第7話 偽典 正也の彼女 上

 私の舌を刺激する、鉄の味。鉄を舐めた事はない。けれど解る、鉄の味。

 鉄の味のする液体が、私の口いっぱいに広がり、溢れ、口の両脇から垂れていくのが解った。

「ふうぅぅっ! ふぅっ!」

「いたい……いたいよぉ……」

 へたり込みながら泣いているハルを見て、私はより一層、力を込めて歯を突きたてた。私の中にある、ストレスの全てを、ハルに押し付けるかのように。

「ああああっ! あぁっ!」

 ハルの指の肉に、私の歯が食い込んで行く。それと呼応するように、より大量の血液が、私の口へと流れ込み、地面へと垂れた。


 私の名前は、ユキ。有る希望で、有希。

 当然の事ではあるが、この名前は私がつけたものでは無い。親が私を有希と名づけた。つまり、親のエゴで付けられた名前。しかし冷たい雪が由来ではなく、私の可能性を示してくれる、暖かいもの。

 この名前がいつも、誇らしかった。タダ君が私を呼ぶ時「有希」と呼び捨てにしてくれる事が、嬉しかったから。

 あぁ、私は有希だと、希望が有るんだと、いつも思っていた。イジメを受けている時だって、絶望的に心が沈んでしまった時だって。私には希望が有るんだって、思えていた。

 そんなもの、無いのに。

 今の私のどこに、希望があると言うのだ?

「ユキさん痛いっ! 痛いぃっ! 助けてぇっ!」

 ハルが叫んだ。私に噛まれていない右手で、私の顔を必死に引き離そうとする。一重で釣り目にしては大きな瞳から大量の涙を流し、口を最大限まで開き、叫んでいた。

 その様子が、私の目には、とてもとても、愉快なものに見える。ハルの姿を見ている私の中から、湧き上がる衝動を感じた。

 食いちぎる、という衝動。

「ひいいいぃぃぃっ」

 ハルが私の顔を見て、より一層、表情を崩した。鼻水を垂らし、涎を垂らし、下半身から湯気を立たせている。どうやら、失禁したらしい。

「あはははははっ」

 私は笑った。それと同時に私の歯からハルの指が離れ、それに気付いたハルは瞬時に自分の手を私の口から引き抜いた。そしてへたり込んでいた状態のまま、門を蹴り、私と距離をとる。

「あがあっ! うぐぅっ!」

 ハルは自分の指を見て、ガタガタと体を奮わせた。私も当然、ハルの左手を見る。左手全体が赤いというのに、小指部分に白いものが見えた。

 あれは恐らく、骨ではなく肉の裏側。べろりと肉がはがれてしまったハルの指は、異形になっており、指に見えない。

「うそ」

 私の頭は急激に、温度を下げた。

 そして、寒くは無いのに、ハル同様、体を奮わせる。

「うそ……うそ……」

「あぐうっ! ううぅぅっ!」

「あ……は……ハルちゃん」

 私はつい、ハルの名を呼んだ。呼ばれた本人は、どうやらそれ所では無く、小指の付け根を必死に押さえている。その姿を見ても私の頭には気の聞いた言葉が浮かんでは来ず、ただひたすらに名前を呼ぶ。

「ハルちゃん……ハルちゃん……ハルちゃん」

 病院だろうか? しかし病院に連れていけば、こうなってしまった理由を聞かれてしまう。

 理由を話せば、十八の私は刑務所? これは申告刑だろうか? それなら、ハルちゃんが訴えなければ。 いや、ハルちゃんは未成年。親の管理下。親が訴えれば、捕まる。

「うぅぅっ……うっ……ユキ……さん」

「え?」

 ハルは突然、私の名を呼ぶ。そして力強く、しかし優しい瞳で私を見た。

「これでっ……貸しは無しですよ……」

 涙と鼻水でグチャグチャになっている彼女の顔は、痛みに堪えているようにも見えるが、同時に笑っているようにも見えて、私の胸に、衝撃を与えた。それは抗えない、どうしようも衝撃で、私は立っていられず、膝をつく。

「あ……はは」

 私は笑った。何故だろう。脳や心が「笑え」と命令した訳では無い。この状況で「笑え」と命令をするものは、一体?

