第2話 竜殺し

 強烈な落下感覚があり体が一瞬強張るが、予想された衝撃はなく、いきなり地面に転がったように思えた。

 それで少なくとも、手足に感覚があることに気付く。


「一体どうなって――」


 平衡感覚が戻って、閉じていた目を開く。

 その、最初に映ったのは――


「うわあああああああ!!!」


 ほとんど反射的に、コウは横に飛びのいた。

 直後、巨大な何かが、一瞬前まで彼のいた場所を通過する。

 大きさは大型の自動車ほどか。


 ただ、自動車と決定的に違うことが……というか、違うことしかなかった。

 自動車かと思ったのは、巨大な頭。

 黒光りする表面は、細かくいくつも重なり、魚とは違うが、鱗と呼べるようなものでびっしりと覆われていて、その一枚一枚も、宝石のような煌きがある。

 コウをひき潰し損ねた『ソレ』は、ゆっくりと後退し、方向を変え、コウを正面に捉えた。

 巨大な金色の瞳を持ち、無数の牙が見え隠れする巨大な口から僅かに真紅の煌きが漏れ、それが黒銀の鱗に映えるそのようは、まさに伝承やおとぎ話の中にしかいないはずの存在。

 彼が避けた自動車大のそれは、巨大な竜の頭部だったのだ。


「な……」


 一瞬で停止する思考。

 この時、竜が再びコウを砕かんとその牙をむいたら、彼は確実に、その牙によって砕かれていただろう。

 だが、この時竜はそうはせず――。


『我が一撃を避けたか。小さき者。だが、我が領域に土足で踏み入ったその罪は、汝の命を以ってのみあがなわれよう』


 声ではない。

 実際、耳が捉えた音は目の前の竜が放っているであろう、唸り声にも似た音と、あとは風の音くらい。

 だが、その『意志』は確実にコウに届いた。

 意識を直接叩きつけられた、といってもいいかもしれない。


 手足は動く。

 どういう状況なのか分からないが、少なくとも現状五体満足だった。

 改めて目の前を見る。


 巨大な竜がそこにいた。

 形状としては、いわゆるウェスタンドラゴンというやつか。

 宝石のように美しい黒光りするその体躯は、頭の大きさだけで大型ミニバン車ほど、というより長さならそれ以上。

 その頭部から、おそらく五メートル以上はある首があり、大型のダンプカーより大きな体に繋がっている。

 地面を踏みしめている四肢は、やや小さく見える前足でも、その大きさは人間数人をまとめて握りつぶせるほど。

 鋭い爪があるようだが、そもそもあんなもので殴られたら人間などひとたまりもないだろう。

 後ろ足は、その地面についている部分だけで、やはり大型の自動車クラスの大きさがある。

 そして、長さ十メートル以上はありそうな長大な尾は、下手な巨木より太く思える。


(どういう状況だよ、これは?!)


 半ばパニックになりつつも、コウはさらに周囲を見渡した。

 すり鉢上になった荒地、というところか。

 そのほぼ中心に、自分と竜がいる。

 竜の全長は尾を除いても二十メートルほどか。

 周りに他には何もない。

 

