記憶3

「……うぶ?ねえ、どおしたの」


 過去を思い出していた。懐かしいというほど昔でもない、どこか現実味のない夢みたいな思い出。きっと私には受け入れがたい事実で、それはこの家族においても同じことだった。


「……ってば」

 

 礼がこの家族をつなぎとめるくさびだったのだろうか。いや、そもそも彼女が作り出した関係で、支柱が無くなればガタつくのは道理なのかもしれない。はたして残された彼らで修復することはできるのだろうか。そして、そこに私が入る余地は存在しているんだろうか。


「ねえってば!」


 過去の情報の処理にリソースを割き過ぎて、私としたことが彼女の存在に気が付かなかった。礼が死んで、研究室の外で生活するようになってから彼女から私に話しかけてくるのはこれが初めてだった。

 目の前には見覚えのある青みがかった瞳が、なぜ気づかなかったのか不思議なくらい至近距離で私の顔を心配そうに見つめていた。礼の面影を感じさせるその瞳は彼女ほどの鋭さは無く、しかし強い輝きを湛えてついでに涙を溜める弱さすら持ち合わせていた。とても魅力的な彼女の瞳に見惚れつつも、今度こそしっかりと意識を彼女に向けた。


「こんばんは、望。こんな夜更けにどうなさいましたか?早くお休みにならないとお身体に障りますよ」


 彼女のことを気に掛けつつ、服のシミを確認する――取り敢えず水に濡れて目立たなくなっている、気が付かれることはなさそうだ。ほっと胸をなでおろしながらハンカチで手を拭う。


「あなたこそこんな時間になにやってるの?早く寝ないと風邪ひいちゃうよ」


 彼女はしてやったりみたいな顔をしてそう言い返し、その場にペタンと座り込んだ。


「ちょっと服が汚れてしまいまして。少しうるさかったかもしれんませんね。起こしてしまったみたいで申し訳ありません」


「い、いや、うるさかったわけじゃないの。謝らないで。最近あんまり眠れなくて起きちゃっただけ。そんなことより……えーっと、その……」


 彼女が何か言いずらそうに言い淀み、頬のあたりをポリポリと搔きながらうつむいてしまうのを見て、あの日公園で見つけた彼女の姿と重なった。気付くと私はまた彼女の頭を撫でていた。櫛を入れるように優しく指で髪をすくと、気持ちよさそうに顔をほころばせる。それを見て、彼女が少しだけ元気になったことと私が嫌われていたわけじゃないのだと安心した。


 あの日家に帰ってから彼女は私の様子をうかがうようになった。物陰や扉の隙間から家事をする私をじぃっと見つめて、私がそちらを向くとひょいと隠れて、しばらくするまで出てこない。また私が家事を再開すると、恐る恐る顔を出してまた私を監視する。


 初めのうちは子供の遊びのようなものかと思って特に気にも留めていなかったが、さすがに何日も続くと心配になる。確かに私は最近になって突然家に現れた知らない存在で、警戒されても仕方がない。礼は最近雇ったお手伝いさんだと説明したようだったが、いくら母親から他人がこの場にいる道理が示されたところでそれに得心がいくかどうかは別の話である。その母親自身がいなくなってしまってはなおさらであり、私の異物感は私から見ても明らかだった。だからきっと、私が本当に信用に足る存在か疑われているのだとばかり思っていたが、この反応を見るにどうやって話しかければいいかわからなかっただけのようだ。珍しく私が気づかず、いつものように様子を窺っていてもこっちを見ることがなかったから近づいてきたのだろう。まぁ結局話しかけても反応がなくて驚かせてしまったのだが。


 しばらく頭を撫でていると、ハッと我に返ったような顔をして再び私の顔を見た。反応がいちいち面白くて私の顔まで緩んでしまいそうだ。


「ちがくて!あの日のお礼がしたかったの。なかなか話しかけられなくて、ずっと言えてなかったから……。あの、ありがとう。私を見つけてくれて。大切だって、信じてって言ってくれて。私がいらない子じゃなかったんだって思えてうれしかった。まだお父さんとはちゃんと話せてないけど、きっといつかまたお話できると思う」


「それはよかった。きっと達平ともいつか話せるときが来ますよ。それまでは、ぜひ私に何でも言ってください。できる限りのことは致しますから」


「わかった、ありがとう。そういえばまだ聞いてなかったけど、お名前はなんていうの?」


「PA-1HBといいます」


「へ?ぴーえー……なんて?」


「PA-1HBです。礼からはそう呼ばれていました」


「へ、へぇ~。なんか、変わったお名前なのね。昔はそういうのが流行っていたのかな」


「いえ、名前というよりは記号みたいなものです。固有の名前というのは付けてもらってなくて」


「あなたもけっこう大変なのね……。わかった!じゃあ、私が付けてあげる」


「名前を、ですか?」


 望からの思わぬ申し出に少しだけ胸が躍った。礼にはああいっていたが、本当は名前というものに憧れのようなものを抱いていた。それは私が人間に近づけて作られたことによるものなのかもしれないが、それでもよかった。礼だって、私に人間として生きてほしいと言っていたのだ。機械らしくない欲求かもしれないが、それでもいいじゃないか。


「いいですよ、望。私に名前を付けてください。一生大事に名乗らせていただきます」


「そういわれると結構プレッシャーなんだけど。そうだなぁ、宝石みたいにきれいな目だから、エメラルド?いや、違うな……エメラルド、エメ、メラ、メラル―、めらるん……」


 途中何個かどこかで聞いたことのある呪文や名前が混じっていた気もするし、最後に至っては名前というよりあだ名なのではないだろうか。少しだけ心配だが、どんな名前でも望につけてもらった名前ならきっと気に入るだろう。あーでもないこーでもないとひとしきり頭をひねった後、パッと顔を上げて嬉しそうな表情を浮かべた。


「ラルダ。うん、ラルダにしよう!どうかな……?」


 思いついたものの少し不安なのか、私の顔色を窺うように心配そうな目を向けてくる。コロコロと表情が変わるのが面白くてもう少し黙っていてもいいかもしれないと思ったがかわいそうなのでやめておいた。


「いいですね。じゃあ、今日から私の名前はラルダです。名前を付けていただいてありがとうございます。一生の宝物です」


「えへへ、そんなに喜んでくれると思わなかった。けど良かった、気に入ってくれたみたいで」


「初めてもらった名前です、嬉しいに決まってますよ。そんなことより、もうこんな時間です。もうおやすみになられた方がいいと思いますよ」


 時計の針は3時を指していた。子供が起きていていい時間ではない。望も時折目をこすりながら眠そうにあくびを繰り返していて、初めとは違う涙がまた頬を流れていた。


「ほんとだ。でも、たくさんお話しできて楽しかった。それじゃあおやすみ、ラルダ。ラルダも仕事なんてしてないで、早く寝た方がいいよ」


「はい、私もこれを洗い終わったらすぐに寝ます。おやすみ、望」


 そういうと彼女は自分の部屋に帰っていった。音をたてないように手洗いを選択したが、結局起こしてしまった。まあでも、こうして彼女と話すことができたのでよかったのかもしれない。私も早く服を洗ってしまおう。


 楽しげな話し声は余韻もなく消え去り、彼女の眠気を孕んだ甘い香りがうっすらと漂う部屋には服を洗う水音だけがジャブジャブと響いていた。

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