「もぉ……笑いたいのも、泣きたいのもっ……うぅ……私、なのに」

 ハルの言葉で気付かされた。どうやら私は、涙を流しているようだ。笑いながら、泣いているらしい。


「はは……おしっこ、漏らしちゃった」

 ハルは立ち上がり、左手を押さえながら苦笑いを浮かべた。

 手からは血。股からは小便。顔からは涎と鼻水と涙を、それぞれ垂らしている。どんな言葉でも言い表せられないほどの、醜い姿。人が一度に晒せる醜態の限界を超えているだろう。ましてや彼女は、十六歳の女性。自分の容姿などに、一番気を使う年頃。

 彼女をそんな姿にしたのは、私。そう思った時にようやく、私はハッキリと罪を意識した。

「……ハルちゃん、私、ケイ君とは、何も無いよ」

 罪を意識したと言うのに、私は、また私の事を話す。

 何故だろう。懺悔は嫌だと言われたばかりなのに。

「……はい」

「……私、今でも、タダ君しか、居なくて」

「はい」

「私、すっごく頭に来て、私……侮辱したハルちゃんを、許せなくて」

「はい」

「許せなくて?」

 許せなくて?

 何を言っているんだ、私は。許せないのではない。許さない事にしたんだろう。進展しない現状に内心イラついて、ストレスを爆発させるタイミングを待っていたじゃないか。

 言葉にすると「ハルを見捨てる口実が出来ないか」というものを、思ってはいないが、常に感じていた。

 ハルのお兄さんであるタダ君は、決して私を見捨てなかったというのに。


 中学三年生の一年間、頭の悪い私に、タダ君は勉強を教えてくれた。物覚えの悪い私に、嫌な顔ひとつせず、何度も何度も同じ事を教えてくれた。勉強が辛くなった私は「タダ君、志望校、下げない?」と相談した事があるが、タダ君は決して諦めずに勉強を教え続けてくれ、合格が絶望的だと言われていた地元の進学校に、入学出来た。

 それに、高校一年生の夏休みが明けてからの二年間、イジメられていた私を、一切の諦めの言葉を漏らさず、守ってくれていた。私が「もういいよ。私と一緒に居たら、タダ君に迷惑かけるよ」と言った時も「私、もうタダ君と仲良くしない。もう会わないよ」と言った時も。タダ君は決して諦めはしなかった。一緒に居てくれた。


 いつも先に諦めていたのは、私のほうじゃないか。私に期待していないのは、私じゃないか。何言われても諦めなかった人の妹の事なのに。私にとっても妹のような存在だったのに。私は妹のたった一言を、何故許せないんだ。

