第6話 偽典 正也の親友③

 僕は、しがない工事作業員。日給月給なので働かないとマズイと感じ、春香ちゃんの会話をしてから三日後、ようやく仕事場へと復帰した。この二日間、僕は風邪をひいていた事になっている。

「おう。もういいのか?」

 仕事場の人達の問いかけに、僕は全て「はい。心配かけました」と、笑顔で対応し、いつも通り機敏に仕事をこなす。

 僕は、仕事場の人間を軽視していない。だけど同時に、尊敬もしていない。早い話、無感情。笑顔は作るが、笑ってはいない。

 でもそれはお互い様だろう。一度だって飲みに誘われた事もなければ、誘った事もない。入社祝いもされなかった。だから、これでいい。この人達と深く関わる必要は無いんだ。そう思い続けていた。

 けれど、今更のように感じているこの違和感。煮え切らない感じ。なんなのだろう。


 昼休み、僕は現場の近くにある公園へと向かい、ベンチの雪を落とし、そこに寝転がる。空を見上げながら、だるい体を休ませた。

「……ついに、仕事に対してまで、やる気が出なくなっちゃった」

 ありがちに「なんのために生きているのだろう」と言うつもりは無い。その答えはもう出ているから。だけど、けれど、それなのに、僕は今、血が滾らない。

 これは、甘えなのだろうか。誰に助けて貰いたい訳でもなく、ただ、やる気が起きないこの感じは甘えなのだろうか。

 仕事を辞めて、お金が無くなって、餓死していく事を想像しても、恐怖ひとつ感じない僕は、甘えているのだろうか。

 姉の死を見た。アイツの死を見た。いずれも酷い表情だった。それを想像しても恐怖が涌かない僕は、甘えているのだろうか。

 それとも、また、狂っているのだろうか……そうじゃないと思いたくて僕の心の中を探ってみるが、そこにはどうやら何もなく、あるのは体のだるさと、からっぽの僕。

 いや、からっぽではないか。怒りだけは感じていたように思える。とはいえ、春香ちゃんはもちろん、ユキちゃんも、彩子さんも、健太も、タダっちさえも、僕の心に住んではいない。いつだったか、アイツは「ケイの心に俺の居場所を作ってくれ」と言っていたのに、どうやら作れなかったようだ。

「ごめん」

 つい、謝った。だけど、それは言葉だけのもので、僕は何一つ悪いとは思っていないのだろう。


 僕は事務所からいつも歩いて帰っている。普通に歩いて一時間くらいだろうか。結構な距離があり、体力作りには丁度良い。しかし僕は、今日始めて、タクシーに乗って帰ってきた。どうしても、歩く気にはなれない。歩けばいいのに。やればいいのに。

 やらない。やりたくない。

 それは仕事にも、約束にも同じ事が言えた。

「……子供の、我侭と同じだ」

 僕はタクシーの窓から見慣れた景色を眺めながら、小さな独り言をもらす。

 やりたくないから、やらない。そんな言い訳が通用するのは、小さな子供だけ。この世に生まれ出て、数年の間だけ。僕はもう、十八年生きている。しかも、親を狂わせるほどに、迷惑をかけて生きてきた。

 もし彩子さんの言うようなカルマというものが存在するなら、僕はそれを少しでも無くすための努力をしなければ。だけど、そう考えると「やらなきゃいけない」という意識よりも先に「死んで詫びる」という考えが浮かんでしまう。

 僕なんか、居なくたっていい。迷惑をかけるなら、死んでもいい。今の母親なら、僕の死を喜ぶのでは無いかと思う。それに、もし死後の世界があるなら、アイツが待ってくれているはず。

「しょうがねぇな」とか言いながら、笑ってくれるはず。その笑顔を見て、僕も「あはは」と、本当に笑えるような気がする。

 それが、逃げだという事にも、気付いていた。それなのに「逃げたっていいじゃないか」とか「僕にはどうせプライドなんて無い」等という言葉が浮かぶ。

 アイツという、本物の親友が無くなった今。約束という、僕の心を揺さぶっていたものが無くなった今。僕を支えているものは、何もない

「お客さん? 着きましたけど。あれ? お客さーん?」

 誰かの声が聞こえていた。


 布団をひき、その上に座り、テーブルによりかかり、缶ビールをあけた。プシュッという音がして、隙間から少量の泡が漏れ出る。僕はそれを見て、缶ビールをそっとテーブルに置いた。

