第8話 偽典 正也の彼女 下

「ユキちゃん」

 私は柔らかい声に名前を呼ばれ、目を覚ます。薄ボンヤリとした視界の先に、知らない顔があった。その瞬間、私は驚く。

「えっ……誰?」

 私の顔を見て、知らない顔は笑った。

「あはは、私、彩子って言うの」

 彩子と名乗った女性はそう言い、私の隣へと座った。私は理解不能の現状に気おされ、反射的に体を起こし、正座をする。

「え……彩子……って?」

「ん? あはは。やっぱりケイちゃんってば何も言ってないんだね」

 彩子は苦笑いを浮かべ、頭をガリガリとかきむしる。面倒くささ半分、笑顔半分といった感じだろうか。

「私はねぇ……なんて言ったらいいかな」

 両膝を立てて座る彩子は、両膝に自分の顔を乗せ、そこから私の顔を見つめる。その仕草やその表情が、女の私から見ても、綺麗なものに見えた。しかもただ美しいだけではない。普通のジーパンを履き、普通の白いセーターを着ただけのその女性は、気品というか、神々しさというか、とにかく尋常では無いオーラを放っているように感じる。

 神懸り的な美しさだと、瞬時に感じた。

「そうだな、ケイちゃんの……保護者かな」

「保護者……?」

 彩子の容姿は、どう少なく見積もっても二十代前半であり、見方によっては私よりも年下に見えるだろう。私よりも小さな体に、短い座高。出っ張っているかどうか怪しい胸に、童顔過ぎる顔。雰囲気を持っているから年上だとは思うが、とても保護者を名乗れるほど年上とも思えない。

「保護者って……どういう意味ですか?」

「ん? だってほら、ケイちゃんってさ、放っておくと凄く心配でしょ? だから保護してんだー」

「心配……?」

 何故、ケイ君が心配なのだろうか。私はケイ君以上にシッカリとした人間を、知らない。どんな大人よりも、どんな人間よりも、私はケイ君のほうが上だと思っている。シッカリしてるという意味では、タダ君よりも上だろう。タダ君はキレやすい所があった。それをなだめていたのが、ケイ君。

 そんな人間に、保護者が必要だろうか。

「あ、不思議そうな顔してる。あはは。ユキちゃんってメンコイねぇ」

 彩子は笑って体を前後に揺らし始め、ゆっくりと指を伸ばし、私の頬にある傷のすぐ下を、指で突っついた。痛痒さが私の頬に涌く。

「えい、えい」

「あ……あの、心配って? ケイ君を、ですか?」

 私は何故か彩子の指を止める事が出来ず、突っつかれたままの状態で疑問をぶつける。彩子は指を止める事はせず、なおも突っついたままの状態で笑顔を深めた。

「ケイちゃんって、弱音吐かないでしょ。明らかに悩んでるのに、苦しんでるのに、屈託の無い笑顔で、何でもないですぅー僕を信じてくださぃーとか言っちゃってさ」

「……はい」

「ケイちゃんだってさぁ、好きな人が目の前で刺されちゃったり、実の姉をイジメの末に亡くしちゃったりしてるのにさぁ」

「え」

 そんな事実、知らなかった。いつの間に起こっていたのか、知らない。

「……驚いた顔しちゃって。知らなかったの?」

 彩子は私の頬を突付くのを止め、私の目を、じっと見つめる。睨んでいる訳では無い。鋭い瞳という訳でもない。だからと言って、笑っている訳でも無く、彩子の目には、何か、神秘的な力が宿されているように感じた。

 恐らく、何をどう言い繕っても、この目を持つ彩子には、全て解られてしまう。私は瞬時に、それを悟った。

「し……知りませんでした」

「だよね。私もユキちゃんとハルちゃんの存在、今日まで知らなかったよ。だから保護してあげなくちゃね」

 彩子は再びニコリと笑い「よいしょ」というおばさん臭い掛け声と共に、腰を上げた。腰をトントンと叩く姿に若さは無いが、彼女の身長の低さと妖艶な雰囲気が混ざり合い、その姿さえも美しく魅せる。小さいのに、とても大きい人という印象。