 タダ君が死んだから切羽詰っている? 混乱している? 侮辱した? そんなもの、理由じゃなく、ストレスを爆発させた言い訳だ。ハルだって兄を亡くしている。

 あんなに許せなかったのに、許せない理由が、解らない。解らない。

「許せなくて」

「はい」

「……はいじゃ、ないよ」

「え?」

 私は立ち上がる。そして、再び門へとつかみかかり、声を荒げた。

「はいじゃないよ!」

「え……ユキさん……?」

「私最低だよ! ハルちゃん怒ってよ! 叱ってよ! 殴ってよ!」

 私はまた、ボロボロと涙を流す。門の隙間から、私は左手を差し出した。

「噛んでよ! 噛み切ってよ!」

 普段、声の小さな私にしては珍しく、大きな口を開けて、大声で叫ぶ。そして左手を突き出して、必死に噛まれる事を懇願する。そんな私を見て、ハルはうっすらと笑った。

 何故、笑うのだろう。滑稽だからだろうか。そりゃあ、滑稽だろうな。愚か者にしか見えないだろう。

「ユキさん」

 ハルはその笑顔のまま、私に近づく。私は心臓を高鳴らせた。心臓の高鳴りの正体は、恐怖なのだろう。

 ハルの左手を見たら、恐怖する。だって、噛み切る事を懇願していると言うのに「あんな手にはなりたくない」と、思ってしまう。どうしたって、思ってしまうんだ。

 弱い自分が、ほとほと嫌になる。

「啓二さんの所に、行きましょう。すがりに行きましょうよ」

 ハルのボロボロの左手が、私の左手に触れた。そしてハルの右手が、私の頬に出来た傷を、そっとなでる。

「綺麗な顔なのに、怪我しちゃって……痕残っちゃいますよ」

 ハルの怪我と比べたら本当に小さな傷を、ハルは心配しているようだ。どうやらハルは、冷静になっている。


 彼女の強さと優しさに触れ、私はようやく、ハルの心配が出来るようになった。

 本当にようやく。遅すぎる。

「ハルちゃん……痛いでしょ……? 痛いよね……ごめんね……」

 私がそう言うと、ハルは自分の左手を見て、苦笑を浮かべる。

「あぁ、これ」

 ハルは私の顔の傷を触っていた手を離し、ベロリと剥がれている指の肉をつまむ。

「がっ……だぁっ!」

 ハルが声をあげると同時にプッという音を立てて、肉はハルの指から離れる。

 つまり彼女は、少量とはいえ、自分の肉体の一部を、なんの躊躇いも無く、引きちぎったのだ。

 肉を引きちぎられた左手の小指は、さらに傷口を広げ、また新たな血を流す。

「え」

 私はつい、声を漏らす。ハルは歯を食いしばり、痛みに堪えているようだったが、すぐに笑顔を作って私を見た。

「痛むけど、こんな事が出来るようになっちゃいました」

 ハルは自分の指から引きちぎった肉を、自分の顔の隣に持って行く。

 そして「あーん」と言い、自分の口の中へと放り込んだ。

「え」

 私はまた、声を漏らす。ハルはと言うと、自分の肉をクチャクチャと噛んでいた。しかも、微笑みながら。

 この子は一体何をやっているんだ? という言葉ばかりが、私の頭の中でぐるぐると回っている。

「……頭では解ってるんです、これが変だって事くらい」

 ハルはどうやら自分の肉を飲み込んでしまったらしく、とてもなめらかに言葉を発した。

「ですけど、変じゃないと感じるといいますか、別に大した事じゃないって思っちゃいます」

「た……大した事じゃない……って」

「私、この一ヶ月間、暇さえあれば自分のかさぶたを剥いて、食べてましたよ」

 ハルは笑顔でそう言っている。

「私の左腕、剃刀の痕だらけで、大きなかさぶたが出来るんですね。それを何の気なしに剥いて、あーんって」

 ハルは嬉々として語り始めた。左の袖をまくり、ビッチリとかさぶたで埋め尽くされた腕を私に見せ、とりわけ大きなかさぶたをつまみ、引き剥がす。引き剥がされたかさぶたの下に隠れていた傷が、痛みに堪えられず、血の涙を流した。

「つっ……これを、食べるんですね」

 私はつい、ハルの右腕を掴む。今にもかさぶたを、口に放り込みそうに見えた。

 そんな姿、見たくない。狂ったハルなんて、ハルじゃない。

「捨てて……それ」

「嫌です」

「なんで……?」

 ハルはうつむき、暗い表情を作る。彼女は今、一体、どんな思考を持ち、どんな気持ちでいるのだろう。私には解らない。想像も出来ない。

「とりあえず一回、見てください。私の事を、見てください。私の今を、見てください。今までずっと、ユキさんの話を聞いてきたじゃないですか。だから私の話も、聞いてください。見てください」

 ハルの声が、少し震えている。これが心の叫びなのだろうか。どうやら私は、その全てを受け止める器を持っていない。悔しいが「見たくない」と感じてしまう。どうしたって直視出来ない。

