第66話 エルフィナの勉強会

 コウとキールゲンが話していたころ、エルフィナは女子寮の食堂にいた。

 といっても、食事をするためではない。

 今エルフィナの前に広げられているのは食器類ではなく、いくつかの使い古された書物と、メモを取るための白板である。

 この白板は、紙を使うほどではない記録を行うためのもので、特殊な加工をした陶器の板に、炭を加工したペンを使って書くことができる。

 布で拭けば簡単にきれいになり何度も使えるもので、講義の際などにメモを取るのによく使われるものだ。


 コウとエルフィナはどちらもキールゲンの護衛という仕事を請け負っているが、常に二人が張り付いている必要はない。

 そもそも女性であるエルフィナは、学院内ではともかく、寮では張り付いていることができない――最初に寮が男女別で納得しなかった理由でもある――ため、学院での講義や研究が終わった後は、どちらかというと自由になる時間が多い。


 なのだが、エルフィナはここ最近、食事でもないのにこの食堂に来るようになっていた。

 理由は――。


「うーん、残念。ちょっとここが違いますね」


 アイラの言葉に、エルフィナはがくりと項垂うなだれた。


「ほら、惜しいです。ここ、計算の手順がこの場合少し変わるんです。他は大丈夫だったから、あと少しですよ」


 そう言って励ましてくれるのは、リスティという名の女子生徒。アイラの友人であり、少し癖のある栗色の肩の辺りまでの髪と、鳶色の瞳の少女で、年齢は十五歳とのこと。

 エルフィナはこのところ講義が終わった後、勉強を教えてもらっていたのである。


 今日は午後、キールゲンは予定がなかったので街に出たらしいが、エルフィナはその予定を把握しておらず、この予定を入れてしまっていた。コウが問題ないと言ってくれたので、護衛はコウに任せてしまっている。


 アルス王立学院は入学の方法がどうであれ、この学院の試験を突破できる程度の知識があることを前提としている。

 そして、コウは楽々とその『前提』をクリアしてしまっている。

 彼は『チュウガク程度だからな……俺にとっては』と言っていた。『チュウガク』というのがなんであるかは分からないが、彼にとっては簡単な内容らしい。

 だが一方、つい半年前まで森で過ごしていたエルフィナにとっては、基本の算術すら覚束おぼつかない部分があるのだ。


 別に講義の内容についていけなくても問題はないというか、実際かつてのキールゲンの護衛の二人は、最低限の学問は修めていたらしいが、それ以上のことはしておらず、講義では寝ないのに必死だったらしい。

 エルフィナも最初それでいいかと思っていた。しかしコウが予想以上に楽しそうに講義を聞いている上、この学院に何年も通う学生たちすら驚くほどの知識や発想を披露し、周りからも一目置かれているのを見ると、これでいいのかと思えてきたのだ。

 確かに話の通りなら、コウは極めて高い教育を受けてきていたのであり、その彼に対抗するのが無謀なのはわかっている。

 ただ、コウのパートナーを自認するエルフィナとしては、せめて最低限の課題くらいはできるようなっておきたい。というか、百五十年以上生きているというのに、知識量で圧倒的に下回るのは、さすがに情けないと思えてくる。


 しかし実際は、特に森妖精エルフのほとんどは、異世界出身のコウはもちろん、アイラやリスティにすら、知識量で大幅に劣る。


「なんていうか……寿命が長いだけで、本当に無駄に過ごしてますね……」


 森に居た頃は考えもしなかった。

 変化のない日常をただ過ごすだけの生活で、それがおかしいとはまったく思わなかった。

 外の世界に出て初めて、同じ日が一日としてないことを初めて知った――捕まってるときは別だったが――くらいである。

 森妖精エルフが本気になれば、数百年間研究し続けることすら可能であり、そうすれば、もっと多くのことを学べると思うが――多分この考え自体が、森妖精エルフとしてはもちろん、妖精族フェリアとしても異端なのだろう。