 しかし「だから保護してあげなくちゃ」の、意味が解らない。この会話の終着が、何故「だから保護しなくちゃ」というモノになるのだろう。

「さってと。お部屋のお掃除しなくちゃね」

 彩子は笑顔のまま、私の顔をチラリと見た。やけにニコニコとしていて、可愛らしい。

「あ……て、手伝います」

「んもぉーやっさしいのねぇ」

 彩子は私に向かって手を差し出す。私は思わずその手を握り、引っ張られ、立ち上がった。

「ユキちゃんの彼氏の正也君も、優しい人だよね」

 彩子はそう言い、満面の笑みでニッコリと微笑んだ。

 ……この人は、どこまで知っているのか。ケイ君に聞いたとは、あの会話上、どうしても思いにくい。底が知れず、本当に全てを見透かされているようで、恐ろしいと感じた。


「そういえば、ケイ君と、ハルちゃんは、どこに行ったんですか?」

 私は部屋に散らばっているゴミを拾いながら、彩子へと話しかけた。

 話しかけられた事に気付いた彩子は、私の顔を見て「ふふん」と鼻で笑う。

 何故、そんな意味不明な事をするのか、解らない。

「……あの、ふふんじゃ、なくて、二人は」

「んーさぁーねぇ。私にはわっかんない」

 彩子は両手を顔の横へと持ってきて、掌を天井に向けおちゃらける。その姿は本来、憎らしい筈なのだが、何故だか彩子に対して怒りが沸かない。

 恐らくこれが、他の人と彩子との、格の違いなのだろう。普通ならば、初対面の人間に対して、こんな態度をとってはいけない筈。いけない筈なのだが、彩子のあの姿、違和感の欠片も感じさせない。まるで当然の姿のように、私には見える。