 それに、自分の肉を食べたハルを、心のどこかで嫌煙している。かさぶたを食べようとしている今のハルに対して、心のどこかで恐怖を感じている。私の知る限り、今のハルを救えるとしたら、ケイ君だけしか居ない。堕ちてしまったこの子に、光明を当てられるとしたら、ケイ君。ケイ君に迷惑はかけたくないが、私の手に負える範囲を、超えてしまった。

「……ケイ君に、会いに行こう」

 私はなんとか言葉を振り絞り、ハルにそう伝える。私の言葉を聴いたハルの表情は少し和らぎ、うっすらと笑顔を作ってくれた。


 私はハルを家の中へと招きいれ、とりあえずの着替えをさせようと思った。

「行こう」と言いながら取ったハルの右手は、すっかりと冷え切っている。思っていた以上に、つめたい。一体どれほどの間、外に居たのだろう。

 いいや、違う。この冷たさは、外気に触れた冷たさではない。それなら私だって冷たいはずだ。恐らく、新陳代謝がされていないから、冷たい。タダ君が死んだ当日、私は一切モノを口に出来なかった。その次の日には体温が劇的に下がってしまい、一日中ブルブルと震えていた。

 ハルは、今まさに、その状態なんだと思う。それに、大量の流血……暖かい訳がなかった。

「……ユキさんの手は、暖かいですよね」

 ハルは、私の手を強く握り返して、そう言った。

「……ハルちゃんの手、冷たいよ」

 ハルは冷めた笑みを浮かべた。私もきっと、同じ表情をしている。

「お着替え、しなきゃ。お洋服、貸すね」

「いえ、そこまで迷惑は」

「駄目だよ……ケイ君に会うんだから」

 私はそう言い、強引にハルの手を引っ張る。

 ハルの手から感じるものに抵抗は無く、ただ身を任せるという、なんともハルらしくない、従順だった。以前のハルならば、自分の意思に反するものになら、タダ君にも私にも反発していたというのに。


 家のドアを開き、玄関へと入ると、入ってすぐ左手側に、姿見がある。私はその姿見を、横目でチラッと見つめた。そしてそのまま、凝視する。

「……っ」

 私の口の両端から、ハルの血が流れた跡があり、その跡の太さが、尋常なものではない。制服は深い紺色のブレザーなので目立ちはしないが、黒く光を反射させているものが、ハルの大量の血。

 それだけで、解る。私がどれだけ、ハルの血を飲んだか。ハルがどれだけ、血を流したか。

 私は思わず、制服の袖で口元をぬぐう。

「……手当て、しないとね。痛いもんね。私へたっぴだけど、包帯くらい巻くよ」

「いえ、ズボンを貸してくれるだけで結構ですから」

 鏡越しに私の顔を見つめていたハルが、少し笑いながらそう言った。まるで「何を今更」と言われたような気分になる。

「でも、早く手当てしないと」

「……早く、心の手当てを、ね」

 ハルは突然、上手い事を言い出した。少し驚いて私はハルの顔を直に見る。そこには、うっすらと笑ったハルの顔があり、笑顔というより、ニヤニヤとした印象。もしかしてハルは、自分が言った言葉に対して、笑っているのだろうか。

「……手当て、しないと」

 私はまた同じ言葉を繰り返す。

「いえ……それより早く行きましょう」

 今度は少し暗い表情をして、私の目を見てそう答えた。精神が、おかしくなったのだろうか。不安定なのだろうか。少し前、しっかりとした印象も、確かにあったのに。

「駄目だよ……痛いんでしょ? だったら」

「今すぐ痛みが取れるなら、そうしますけど……」

 変わらないトーンで、ハルはそう言う。どうやら、ハルは今すぐにでもケイ君の所へと向かいたいようだった。焦っている様子は無いが、手当てを拒むあたりにそういった意思を感じる。

 それに、確かにハルの言う通りだ。傷の手当てならばケイ君のアパートでも出来るし、なんなら移動時間にだって出来る事。今は、ハルの意思を尊重し、ケイ君の所へいち早く向かうべきなのかも知れない。