 あるいはこう考えることができるからこそ、氏族を出る決意ができたのか。


 とりあえずどうにかエルフィナは今日の目標としていた課題を終えることができたが、すでに疲労困憊。

 文字通り机の上に上半身を投げ出して潰れている。


「疲れました……戦闘している方が楽な気すらしてきます……」

「お疲れ様、エフィちゃん」


 アイラが冷えた果実水を出してきてくれた。

 食堂だけあって、食事時以外でも軽食などであれば作ってくれるし、果実水はいつでも出してくれる。

 さらにこの果実水は、アイラが法術で冷やしてくれたものだ。

 彼女は氷系統の法術を得意としていて、特に暑くなり始めているこの季節には、周りから本当に頼りにされている。

 一口飲むと、ほんのり甘い味で口が満たされ、その冷たさで使い過ぎてぼんやりしていた頭が少しすっきりする気がした。


「ありがとうございます、アイラ」

「いえいえ。私も復習できますし。しかしすっかり女子寮食堂こちらでの勉強が定番になりましたね。最初は図書館だったのに」


 追加で勉強しなければまずいというのは、それこそ最初の数日で分かった。

 そのため、ステファニーやアイラに夜に教えてもらったり、あるいは午後の講義が終わった後などに学校の図書館で教えてもらっていたのだが――今はこの女子寮の食堂が定番になっている。

 その理由は――。


「まあ、あれだけ周りに人がいたらやりづらいですよね」


 エルフィナの周りに集まる男子生徒が、さすがに気になったからである。


「でも、告白された回数は意外に少ないんでしたっけ」

「四人ほど……少ないのかどうなのかよくわかりませんが」


 アルガンド王国では恋愛も正面から、という風潮があるらしい。

 そのためか、文字通り人前で告白するのが普通だという。

 ただ、エルフィナは『告白』という概念すらよく理解できない。


 エルフィナにとって男女の付き合いというのは、長い間一緒にいて、自然と相手のことを理解し、この先も一緒にいていいと思うものであり、その期間に数十年をかけるのが当たり前だ。それが森妖精エルフの恋愛である。


 それが、『告白』という行為から一緒にいるようにして、お互いを短期間で理解しようとするというのは、いかにも寿命の短い人間ならではの風習で、それはそれで理解はできるが、かといってエルフィナがそれに応じる理由はない。


 そもそも、エルフィナもキールゲンの護衛任務のために一時的に入学しただけなので、三カ月程度でこの学院を去ることは決定事項だ。その間だけでも一緒にいて自分を知ってほしい、などという男性もいたが、その三カ月だってほとんどはキールゲンといることになるわけで、つまりその人物との時間を作ることなどできるはずもない。

 できるとしたら、一緒にキールゲンを護衛してもらうくらいしかない。


「入学から一ヶ月で四人ですか。エフィちゃんの魅力を考えたら少ない気がしますが……まあちょっと近寄りがたいという人も多いですしね」

「そうなんです?」

「ええ。美しすぎて気後れするという人は何人か聞きましたよ。あとはいつもコウ様が一緒でしょう? あの方に自分がかなうと思える男子生徒は……ちょっといないんじゃないかと。冒険者だから武芸も達者でしょうし、法術も得意と聞いてます。それに加えて学問も非常に優秀ですし」

「コウは別にそういう相手ではないのですが……」


 信頼している仲間ではあるが、恋愛対象かというと――少なくとも今そうだとは思っていない、はずだ。

 もっとも彼のおかげでが減ってるのであれば、それはありがたいことではあるが。


「それに皆さんだってすごいです。私よりずっと年下なのに」

「それは……種族の違いもありますし。でも、エフィちゃんもすごいですよ。学院に来た時は基本の算術すら覚束おぼつかなかったのに、もうこんな複雑な問題も解けるようになってきてるのですから」

「それは皆さんが教えてくれたおかげです。でも、コウはこんなの楽々と解いてましたし」

「あの方はちょっと別格過ぎます。以前どこかの学校に通われていたのでしょうが……あそこまで高度な学問を修められる学校なんて、どこにあるのか。あるいは家庭教師でもついてたのでしょうか」