「……わかんない?」

「うん。わかんない。ホントに」

 そんな状況、考えにくいが、恐らく本当なのだろう。おちゃらけては居るが、彩子の目は嘘を付いていないし、彩子は、嘘をつかない。

 初めて会った人の事なのに、何故ここまで断言出来るのか解らないが、断言出来てしまう。

「……心配とか、無いんですか?」

 私がそう問い詰めると、彩子は両手を下ろし、キョトンとした表情で私の目を見た。

「心配? どういう意味で?」

「ハルちゃんと、ケイ君、こんな夜に、一緒に出てったんですよね? 何か、あるんじゃないかって、思わないんですか?」

 私がそう言うと、彩子は突然、顔をしかめて、舌を出す。表情の突然の変化に、私は驚いた。

「えー心配? え? ケイちゃんとハルちゃんが? 何かあるって? えっちぃ事でもしてるって意味? ユキちゃんはケイちゃんと、何年一緒に居るの?」

「え?」

「ねー何年さ」

 彩子さんは口を尖らせ、私へと近づき顔を覗き込んだ。クッキリとした二重瞼の彩子の目が、至近距離で私の目と視線を合わせる。

「……さ……三年ですかね」

「三年! 三年も居るのに? 心配? あのケイちゃんが! 初めて会った女性に! 何かするって! 心配?」

 彩子は、大きな目をさらに大きく広げ、大きな口を開き、大きな声を出した。

 そして右手で再び私の頬を突付く。しっかりと、傷のすぐ下を狙って。

「え……だって」

「もぉーお姉さん怒るぞ?」

 私の頬を、一度突付く。

「あのケイちゃんが!」

 私の頬を、二度突付く。

「始めて会った女性に!」

 私の頬を、三度突付く。

「何かするって!」

 突付かれるたびに、頬の痛痒さが増していく。

「あ……あ、はい……あ、いえ……すみません」

 確かにそんな心配は、的外れなのかも知れない。

 ケイ君が、親友の妹であるハルに、手を出す訳が無いという事は、考えるまでも無い事。

 仮にハルが進んで、そのような関係を結ぼうとしても、ケイ君は屈託ない笑顔で誤魔化すだろう。何が何でも、誤魔化す。

「ん? なんて? なんて言ったの?」

 彩子は、自分の顔を私の顔へと、さらに近づけた。あと数センチで、おでこ同士がぶつかる。私の視界全てが、彩子になった。

「いえ……ありえない事です」

「そーでしょ?」

「……そうです」

 視界いっぱいの彩子は、しばらく私の目を見つめていた。じぃっと、ずぅっと、私を見つめ続ける。彩子の瞳には、光が宿っていた。

 目の奥にある、キラキラの、不思議な光。私はそれに、少し見惚れる。

「そうなんだよ。そんな訳の解らない心配なんか、要らないの」

 彩子はようやく、口を開く。そしてニコッと、彩子の目が笑った。彩子は私の頭に、ポンと手を置いて、ようやく私の顔から自分の顔を離す。

 少し離れた所で見た彩子の顔は、やはり笑顔だった。さきほどの彩子は、演技だったのか、冗談だったのか。怒っているように見えなかったのは、確かだ。

「まぁ、気にはなるけどね」

「……なってるんじゃないですか。どっちですか」

 彩子は「あはは」と笑う。

「気になるって言うのはさ、エッチぃ事してるとか、そういう事じゃなくて、壊れちゃうんじゃないかなってね」

 彩子さんは、笑顔で語り始めた。


「私がこの部屋に来た時ね、ハルちゃんがグズッてて、ケイちゃんが困った表情してる所だったんだよ」

 彩子は笑顔のまま、再びゴミを拾い、ゴミ袋へと入れた。私はその様子を、ただジッと見つめる。

「困った顔のケイちゃんがさ、今にも壊れそうに見えて、怖かったなぁ」

「……壊れそうで、怖かった……」

 彩子が危惧している事は、私の中に涌いた事がない。ケイ君は、凄い人というイメージが先行しており、そんな印象、微塵も抱いた事がなかった。だってケイ君は、勉強はそこそこで、体力は教師を含めても学校一。それに、いつも笑顔で明るく、私とタダ君を元気付けてくれていて、ムードメーカーのような存在。暗い表情なんて、少しも見せなかった。だから、壊れそうだとか、それが怖いだとか、一度だって思った事はない。

「ケイちゃんねぇ、強そうに見えるでしょ? ユキちゃんとか正也君の前では、凄く強がってたんだと、思うんだ」

「強がってた……?」

 強がってた?

 強がってただけ?

 私はその強がりに、いつも騙されてて、いつも頼りっきりだった?

「うん。強がってたと思う。本当は弱いのにさ、三十人と喧嘩するために、毎日トレーニングしてたんだよ。汗だくになってさ、体中に青アザ作ってさ」

 彩子は笑顔で、弾んだ声で、私の心臓を、鷲掴みにした。

 心臓が止まってしまう。

 止まって、しまう。

「どうして三十人と喧嘩したのか、そもそも、どうしてそのために鍛えていたのか、教えてくれないけどさ、弱いケイちゃんなりに、出来る事をしたんだと思う。それって、ケイちゃんの正義を」

「はぁっ! はぁあっ!」

 苦しい。息が出来ない。苦しい。息が出来ない。

 顔が熱い。熱い。熱い。熱い。

「ユキ……?」

 彩子の声が、遠くに聞こえる。

「ユキちゃん!」

 視界がゆがみ、脳が痛む。胸が痛む。間接が痛む。全てが痛い。痛い。そして、痛みが全てを教えてくれて、私は全てを理解した。私は、忌み子だと。

「わっ……! 私のせい……! きっと! きっと!」

「……え?」

「けいく……優しいから! ずっと……! 鍛えるのケンコーのため……って!」

「……ユキちゃん。おちつこぉ」

 いつの間にか、私の背中をさする彩子。私は彩子が居るであろう場所を、見つめる。そこには歪みきった、彩子の顔。笑っているように、見えた。私はソレに、両手を伸ばす。

「はぁあっ! きっと……! 喧嘩するためじゃなくて! タダく……を、止めるために!」

「……そうかもね」

「タダ君! 短気だから! 私が、最初、イジメられた時、タダ君、怒って! それを、なんとか、止めたのが、ケイ君で! それをずっとするために! タダ君を、守るために!」

「……流石だよね」

「私ぃ! 私がイジメられたからイケナイんだ! ケイ君を退学にしちゃったぁあ! 私が死んでいれば、タダ君も! 悪魔に魂取られないで、済んだんだぁあ! 私ぃ! なんでもっと早く! 死んで無かったんだぁあっ!」