「……解った。部屋に行こう」

 私はハルの手を引き、姿見の前を離れる。やはり、ハルの手には抵抗は感じられなかった。


 洗面所にて顔を洗い、鏡を見る。鏡の中の私は、頬に出来てしまっている大きな擦り傷を見つめていた。確かに、格好悪い。ハルが不憫に思うのも、解らなくはない。

 私は決して自分が美人だとは思っていないが、タダ君が愛してくれたこの顔は好きだった。

 タダ君の大切なものを傷つけてしまったようで、罪悪感が胸に涌いて出る。

「……ごめんなさい」

 思えば、タダ君は私もハルも、大切にしていた。ハルに対しては多少の苦手意識を持っていたようだが、目の前に死が迫ってきても、心配できた相手。

 それなのに、ハルを守るどころか、傷つけた。タダ君の大切なものを、二つも傷つけた。そう思った瞬間、鏡に映っている私の両目から、涙がポロリと落ちた。

「……泣くなよぅ」

 自分の力不足に、打ちのめされそうになる。結局は、ケイ君に頼るしか無いんだと、悔しくなる。

「泣くなって……有希」

 生前、タダ君にイジメの火の粉が飛び火して迷惑をかけ、号泣しながらタダ君に抱きついた時、タダ君が言ってくれた言葉を思い出し、口に出す。

「有希は、強い子だから……俺だったらとっくの前……に……ブチ切れてるか……引き篭もりに……なってるのにっ……有希は……辛くても、心配かけまいと……笑って……」

 言葉が声にならず、涙と鼻水になって、出てくる。

「うっ……笑って……くれてぇ……」

 涙と鼻水で再びグチャグチャになった私の顔は、口元だけがかろうじて、笑えていた。


 床に点々と垂れている血の跡を辿り、私は自室へと戻る。

「ハルちゃん、着替えた?」

 扉を開くとハルが私のベッドの上に座りながら、何かを読んでいる姿が目に映った。水色の水玉模様の、小さいけれど厚めの本。

 その本には、見覚えがある。というより、以前は毎日手に取っていたもの。

「はい」

 ハルは本を閉じ、その本をベッドの上に置き、立ち上がる。

「……読んだんだ」

 私は特に、ショックでもなんでもなかった。今のハルの精神状態では、怒る気になれない。

「えぇ……少しだけ。私の事、妹みたいって書いてありました」

 ハルが読んでいたものは、去年の夏まで書き続けていた、私の日記であった。タダ君にも見せた事の無い、私だけの、秘密の日記。それが今、ハルの血で汚れ、所々、赤い。

「……うん。今も、そう、思ってるよ」

「……ありがとうございます」

 よく見ると、私の部屋は血だらけになっている。

 私の机の上も、私の部屋のカーペットも、私のベッドも、私が貸した、ズボンも、血が付着している。

「……行こうか」

「はい」

 少しだけ複雑な気持ちになってしまったが、これは、私が流させた血。

 デリカシー云々を言う資格は、私にはない。


 ケイ君の家に向かう途中、私とハルの間に会話がない。私もハルも、何を話せばいいかが、解らないようだ。

 謝るのも変だし、普通の会話をするのも、変。今だって、こうして並んで歩いている事自体、変な状況なのだ。

 少し前なら、こんな状況は当たり前だったのに、タダ君の死と、空白の一ヶ月が、この当たり前を、違和感に変えてしまった。やはり、タダ君の存在は、大きいものだったんだと、実感する。

「……ユキさんは」

 やや後ろを歩いていたハルが、声を漏らす。それに気付いた私は「ん?」と言いながら、振り返った。ハルの表情は、少し暗めに見える。

「……よく、正気でいられますよね」

「正気?」

「はい……色々とグチャグチャで、解らなくなったって言ってましたけど、今こう見ても、普通に見えますよ」

 正気でいられる訳が無い。普通でいられる訳がない。私は前を向いて、少しだけ歩を早めた。どうやらそれにハルもついてきているようで、雪を踏む音は離れない。

「……私、ばかちんだから。考えられる事、一つか二つしか、無いから」

「はい」

「それに考えても、解らないから、解ってる事を、やろうって」

 そう、解っている事をやろうって、思っていた。だから、ハルに対して怒りをぶつける事が出来た。そして今は、ケイ君にしかハルを受け入れる事は出来ないだろうって事が解っているから、連れていっている。