 さすがにまさか異世界から来てるとは言えない。

 そして十二年にもわたって、しかもこの学院と同レベルかそれ以上の高度な学問を修めているなど、想像できるはずもない。


「コウ様のお話です?」


 部屋に教材を置きに行っていたリスティが戻ってきたらしい。話に割り込んできた。

 ちなみにリスティもアイラと同じく平民出身、つまり試験を突破してこの学院に入学した生徒だ。当然、非常に優秀ということになる。


「コウ様もエルフィナさんと同じくらい、女生徒の間では人気なんですが……同時に全員諦めてますね」

「そうなんですか?」


 リスティは、それは当然でしょうというようにエルフィナを指さす。


「こんな素敵な女性がいつも隣にいて、自分が割り込めると思える人はいませんよ」

「だから、コウとは別にそういう関係ではないのですが……」


 こればかりは何度言っても誰も納得してくれない。

 まあ確かに、いれる時はいつも一緒だからそう思われるのかもしれないが、仲間というのはそういうものだと思っている。


「まあ外から見たらどう見えるか、なので。それはそれとして、私としてはラクティ様との関係が凄く気になるんですよね。ラクティ様が卒業後に大変な思いをされたというのは人伝ひとづてに聞きましたけど、それを助けたのがコウ様なのでしょう? エルフィナさんはそのあたりはご存じなのですか?」


 実はこのあたりの話は、一通り聞いている。

 あの、エンベルクの最後の夜に、ラクティが延々と語ってくれたのだ。

 おかげでほとんど眠る時間がなくて、翌日寝不足だったわけだが。


「私がコウに会うより前の話なので、詳しくは知らないんです」


 ラクティ本人から話を聞いたと知られると面倒だと思ったので、話を誤魔化す。


 ラクティとコウの関係はステファニーやアイラ、リスティらにはもうバレているが、エルフィナとラクティが知己であることは実はまだ知られていない。

 エンベルクの叛乱事件に関連する詩にも登場してしまっているが、『女神の化身』などという描写が描写なので、あれがエルフィナのことだと気付かれていないのだ。幸いというか、あの歌では妖精族フェリアであることが明言されていない。

 なので、あの『女神の化身』は何かの象徴的な存在で、実在しない人物だと思われているらしい。

 アイラが『精霊の加護を受けてるのを表現してるのでは』と推測してるときは、一瞬焦ったが。

 いろいろ聞かれるのが面倒なので、エルフィナは黙ってることにしたのである。


「はー。でもラクティ様とコウ様ならお似合いですのに……。ああ、でもコウ様にはエルフィナさんがいますから、もしかしてラクティ様が身を引いた……?」

「ふえ!?」


 リスティの妄想がとんでもない方向に――とまで考えて、あながち間違ってない様に思えてきた。

 身を引いたわけではないが、ラクティがコウとエルフィナをくっつけようとしているのは確かだ。


「そのあたり、どうなんですか、エルフィナさん」

「……知りません。そんな偉い人の話をされても」


 夜通し語り合った仲だとは絶対に言えない。


 実際あの時は、本当に楽しいと思えたし――ラクティを姉と呼ぶことを承諾させられたのはともかく――今でもラクティのことは友人だと思っている。

 ただそれとは別に、コウのことを自分がどう思っているかは――やはりわからない。ラクティが言うような感情があるかといえば、ないと思っている。

 こればかりは、自分が森妖精エルフであることも関係しているのだろう。


 森妖精エルフの恋愛というのは、本当に、あきれるほどゆっくりだと云われる。百年かかるケースだって珍しくない。

 だが、人間相手にそんな時間はかけられない。


 人間と結ばれる森妖精エルフがいないわけではなく、そういう場合はおそらく短時間で結ばれているのだろうが――エルフィナには『その先』が想像できない。

 正しくは、恐ろしいと思ってしまう。


 人間の寿命と森妖精エルフの寿命は、それこそ絶望的なまでに違う。

 それは、たとえ異世界人であるコウとて同じだろう。

 同じように年齢を重ねていくことは不可能なのだ。

 場合によっては、自分の子供の死すら見届けてしまうケースもあるという。

 それが――エルフィナには想像できない。


 人を人を愛する気持ちというのは、理解はできる。

 だが、絶対に自分より先に死ぬとわかってて、それでも結ばれようとする気持ちは、少なくとも今のエルフィナには理解できなかった。


 だから正直、ラクティがあの様にたきつけてきたが、コウの相手はラクティの方がいいと思っている。

 コウがラクティを妹の様に思っていても、いつまでも同じとは限らない。


 ただ――。


(なんでしょう……この感じは)


 その想像をするたびに、何か胸の奥にの様なものがあるように感じる。

 その正体に、今のエルフィナは全く思い至ることができないでいた。



――――――――――――――――――――――――

長い……しかし見事にワンシーンで切どころがない(汗)

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