「悪魔……?」

「はぐぅっ! あくまの、契約ぅ……! うぅううぅ」

 私は顔中の穴という穴から、液体を垂らす。

 まるで、脳が痛みを伴いながら溶け、それが穴からあふれ出しているかのように、感じる。

 なんて痛いんだ。なんて苦しいんだ。なんて忌み子なんだ、私は。


「そっかぁ……正也君、死んだんだぁ」

 私は全てを彩子に話した。幼い頃、タダ君は悪魔と契約し、運命の人である私と、結びつけた事。タダ君は代償として、残りの寿命が五年になってしまった事。タダ君の契約が満期に近づいた時、悪魔が私と取引をしに来た事。私は悪魔と取引をし、私自身の不幸を代償に、タダ君の寿命を五年延長させた事。私の不幸はイジメという形で訪れて、ケイ君を巻き込んでしまい、退学にまで追い込んだ事。しかも契約は夢の中で行われていたので、私もタダ君も、つい最近まで忘れていた事。

 この取引には抜け道が存在しており、私が死ねば契約が成立せず、タダ訓の寿命の期間が延長され、タダ君はさらに五年間、生きていられて、更に新たな運命の人とめぐり合えていた事。

 そのいずれも知りながら、タダ君は自分の死を選んだ事。そして、私は最後の最後、タダ君に冷たく当たり、狂わせてしまった事。

 全てを、話した。

「私っ……嫌われたかった……タダ君に嫌われて……そうすれば、私も死にやすくなるって……思って……心残りが……無いって……タダ君が新しい運命の人と……仲良くなりやすいって……だから私……冷たくしたの……ホントは私が……死にたかったの……」

「んー……」

「ケイ……君も……被害者なの……私の勝手で、私が不幸になるのは……いいの……それなのにケイ君……巻き込まれたの……全部私のせいなの……」

「……んー」

 色々な人に、色々な迷惑をかけた。私の勝手で、ケイ君は不幸になり、私の勝手で、タダ君を狂わせた。結果として招いた事態は、この現状。

 タダ君が死に、ハルちゃんが自傷し、ケイ君が困って、彩子をも巻き込んだ。

 なんて運命。なんてカルマ。私は確実に、地獄へと落ちる。

「……話が前後して、ちゃんとは把握出来て無いと思うけど、うん。大体解った」

 彩子は立ち上がり、台所へと向かった。私はその姿を、ただ眺める。

「お……怒らないのですか……? ケイ君の保護者なら……ケイ君を巻き込んだ私を、おこ」

「……怒ってないよ。許せないけど」

 胸が、痛くなる。彩子の言葉は、いつも正しい。きっと、怒りなんてとっくの前に通り過ぎていて、呆れていて、だからこそ許せないのだろう。

 彩子の小さな背中が、怖い。

「ゆっ……許さなくて……いいです」

「ん? あ、ユキちゃんの事じゃないよ。なんでユキちゃんが許せないのさ」

「……え?」

 彩子は冷蔵庫を開けて、なにやら食材を取り出している。

「許せないのはねぇ、神様っていうか、運命っていうか、そういったモノかな」

「……そんな……そんなモノを許せないって言ったって……」

「……許せないなぁ、神様。悔しいなぁ、私」

 彩子は食材を出し終えると、乱暴に、凄く乱暴に、冷蔵庫を閉める。

 強烈な音がこの部屋に響き、耳が痛くなった。

「正也君が十年前に契約したって事は、八歳? ははは……ははははは」

 彩子は、笑った。

 笑い声が聞こえてくるが、恐らく顔は笑っていないのだろう。声が、乾いている。

「……どういうつもりなんだろうね。八歳だよ? ガキンチョだよ? なのに運命の人と結び付ける契約……? 馬鹿にしてるなぁ」

「え……あの」

「正也君、ケイちゃんの親友だったんだよね。なんでそんな、理不尽なんだろうね。ケイちゃん、心労で死んじゃうよ」

「……あの」

「なんでぇっ! なんでっ!」

 やはり彩子は、怒っていた。冷蔵庫から取り出したニンジンを、思い切り台所へと叩きつける。次に長ネギをシンクに振り下ろし、潰した。包丁を取り出し、メチャクチャに食材に切りかかる。