「……いいですね、シンプルで」

「あはは……良くは、ないよ。ばかちんだもん」

「……いえ、馬鹿じゃないですよ。兄貴が馬鹿を好きになる訳、無いじゃないですか」

 ハルの声は、まるで服を口に当てて喋っているように、少し篭って聞こえた。恐らく、その通りなのだろう。私は振り返らず「そっかな」とだけ言って、ただ歩を進めた。

「そうです。ユキは俺なんかより、よっぽど正しい答えを導き出すって、兄貴が言ってたじゃないですか」

 私は「あはは」とだけ返事をする。

「それに、ユキさんはやっぱり、優しいですよ」

「そんな事、無いよ」

 私は、蛇口を捻ると勢い良く流れ出てくる水のように話し出すハルを、少し鬱陶しく感じていた。

 しかもハルは、昔から私を擁護するような事ばかりを言う。「可愛い」だとか「女の子らしい」だとか「兄貴には勿体無い」だとか。それを真に受けられるほど私は自信を持っている訳ではない。

 しかし、ないがしろにする事も、否定する事も、今の私には出来ない。黙って話を聞いて、相槌を打ってあげなければ。恐らくハルも、気まずい空気を察して、無理に話しかけてきたのだから。

「ユキさんはこうして、私を啓二さんの所に案内してくれてる。私なんかのお願いを聞いてくれてる。それって優しいって事。あ、それと優しさって、人と人の間にあるもので、ただ持ってるだけじゃ駄目なんですよね。誰かとの間に置いて、初めて意味を持つものなんです」

「……そっか。そうかも」

「私もユキさんみたいに、ユキさんと啓二さんの間に、優しさを作れるかな」

「……うん」

 私は気の無い返事を返した。


 歩きながら、考える。ハルは、頭が良い。物事を色々と考える力を持っているし、少し勉強しただけで私やタダ君が通っている学校へと入学する事が出来た。

 料理が上手だし家庭的。スタイルも良いし私より背が高い。顔だって、嫌味なほどに綺麗だ。友達が多い訳ではないが、イジメられている訳でもないし、学校生活に苦労はない。

 そんな彼女が、何故私なんかにこだわり、助けを求めに来たのだろうか。一人暮らしをしている同級生の可愛い子が助けを求めれば、下心丸出しだとしても、男子が寄ってくる筈である。

 それなのに、何故、私とケイ君なのだろう。

 私がハルにこだわるのは、約束があるし、妹のように思っているという理由がある。しかし、ハルには? ハルには、何があると言うのだろうか。

「私、啓二さんに謝らないといけないんです。せっかく私を心配して部屋まで来てくれたのに、失礼な事言って追い返しちゃったんですよ。だから、まずは謝らないと」

「はは……そうだね。それがいいよ」

「なんだろうな……なんだろう。私本当は、行きたくないんですよ。謝り慣れて無いですし、どうしたって許してくれそうも無いですし……ですけど、楽しみな心もちゃんと存在してまして……」

「ねぇ、ハルちゃん」

 私は切り出す事にする。

「はい?」

「私と、ケイ君に、こだわる理由って、何かな」

 私はハルの方向を見ずに、そう言った。ハルの表情は見えないが、少し間がある。どうやら返答に困っているらしい。

「ん……こだわる理由……だって、ユキさんも啓二さんも、心配してくれてるじゃないですか、優しいんですよ。優しい人と、関わりたいって思うんです」

「でも、和解するまでに、超えるべきハードルが、多すぎると、思うんだけど。実際、私、噛んじゃったし……ケイ君、凄く強いんだよ。ケイ君怒ったら私、止められないし、ハルちゃんは、きっと、パンチ一発で、死んじゃうよ」

