となれば、いつまでも宿の食事だと、悪くはないかもしれないが自分で作りたくなったら、どういう食材があるのかは知っておくのは重要だろうというランベルトの判断だった。


「それに、コウもエルフィナさんも、食事当番の時の食事が美味しかったからな。結構料理は好きなのかと思って」

「それは否定しませんね、私は。それにコウの料理もおいしいですし」

「……というか、コウの料理って、もしかしなくても、その、出身世界の料理、なのか?」

「まあ……そうなるな」

「それは私でも……興味が出るな……」


 その瞬間、コウは少し嫌な予感がした。


 そしてその予感は違わず、数日後に教皇グラフィルとその後継者にオムライスを作ることになるのだが、それはまた後日の事である。

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