 彩子は、乱心していた。


 そんな彩子を見て、思い出す。今日の夕方、ハルの指を噛んでいた私を。傍から見たら、良く解る。キレるという事は、狂うという事だって。

「なんでっ! なんでっ! なんでケイちゃんばっかり! なんで! なんでよぉっ!」

 だけど、私には、彩子が今、こうしている理由が、解る。少し前に、私も感じていた事だから。きっと彩子は、どうしようも無い。

 どうしようも無いから、キレている。狂っている。


 彩子が狂っていた時間は、おそらく数秒ほどだろう。しかし、彩子の印象から遠くかけ離れた光景だっただけに、私に与えたインパクトは相当なものだ。彩子が狂うなんて、想像も出来なかった。完璧に限りなく近い存在の彩子も、やはり人間だと言う事なのだろう。

「はぁ……はぁ……」

 彩子は最後に卵をシンクの中に思い切り投げ、落ち着いた。肩で息をして、眉毛を吊り上げてはいるが、動きは止まっていて、ただ立ち尽くしている。

「……彩子さん、落ち着きました?」

 私がそう尋ねると、彩子はハッとした表情を一瞬だけ作り、直ぐに笑顔を作る。

「はは……ユキちゃん余裕だなぁ」

「……余裕?」

 彩子は突然、訳の解らない事を言い出した。別に、余裕なんてない。

「キレてる人間を見てる側って、何故か冷静なんだよね。引いちゃうのかな」

 彩子はニコリと笑い、私の顔を見る。

「ユキちゃんこそ、落ち着いたでしょ?」

「……え」

 そういえば、私はいつの間にか落ち着いている。狂った彩子を見ているうちに、私はどんどんと冷静になっていき、さっきまで胸の中にあった焦りや罪悪感が、なくなっていた。有るのは、彩子に対する想い。

 心配というか、少し怖いというか、なんとかしなくてはという感情が芽生えていた。

「下手に慰めるより、いいよね」

 彩子は満面の笑みを浮かべ「あはは」と笑った。


 思う事は、彩子は人間じゃ無いという事。彩子は完全に、人間を操る側の存在。男ならば、この容姿や笑顔でコロッと手玉に取られるだろうし、女の私でさえ、操られてしまった。

 彩子は、人を、感情を、心を、知りすぎている。私が思う何倍も、彩子の底は深い。私にはその底を、計り切れない。ケイ君の、保護者を名乗るだけの事はある。

「あーぁ、やっちゃった……掃除してた筈なのになぁ」

 彩子はそう言いながら、台所の片付けを始めた。その姿に、何故だか胸が締め付けられる。もの凄く、申し訳ない気持ちにさせられる。

「あのっ……私片付けますから」

 私は思わずそう口走り、立ち上がっていた。

「えー? 私がやった事だから、いいよ」

「いえ……いえ、私が片付けます」

 私のためにしてくれた事なら、私が片付けたい。そんな気になってしまう。

「やっぱ、ユキちゃんはいい子だ」

 彩子は笑顔を作り、私へと近づき、頭をなでた。優しく、優しく。まるで子供をなだめる親のように。

「正也君の事、残念だって思ったよ……いい子で、いい男だったのに」

 ……優しい言葉に、胸がいっぱいになる。

「辛かったよね……よく頑張ったね」

 胸に、心に、彩子の言葉が染み込んで来る。頭が、まるで性感帯をなでられているかのように、気持ち良い。

 なるほど、話を終えたばかりの半分混乱した状態の私に、このような事を言った所で、右耳から左耳に抜けて行くだけ。だけど、少し冷静になった今なら、素直に受け止められる。操られたというのに、彩子という存在が格上過ぎて、悔しくもならない。

「……片付けます」

 なんとか声を振り絞り、それだけを言った。

「うん。片付けよう」

 彩子は私の頭から手を離し、私の頬を突っついた。


 部屋を全て片付け終わり、私と彩子はテーブルの前に座った。彩子は座る時に、おばさん臭く「よっこいしょ」という声を出す。彩子の行動はいちいち若さが無く、それが何故か可愛らしい。

「ふぅー。疲れちゃった。これくらいで疲れるなんて、年は取りたくないねぇ」

 彩子は自分の肩を自分で揉みながら、疲れた表情を作る。

「彩子さんって、おいくつなんですか?」

 私は気になっていた事を彩子に聞く。背は低いし体も細い。体格は中学生くらいのものだろうか。それに顔だって童顔だ。十代前半で十分通用するだろう。しかし行動はおばさん臭く、とても若者とは思えないほどの特殊な雰囲気を持っている。