 ハルは「はは」と笑う。私は何か面白い事を言っただろうか。ハルのほうへと向きなおして、ハルの顔を見た。ハルは、少し笑顔を作っている。

「え? 何?」

「あ、いえ、ハードルは堪えましたけど、パンチって。可愛い言い方するなぁって思いまして」

 ……他に、どんな言い方があると言うのだろうか、と一瞬思ったが、それより何より、真面目に聞いていない事に対して、私は少し腹が立つ。

 冗談ではなく、本当に、ケイ君は凄まじい。キレたケイ君が教室で起こした惨劇を、ハルは知らないから、笑っていられるのだろう。

「……パンチじゃなくても、キックでも、ハルちゃんは死んじゃうんだよ」

「ふふ……そうですね。キックでも死んじゃうでしょうね」

 ハルはより、笑顔を深める。

「ケイ君優しいけど、自分の敵には」

「いいんですよ。私は死んだって」

 ハルは、変わらない笑顔でそう言ってのけた。その笑顔と言葉の差に、私は驚く。

「え?」

「私、死んだっていいんですよ。ユキさんと啓二さんと関わる以外に、私に生きる意味は無いんですから」

 ハルは、やはり笑顔だった。これは、ケイ君を侮っているとか、私の話を信用してないとか、そういう事じゃない。

 きっとハルは、本当に死んでもいいんだ。死んでもいい覚悟で、外に出たんだ。そう、思わされる。

「人見知りでぶっきらぼうで、友達が少ないあの兄貴が、死ぬ直前まで大切に思ってた人達ですよ。きっと、他には居ない人達なんですよ」

「……うん」

「その人達と関われないなら。その人達に殺されるなら。私は別に、死んだっていいんです」

 私は、言葉が出てこなかった。

 笑顔で話すハルの顔に、圧倒されていた。


 私とハルは、ケイ君のアパートの前へと来ていた。時刻は夜の七時手前で、あたりは既に暗い。暗いというのに、ケイ君は部屋の明かりをつけていないようだった。つまり、居ない可能性が高い。

「あの部屋なんだけど、暗いね。ケイ君、居ないかも」

 私はケイ君の部屋に指を刺す。

「……居ない、ですかね」

 流石に緊張していたのか、ハルにはもう、笑顔がなかった。ハルは恐らく、殺される事よりも、拒絶される事に怯えているのだろう。

 自分の存在価値を、私とケイ君に求めているのだから、拒絶されるのは死よりも辛い。

 私には、その気持ちが良く解る。痛いほどに、良く解る。

「どうする……? 諦めて帰る?」

 私がそう聞くと、ハルは目をつぶり、左手を胸に当てる。何を、思っているのか、その行為は数分間も続いた。

「……いえ、行きましょう」

 ハルは第一歩を踏み出し、前に出る。私もそれを見て、ハルの先を歩き先導した。


 部屋の前に立ち、インターホンへと指を伸ばした。私自身も、緊張している。ケイ君と顔を合わせるのは、何ヶ月ぶりだろうか。という問いに対する答えを、必死に探す。

 たしかケイ君がこのアパートへと引っ越した時が最後だから、三ヶ月ぶりだ。電話では声を聞いていたが、直に会うのは久々で、ドキドキしているのが解る。

「……ふぅ」

 つい、声を出す。

「……はい?」

 後ろからついて来ていたハルが、聞き返す。別に話しかけた訳ではない。

「……押すね」

 私はそれだけを言い、チャイムを鳴らした。ピンポーンという音が、部屋の中から聞こえてくる。それとほぼ同時に、ガダンという物音も、部屋の中から聞こえた。どうやらケイ君は、居るようだ。

