記憶1
私の記憶の彼女はいつもびしょ濡れだ。
科学技術の急激な向上とそれに伴う環境破壊の影響で、この国は数十年前から四季の中から2つ消え、雨が降っているか雪が降っているかの二択になっていた。両者の違いは何が降っているかの違いだけで遮るものがなければそれらに打たれるのは必至なのだが、避けなかったのは彼女が物好きなのではなくきっと居場所がなかったからなのだろうと思う。
あの日の彼女は雨に打たれていた。
彼女の母である
「ねえ、おとうさん」
「……」
「おとうさんってば!」
「……」
彼女が発した音の振動は空気を伝ってちゃんと耳に届いているはずなのに彼からの返事はなく、かわりにアルコールが喉を通ってグビグビと鳴り下品な
「どうして……っ」
彼女は目に涙を浮かべ、ドアを突き飛ばすように部屋を飛び出していく。直後、玄関の方からウィンドチャイムの甲高い音が大きな余韻を残しながら鳴り響いた。
「追いかけますか?」
「……」
私が問いかけたところで返事など帰ってくるはずもないと分かっていたが、そんな思いとは裏腹に機械的な文言が口をついて出る。
私にとって彼女は守るべき対象で、気がかりな存在で、心理的に不安定な状態であれば尚の事追いかけなければという強迫観念じみた感情がざわざわと胸のあたりで蠢いている。しかし私はアンドロイドだ。思考能力こそあれど、所有者のもとから離れて自立的に行動するような場合は命令がないと動けない。
「
「……」
再度問いかけてみるがやはり返事はない。しかし彼の首がわずかに何度か上下したように見えた。
「命令を受諾しました。望を発見次第、保護し自宅に連れて帰ります」
それだけ言い残し、私も急いでこの静寂を後にした。
エレベーターに乗り1階のボタンを押す。永遠にも感じる重力の差異が私の焦りを助長して無意識に足が貧乏ゆすりをはじめ、扉が開くと同時に飛び出して今までにないスピードでエントランスを通過した。
入口の自動ドアが開くと不快な
周りは建造物に囲まれていて、もしこの建物すべてを調べようと思ったら途方もない時間がかかるだろうが、このあたりは比較的所得の高い人間が住む高級住宅街で、幸いにもセキュリティのおかげで簡単に中に入れることはない。建物や植木の影など望の隠れていそうな場所を確認しつつ、速足で歩を進めていく。
降りしきる雨が体を伝って熱を奪っていくが、冷え切った体とは対照的に私の頭のあたりが型落ちのCPUのようにガリガリと削れていくような感覚とともに熱を帯びていく。
この大雨で体調を崩してしまうくらいなら別にいい。人間の体は風邪程度なら自己回復するし、現代には抗生物質だってある。だがもし、危険な状況に巻き込まれてしまったら?それが事故なのか、貧民街の物乞いや犯罪組織につかまってしまうのか、この住宅街を抜けてゲットーな地区まで迷い込んでしまう可能性だって……この街は望の命が危ぶまれるようなシチュエーションには事欠かないのだ。私が守らなければならない。
しかし私の心配は杞憂だったか、10分も探さないうちに案外あっさりと望は見つかった。そもそも5歳の子供がこの雨の中どれだけ頑張って走ったところで近くの公園に逃げ込むのが関の山だ。頭ではわかりきっていたのにそれでも思考はひとりでに暴走して、こんな機械の体にもありもしない幻覚まで見せていたのだから科学の進歩というのはいやはや凄いのかもしれない。
望は名称不明の穴の開いたドーム状の遊具の中で膝を抱えて震えていた。
「望、お迎えに上がりましたよ」
「……」
「こんなところにいたら風邪をひいてしまいますよ。服も濡れているし、私と一緒に帰りましょう」
「……」
話しかけてはみたものの望からの返事は無い。膝を抱えたままぶるぶると震えて、まるで地面とにらめっこをしているみたいだ。彼女の視界に私は映らない。
「達平も心配しておられますよ」
「……ないじゃん」
父親の名前を出すと、少しだけ反応が返ってきた。もう一押しかもしれない。
「さあ、帰りましょう?達平が待っていますよ」
「心配なんてしてないじゃん!」
もう一度父親の名前を出すと、普段口数の少ない彼女からは想像もつかない大声を上げ、まくしたてるように泣き始めた。
「心配してるなら、どうしてずっと私のことを無視するの?おかあさんが死んじゃって、私だって悲しいのに辛いのに寂しいのに、なんでなんでなんで!私のこと大切じゃないの?私より自分が大切?おとうさんの家族っておかあさんだけなの?わたしのことなんてどうだっていいの?……どおして……さむいよぉ」
しまったと、思ったところで口から出た音はもう望の耳まで届いてしまった。
本当はわかっていたのだ。別に達平は望のことなど気にかけてはいない。探しに行くか聞いたとき、酔いが回って顔が前後に揺れていたのをうなずいたことにして、無理やり出てきたのだ。反応があったから嘘をついて無理やり名前を出して、彼女を傷つけてしまった。機械のくせに、あまりにも愚策で行き当たりばったりである。
心配だと、守らなければと思っていたが結局のところ自分の偽善じみた欲求を満たしたいだけのエゴだったのかもしれない。いや、もしかしたら機能として子供を保護しようとしただけの、ただのプログラムに即した機械的な行動に過ぎなかったのかもしれない。
「わたしなんて誰にも必要とされてない。生まれてこなければよかったんだ」
後悔と自分の思考に溺れてただ下を向くしかなかった体が、その言葉を聞いて勝手に動いていた。望を抱いて、頭を撫でる。優しく、傷つけないように。
「そんなことないです。達平のことは私にもわかりません。彼も傷ついていて、周りが見えなくなっているのかもしれない。けど、私は。私だけは絶対に望のことを大切に思っています。それだけは信じて」
口をついて出た言葉は私の思考を通さずに勝手に発せられて、果たして本心から出たのか自分でもわからなかったけれど、さっきまで暴走していた思考は落ち着いて今は望のことで頭がいっぱいだった。望からの返事は無い。でも、泣きじゃくりながら私の胸に顔をうずめる彼女が信頼してくれたような気がして、それが愛おしくて仕方なかった。
しばらくして泣きつかれたのか、望が私の腕の中で静かな寝息を立て始めたのを見計らって家路についた。今までに感じたことのない熱が私に伝わってじんわりと温かい。これが人肌というものなのだろうか。
私はあなたのおかあさんにはなれないけれど。
きっと大切にするから。
もう生まれてこなければよかったなんて絶対に言わせないから。
そう、心に誓った。
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