 そんな彩子の、実年齢がとても気になった。

「二十三だよ。子供も居るし、もう立派なおばさんだよ」

「えっ?」

「んー? なぁに。もっとおばさんかと思った?」

「あ、いえ、そうじゃなくて……逆っていうか、逆でも無いって言うか……子供がいらっしゃる事に、驚いたと言いますか」

 しかし、そうか。二十三くらいが、妥当なのだろうか。この若さで子供が居るという事を考えれば、彩子の持つ雰囲気も、少しは納得できる。恐らく元々が明るくてシッカリとした人で、子供を持つ事によって、不思議な雰囲気を作り出す事が出来るようになったのだろう。

「あはは。正也君も似たような事、言ってたよ」

「あ」

 そうだ。その疑問もまだ残っていた。

「そういえば、何故タダ君の事を知ってるんですか? それと、私とタダ君が何故付き合っていたって……」

 彩子は「あぁ」と言い、ニッコリと微笑んだ。

「実は正也君とは面識があってね。一ヶ月ちょっと前にこの部屋で一度会っただけだけど」

「じゃあ、何故付き合ってるって、解ったんですか? タダ君がそう言ってたんですか?」

「ううん。付き合ってるって思ったのは、勘かな。正也君とユキちゃん、お似合いだなぁって思っただけだから。もしハズしても、あーそうなんだーお似合いなのにーって言うつもりだったよ」

 ……なるほど。確かに言う通りだ。ここでも彩子の抜け目の無さが確認出来てしまい、関心する。

「お子さんは、おいくつですか?」

「三才だよ。ケイちゃんが十四の時に作ったの」

「そうなんですか。旦那さんは今どちらに?」

 彩子は少しの間、無言でキョトンとした表情を作った。

 そして何かを思いついたのか、笑顔になる。

「今ねー、知らない女と一緒にどっか行っちゃってさぁ……全く何やってんだろうねぇ」

「え……酷い旦那さんですね……お子さんと、彩子さんを、ほったらかしにして……」

「うんまぁねぇ。ほったらかしにしてるのは、確かにその通り」

 彩子はニヤニヤと笑顔を作りながら、テーブルの上に顔を乗せた。

 

 腕時計に目を向けると、時刻は夜中の十二時を過ぎていた。私が何時まで眠っていたのかは知らないが、こんな時間になっている事に内心驚く。そして、ケイ君とハルが帰って来ない事に、少し焦りを感じ始めた。

「……ケイ君、遅いですね」

 私がそう呟くと、彩子は「んー」と声を漏らし、携帯電話を取り出し、同じように時刻を確認する。

「あらあら……もうこんな時間」

「私、ハルちゃんに、電話しましょうか?」

「え? なんで私に聞くの?」

 彩子は私の目をチラリと見て、いやらしい笑みを浮かべた。

 その瞬間に、気付く。電話したいのは私のほうであって、彩子では無いという、至極当たり前の事に。何故だろう。彩子の了解を得たくなってしまう。

「……電話、します」

「あはは。電話はちょっと野暮だけど、流石に遅すぎるもんね」

 彩子は少し胸にピリッとくる言葉を吐くが、どうやら反対はしないらしい。私は笑顔になってる彩子の顔を見ながら、ハルへと電話をかけた。


 プルルルという呼び出し音が三度なり、四度目の途中でプツッという音が聞こえ、通話が開始された。何故だろう、私は少し緊張している。

「もしもし」

 ハルの声が聞こえてきた。ハルの声には張りがあり、どうやら落ち込んではいないようだ。ケイ君は自分の敵に対して容赦の無い所があるから、少し安心する。ケイ君はハルの事を、敵とは思っていないらしい。

「あ、もしもし。ハルちゃん? 今どこに居るの?」

「……あの、啓二さんがね、私の父親を、ぶっ飛ばしてくれるって」

 ハルの言葉を聴き、私は鳥肌を立たせた。

 ハルは一体、何を言っているんだ?

「え? ハルちゃん? 何を、言ってるの?」

「……あの、ユキさんには言ってなかったかも知れませんけど、私って、小さい時に実の父親に犯されて……最近は援助交際みたいな関係になってて……それを啓二さんに話したら、父親をぶっ飛ばしてくれるって、言ってくれたんです」

 実の父親に、犯された?

 最近は援助交際みたいな関係?

 それと、ぶっ飛ばす?

 ぶっ飛ばすって、何だ?