「……ケイ、くん」

 私はつい、声を漏らす。その声が、何故だか震えていた。

「ケイくん……ケイくんっ……」

 私の頭の中には、沢山の「ごめんなさい」が思い浮かんでいる。

 もう二度と、私の事で迷惑をかけないと誓ったのに。

 今度は私が、ケイ君を助けるんだと、誓ったのに。

 また私は、迷惑をかけに来た。

 助けられるためにここに来た。

 それが凄く、凄く、申し訳ない。

 ケイ君は優しいから、絶対に助けてくれる。屈託の無いあの笑顔で、また「いいよ、お礼はユキちゃんの笑顔で十分」「僕は僕の正義に従っただけだから」と言ってくれるのだろう。

 だってケイ君は、神様のような人だから。神様じゃないのに。

「うっ……うううぅぅぅぅ」

 私は涙を流す。目の前の視界がゆがみ、玄関のドアノブを思い切り回したい衝動にかられた。

「ユキさん、啓二さん出て来ませんけど」

「うぅっ! ううぅっ!」

「ユキさん?」

「ケイくんごめんねっ……! ごめんねっ……私ぃ……もう迷惑……かけないって言ったのに……」

「……そう、でしたね。恥ずかしいって思う気持ちくらい、あるんでしたよね。散々頼っておいて、また頼りに来るなんて、恥ずかしいですよね」

 私はインターホンのボタンに指を添えた状態のまま、泣いていた。私は、ハルに嫌だと言われた懺悔を、いつの間にかしている。どうやら私は、悲しくなった時、どうしようも無くなった時、懺悔をしてしまうようだ。

「……ユキさん、ごめんなさい」

 ハルは私に対して謝り、私の指の上からインターホンのボタンを押した。


 ガチャリという鍵を外す音が聞こえて、すぐにドアが開く。開かれたドアの前に立っていたのは、無精ひげを生やしている童顔の英雄だった。

「え」

 ケイ君は、不思議なものを見るかのような顔をする。しかし私は、感極まってしまい、会話や弁明をする余裕はない。

 ケイ君の顔を見た瞬間、私はまるで吸い込まれるかのように、ケイ君へと抱きついた。

「ケイくぅんっ……! ケイくんっ……!」

 ケイ君は厚い胸板で、私の体重全てを容易に受け止める。

「え? え?」

「ケイくんっ……わたしぃ……わたしっ……!」

もう迷惑かけないとあれ程誓ったのに……と言った罪悪感が涌いてくるが、私はどうやら、安心もしている。

 安心、しない訳がない。生存している人間の中で、私が頼りに出来る、唯一の人間なのだから。

 私って、ズルイナ……と、思う。ハルのために、来たハズなのに。

「ユキちゃん、落ち着いて。中に入って」

 ケイ君の手が私の背中に触れ、私を部屋の中へと導く。

「……春香ちゃんも、入りなよ。散らかってるけど」

 同時に、ハルにも声をかけた。どうやらケイ君は怒っていないらしく、冷静な判断を下している。人がいい所も、ケイ君らしい。

「あの……なんだろ。ユキちゃん、ちょっと向こうで待ってて。春香ちゃんの手……ね。手当てしないと」

「うぅうっ……うぅ」

 私は部屋の中へと上がり、ケイ君の布団の上で待っているよう指示される。確かに、この部屋は少し片付けなければ、布団以外に座る所はない。私はケイ君が指示するまま、布団へと向かい、うつむき臥せった。

「うっ……うぅうぅ……」

 私の涙腺は、まだ閉まらない。閉まりはしないが、ケイ君の布団からするオトコノニオイに、少し心が落ち着いてきたらしい。

 思えば、タダ君の布団に入った時も、このようなニオイがしていた。クサイ訳ではなく、優しいニオイ。全てを包み込んでくれるような、ニオイ。

「ううぅ……」

 なんだか、懐かしい。男を、感じる。きっと優しい人が出せるニオイなのだろうな、と思う。

「タダ……くん……」

 私は安心してどっと疲れが出てしまったのか、瞼が重くなってきた。

「タダ……」

 優しいニオイに包まれて、私は、意識を失う。

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