 つまり、味方もいなければ、逃げるための手段もない。

 そこでふと、自分の手が何かを握っていることに気付いた。

 それは、バイクで転倒した時に最後に握っていた棒状の得物――日本刀だ。

 育ての親の形見であるそれは、来歴も由来も知らないが、それなりの逸品だと聞いている。

 この状況では、『ないよりマシ』でしかないが、それでも馴染んだ感触が手にあるのは、少しだけ安心できた。


『ゴァァァァァァァァァッッッ!!!!!』


 突然、耳が破裂したかとも思うほどの轟音が響いた。

 それが、目の前の竜がいなないたと気付くまでは半瞬。

 大気そのものを圧するかのような重圧すら感じるほどだが、コウは耐えきった。耳鳴りこそすれ、平衡感覚を失うほどではない。


 直後、コウは全力で横に飛びのいた。

 そこに、竜の尾が振り下ろされる。

 その巨大な尾は、当然そのまま地面に叩きつけられ、その大地を撃砕した。

 爆発でもあったかのような衝撃と、それによって散らされた破片がコウを襲う。


 身をかがめることでかろうじて回避し、体勢を立て直す。


『ゴガァァァァァァァァァッッッッ!!!』


 再び響く竜の咆哮。

 直後、あの自動車のような頭が、コウに向けて突っ込んできた。

 さらに、左右から両の手――前足が迫る。

 逃げ場は、ない。


 絶対不可避のこの状況で、コウは反射的に上に跳んだ。

 といっても、標準的な日本人である彼が、突っ込んでくる自動車と同じ大きさの竜の頭を飛び越えるのは不可能だが――。

 彼は、その竜の口の上、鼻面部分に転がるように乗りあがった。竜は突き飛ばすつもりだったのか、口を開けずに突っ込んできていたのが幸いした。

 さらに接触の際に鞘が外れたのか、抜き身になった日本刀を、彼は反射的にある場所に突き立てた。


 それは、竜の瞳。

 鼻面の上に乗ることで目の前にあった金色の竜眼に、僅かな抵抗こそあれ、鋭い切先は深々と突き刺さったのである。


『ガァァァァァァァァァァァァ!!!!!』


 今度の咆哮は、威嚇などではなく痛みからのそれだったのか。

 竜はその頭を、思いっきり上に跳ね上げた。

 当然、その鼻面の上にいたコウは空に跳ね上げられる。

 跳ね飛ばされる衝撃だけで意識が飛びかけていたが、かろうじて耐えた。


(どうもよく浮く日だな)


 なんとか目を開けると、自分がとんでもなく高く跳ね上げられているのが分かった。軽く百メートルは跳ね上げられている。

 先の、バイクと一緒に飛び出した時のほうがまだ低い。


(これは……死んだな)


 あの時は下が海だったからまだ助かる可能性があったが、今度の下は固い地面だ。

 あるいは、巨大な竜がいるだけである。


 しかも、その竜は完全にこちらを見据え、そして口の端からちろちろと赤く揺らめくものが見えた。


(ああ、ドラゴンってのは本当に火を吐くんだな)


 意外にも平衡感覚はしっかりしていて、体の制御も出来る。

 だが、このまま落ちて死ぬ以外の未来は、どう考えてもない。

 ただ、改めて竜の全身を見て、巨大な翼まで存在することに、少なからず驚いた。

 火を吐き、翼――四肢以外に――がある、まさに幻想上の存在という訳だ。

 前後の状況がさっぱり分からないが、あるいはこんなものに殺される、というのは非常に希少な経験といえようか。


 ただ。

 だからといって覚悟が出来ているかというのは別の話だ。

 コウはまだ十八歳である。

 お世辞にも恵まれた人生だったとはいえないが、あるいはだからこそ、こんな理不尽な状況で生を終えたいと思えるほど、悟りきってなどいない。


(とはいえできることもない、か)


 この高さから落ちて助かる確率は、ほとんどない。

 そもそも、半瞬後にはあの竜の口から、おそらくは現代の火炎放射器すら凌駕する竜の息吹ドラゴンブレスが放たれ、一瞬で消し炭と化すだろう。


 ならせめて、自分を殺す相手を最後に見て――というところで、コウはふと、竜の一部に違和感を感じた。

 距離はまだ七十メートル以上。

 本来なら、細部を見る余裕などない。

 だが、『ソレ』をコウは明確に違和感として捉えた。


 竜の、首と胴のちょうど付け根。背中の辺り。

 美しい黒銀の鱗で、その一枚――個別に判別など出来るはずもないのだが――だけ、違和感があったのである。

 その鱗だけ、僅かに色が違うというか。

 大きさは、せいぜい二十センチメートル程度か。

 他よりやや小ぶりなその鱗は、コウの意識をその一点に集めさせ――ふと、手にした刀に目が留まる。

 そして、ある思い付きが頭に浮かぶ。

 だが。


(まあ、『コレ』が避けられたら、だな――)