「援助交際……って? ぶっ飛ばすって、何?」

「今もう、向かってるんです。あと少しで父親のアパートに着くんです」

 私は思わず立ち上がり、慌てふためく。意味無くカーテンを開け、外を見たりした。このアパートに向かっている訳じゃないという事は解っていたが、何故か外を確認してしまう。

「優しいですよね、啓二さん……今日知り合ったばかりの私のために、色々してくれるんですから」

 私はケイ君が私のために起こしてしまった暴力事件を、まるで走馬灯のように思い出していた。男だろうと、女だろうと、容赦はしない。

そればかりかケイ君は、人を殴る時、笑う。人を殴る事が、まるで楽しい事をしているかのように、笑う。

 そんな事、もうケイ君にはしてもらいたくない。優しく頼もしいケイ君が壊れてしまうし、今度こそ、警察沙汰になってしまう。

 ……壊れてしまう?

 どこかで、聞いた言葉。

「ハルッ! 駄目だよ! ケイ君を止めて!」

「啓二さんったらウブで、目もあまり合わせてくれなかったですけど、話はシッカリと聞いてくれて」

「ハルってば!」

「私のトラウマまで」

 駄目だ。聞く耳を持ってくれない。今のハルは冷静なように思えるが、恐らく極度の興奮状態なのだろう。

「ハル、ケイ君に代わって。隣に居るんでしょ? お願い」

「え? 啓二さん? どうしてです?」

 ……ケイという言葉に反応したのか、ハルは私の言葉に初めて返事らしい返事をした。どうやらハルは、ケイ君の事を信頼し始めたらしい。

「いいから。代わって」

 ハルは歯切れ悪く、しぶしぶと言った感じに「ユキさんからです」と言った。受話器の向こう側から「え? 僕?」と、ケイ君の声が聞こえる。

「はい? ユキちゃん? どしたの?」

 受話器から流れてきた声は、いつも通りのケイ君の声という印象。興奮しているとか、切羽詰っているとか、ケイ君独特の無感情な声というか、そんな感じではない。至って普通。いつものケイ君。

「あの……今からハルちゃんのお父さんを、ぶっ飛ばしに行くって、ハルちゃんが言ってたから……」

 ケイ君は私の言葉を聞き「あはは」と笑った。その笑い声が、なんだか乾いて聞こえる。

「うん。ぶっ飛ばしに行くよ」

 私はサラッと答えるケイ君の言葉に、寒気を覚えた。立っていられず、その場へと膝をつく。きっと、私には抱えきれないほどの悲しみが、私を押しつぶしたのだろう。

「な……なんで? 今日知り合ったばっかりの、ハルちゃんに、なんでそこまで」

「違うよユキちゃん。これはね、春香ちゃんのためだけって訳じゃなくてね、僕のためでもあるんだよ」

「……僕の、ため?」

「うん。タダっちが死んでから、僕は抜け殻みたいになっちゃって、毎日にハリが無くなっちゃったんだよ。無気力状態になっちゃってさ」

「……ケイ君が、無気力?」

 信じられなかった。いつも笑顔で活発的だった、あのケイ君が、無気力状態。彩子が言っていた事は、どうやら本当らしい。ケイ君は、弱い心を、持っていた。

「タダっちの妹である春香ちゃんを助ければ、僕はまた正義が持てるかもって、思って」

 ケイ君の声は、明るかった。弾んでいた。それだけで、私が何を言おうと、ケイ君は考え直さないという事が、解った。

「あぁ……ケイ君……どうして」

「ユキちゃん、ちょっとごめんねぇ」

 いつの間にか立ち上がっていた彩子は、私の手から携帯電話を取り上げた。そして自分の耳へと当て「ケイちゃん? 彩子だよぅ」と声をかける。

「ケイちゃん、ぶっ飛ばしに行くの?」

 彩子は至って普通に、そう聞いていた。

「そっかぁ……うん。うん」

 何かを話しているようだが、私には何も聞こえない。会話の内容が、凄く気になる。

「……んー、ハルちゃんのお父さんにだって、家族は居るし友達も居るんだよ。それにぶっ飛ばしたからって、ハルちゃんが元気になるとは、限らないんだよ。それを解った上で、行くんだよね?」