 赤熱の輝きを放つ竜の口。

 そしてそこから、やはり、というべき竜の息吹ドラゴンブレス、すなわち高密度の火炎が放たれた。

 果たしてどうやったら口が火傷しないのやら、ということを考えつつ、コウは奇跡に任せて、体をひねった。

 もちろんそれで避けられるはずはなく、彼自身としては、最後に抵抗はしてみたんだ、という小さな自己満足のための動きでしかない。

 先に浮かんだアイデアとて、諦めないための言い訳でしかなかった。

 そのはずだった。


 だが、いくつもの偶然が、奇跡を引き起こすに至った。

 まず、放たれた竜の息吹ドラゴンブレスが極めて高温であり、周辺の空気が急激に膨張し、瞬間的に炎に先行して暴風が発生した。

 それは、炎を散らすほどではなかったが、宙に浮く人間、すなわちコウの落下軌道を変えるには十分な威力があった。

 加えて竜が放った炎は、コウ自身は無論知ることはないが、射程距離を稼ぐために通常よりも集束して放たれていた。

 それと、彼自身が行った重心移動の結果、彼の落下軌道が炎の射線から外れることになる。

 それが偶然、彼が見出した鱗のほぼ真上に落ちる軌道になった。


 さらに竜自身は片目が傷つけられ――実のところはちょっと痛い程度ではあったのだが――さらに爆風によって吹き荒れた炎で、一瞬完全にコウの姿を見失っていた。

 そして、コウの姿が傷つけられた目の側にきたため、逆の目の視界の範囲ギリギリだったというのもある。

 それに竜自身は、今の炎で人間が焼き尽くされ何も残らないと確信していたのだから、これを油断と責めるのは酷な事だろう。


 一方のコウは、軌道が変わったことに感謝しつつ、刀を構えなおした。

 もとより、ことの成否に関わらず、即死確定のノーロープバンジーだ。

 しかも落ちる前に焼死するという状況だったのだ。

 だが、諦めずに最後まで抗うと決めて挑んでいる以上、焼死が避けられたという状況の僅かな好転に感謝こそすれ、それで気を抜くことはありえない。


 この意識の差が僅かな反応の違いとなって、致命的な差を生んだ。

 すなわち――


「おおおおおおおおおおおおお!!!!」


 竜の息吹ドラゴンブレスの放射から二秒弱。

 その、コウの雄叫びは、彼が完全に竜の視界外、すなわち、首のすぐ横に来ていた時にあげられた。

 この時、すでに落下速度は時速百キロメートルを軽く凌駕している。

 にもかかわらず、コウは正確に、寸分の狂いもなくあの鱗に刀を突き立てていた。


 コウはこの時には知らないことだが、竜の鱗は、それ自体が強力な鎧や武器の素材となる。

 ましてこの竜の黒銀の鱗は、鉄などを遥かに凌ぎ、地球でいえば金剛石ダイヤモンドをも凌駕する硬度がある。

 たとえ今の彼の速度と刀があっても、かすり傷すらつかずに終わるはずだった。


 ただしその鱗だけは、例外。

 それとて、他の鱗より脆いとはいえ、生半可な力では傷つくことはない。

 だが、時速百三十キロメートルにも達する速度で、さらに大柄とはいえないまでも、標準的な人間の男性の体重が乗った一撃は、造作なく鱗を貫通した。


 深々と刀が突き刺さったとはいえ、それで落下の勢いが殺されるはずはなく。

 ただ一瞬だけ、ガクと減速したコウは、そのまま硬い竜の鱗に叩きつけられ、吹き飛んだ。

 無論、刀を掴んでいることも出来ない。


「がはっ……」


 そのまま地面に転がる。

 何度か回転して、ようやく停止した。

 運がいいのか悪いのか、倒れて動けなくなった正面に、悶え苦しむ竜が見えた。

 最後の抵抗は、どうやらあの巨大な存在をも脅かしたらしい。

 そのことに、コウは小さな満足を得ていた。


 目は開いているが、視界は半分ほど赤い。

 多分、自分の血だろう。

 腕は両方砕けていて、おそらく肋骨もほとんどはぐしゃぐしゃだ。

 口から血が溢れてくるので、確実に肺を傷つけている。

 足は原型をとどめているのかすら自信がない。

 むしろ即死しなかったのが奇跡というべきだろう。


 奇妙なほど冷静に自分の分析が出来ていることに、小さく驚く。

 その時には、すでに視界は暗かった。


 あるいはこの理不尽な世界は、自分の罪を裁くための死後の試練だったのか。

 死後の世界は誰も知らないわけだから、実はこうなっていたとしても不思議はない。

 自分の罪に対する罰と考えるなら、この理不尽さも納得が出来た。


(今度こそ、終わりだな――)


 痛みはない。

 大量に出血すると寒さを感じるというが、それもなかった。

 あるいは、死後の世界だからかもしれない。

 僅かに体が揺れた気がしたが、おそらくまだ竜が暴れているのか。

 それだけ暴れたくなるほどに、文字通り『窮鼠猫を噛む』をやれたのなら、十分か――。


 そんな満足感と共に、コウは意識を手放した。

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