 彩子はその言葉を言った後、しばらく黙り込んだ。恐らくケイ君も、黙っているのだろう。長い沈黙が、この場を支配する。


 数分間は黙っていただろうか、彩子は突然、笑顔を作り、笑い声をあげる。

「あははっ。解ったよケイちゃん」

 彩子はしゃがみ、へたり込んでいる私の頭へポンと手を置いた。

 もしかしたら、彩子の言う事ならばケイ君は逆らえず、考え直して帰ってきてくれる事になったのだろうか。と、期待する。

「ぶっ飛ばして来い! ご飯作って待ってるから」

「え」

 彩子はそれだけを言って、携帯電話を私へと渡す。

「もしもしっ! ケイ君?」

 私は慌てて受話器へと耳をつけるが、もう通話は切られてしまったらしく、プープーという音だけが私の耳に届いた。何故、彩子はケイ君を止めなかったのだろう。最初こそ止めるかのような発言をしていたと言うのに、何故突然……。

「彩子さん、どうして?」

 私は睨むように、彩子の顔を見た。声をかけたられた彩子は「ん?」とだけ返事を返し、得意のキョトンとした表情を作る。

「どうして、止めなかったんですか? 保護者なら、止めるべき事なんじゃないですか?」

「そうだねぇ……その通りだよ」

「じゃあなんで?」

 彩子は私の頭をなでた。そして、悲しい表情と思わされる目で、私を見た。

「私だって怖いよ。ケイちゃんが無茶をして、警察に捕まったり、人を殺しちゃったり、殺されちゃったりする事が、凄く怖い」

「……だから、怖いなら、止めればいいじゃないですか」

「出来ないよ。だってケイちゃん、意思強いもん。それに、これでようやく、心を取り戻せるって、言ってた」

 彩子は、涙を浮かべた。

「あは……これでもう、旦那から放っておかれる事も、無くなるかも」

 涙を浮かべながら、彩子は笑っていた。

「旦那……って」

「うん。ケイちゃんが旦那さん。まだ籍入れてないけどね」


 もしかしたら私は、生涯、彩子やケイ君の領域にはたどり着けないかも知れない。だって私は、常識の中で生きてきて、常識の範囲の事しか解らない。人をぶっ飛ばす事が最善の策で、心を取り戻す事に繋がるだなんて、どうしても思えない。

 しかし彩子も、ケイ君も、その常識を知った上で、枠をはみ出した考えが出来る。これは、私には無理だ。

 イジメられ、運命の人を亡くした今でも、私は常識を、超えられない。訳が解らなくなって暴れる事は出来ても、冷静に「人をぶっ飛ばす」事は、無理。

 たとえ、ハルを犯した父親が相手だとしても、私は、出来ない。

「……ケイ君、どうなったんでしょうね」

 私は隣で料理をしている彩子へと話しかけた。

「んー、ケイちゃんがやられる所は想像出来ないから、ぶっ飛ばしてるとは思うけど」

 彩子は私のほうをチラリとだけ見て、再び手元を見る。

 慣れた手つきで食材を切っていく彩子は、主婦の姿だった。

 疲れた旦那のために、愛情を込めて料理を作る、妻のものだった。

「……復讐は、むなしいだけだって、テレビや映画で言ってました」

「あは、良く聞く言葉だね」

「それって、真実じゃあ、無いんですね」

「……うん。むなしいだけじゃあ、無いよ」

 むなしいだけじゃあ、無い。

 じゃあ、それなら。

「……私、タダ君を殺した悪魔が、許せません」

「そうだよね。許せないよね」

「……ぶっ飛ばしたい、な」

「あはっ」

 彩子は笑った。

 そして今度はしっかりと、私の顔を見る。

「ぶっ飛ばす事が正しい事とは、限らないよ。正也君はユキちゃんに、幸せになってもらいたいに決まってるよ」

「……でも、私が幸せになるには、清算しなきゃ、いけない過去が、ありすぎます」

 彩子は私へと近づき、背中をポンと叩いた。

「私とケイちゃんに、影響されすぎだよ。ユキちゃんはユキちゃんで素晴らしい子なんだから、自分を大切にね」

 優しい言葉が、身に染みる。

 どうしよう。どうする事が正解なのか。

「今はさ、ケイちゃんとハルちゃんが帰ってきたら、笑顔でおかえりぃって、言ってあげる事を考えよ。そうすれば、暖かい気持ちになれるから」

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