「……飲みたくないなぁ」

 僕の少ない楽しみだった晩酌に、手がつかない。素ビールでも十分に楽しめていたはずなのに。今は、まるで毒を目の前にしているような、そんな感覚。僕はしばらくじぃっと缶ビールを眺めた後、それに飽きて横になった。

 そして、目を閉じる。


 思い浮かぶものは、円。ぐるぐると回っている、思考という円型の渦。その中に僕が居て、横を見ると僕が居る。

 よく周りを見てみると、その向こうにも、そのまた向こうにも、僕が居た。

 高速に回転している渦の中、一人の僕が目の前を通る。ニヤリと笑い、僕の顔をつかんだ。

「お前なんかに殺されてたまるか」

 僕は、恐怖する。しかし、逃げようにも逃げられない。抑えられているのは顔だけだと言うのに、まるで全身を拘束されてしまっているかのよう。

「やめろ……」

「もう任せちゃおけねぇ」

「やめろ。僕は」

「僕を殺す気なんだろ? 代われ」


 突然、ピンポーンというチャイムの音が、この部屋に響いた。それと同時に、僕は自分を取り戻す。あわてて体を起こし、自分の体が自由に動くかどうかを確かめた。どうやら、眠ってしまっていたようだ。

「はぁ……はぁ……」

 あの夢は、一体なんだったのだろう。真冬だというのに、寝汗を大量にかいている。

「……夢……?」

 どこかで、聞いた事があった。夢を見た後、こうして寝汗を大量にかき、息切れを起こしている現象について。どこで、どんな風に聞いて、何を思ったのかは、忘れてしまったが。

「なんだっけ……」と思い悩みはじめたその時、再びこの部屋のチャイムが鳴る。誰かが来たらしい。

 彩子さんはこの部屋の合鍵を持っているので、チャイムを鳴らして部屋に入るなんて行儀の良い事、した事は無かった。つまり、彩子さんではない。

 彩子さんとアイツ以外の来客なんて今まで無かったこの部屋に、一体誰が来たと言うのだろうか。僕は面倒くさくなりながらも、重たい体を立たせ、玄関へと向かった。


 鍵を外し、ドアを開くと、そこには、泣いている女、二人。

「え」

「ケイくぅんっ……! ケイくんっ……!」

 一人の女性に、抱きつかれる僕。思わず後ろに倒れそうになるが、踏みとどまる。この女性はどうやら軽い。

「え? え?」

 僕は、混乱した。

 一体、何があったと言うのだろう。

「ケイくんっ……わたしぃ……わたしっ……!」

 僕の目に映るのは、僕達から一歩離れた所に立っている、女性。酷くやせ細っていて、精気が感じられず、今にも消えてしまいそうに見える。彼女の左指からは、血が流れていた。ポタポタと、白い雪に赤い点をつける。

「ユキちゃん、落ち着いて。中に入って」

 僕はとりあえず、泣いている彼女をなだめる事にした。部屋の中へと連れていき、ココアの一杯でも飲ませなければ。

「……春香ちゃんも、入りなよ。散らかってるけど」

 僕がそう言うと、精気の無かった彼女の顔が一瞬にしてクシャッと歪む。必死に我慢していたのか、大量の涙を、流していた。

「わたっ……私が春香だって……なんで……会った事……無いのに」

「どこからどう見ても、春香ちゃんじゃんか」

 精気の無い顔。やせ細った体。うつろな瞳。ボサボサの頭。見た事は無かったが、彼女はどこからどう見ても、春香ちゃんだった。


 春香ちゃんの深い深い指の噛み傷を流水で洗い、消毒してバンソウコウをはった。

 しかし、深い傷だ。明らかに肉の一部がそぎ落とされている。骨まで達しているかも知れない。

 こういった身体の先端部分は神経が集中しており、相当痛むはずだ。それを今まで、よく我慢していられたものだと思う。

「指、早く病院に行かなきゃ駄目だよ。腐って落ちるよ」

 僕が治療しながらそう言うと、春香ちゃんはより大きな声で鳴いた。

「あぁあっ……! うううぅっ!」

 ……話は聞けないが、察しはつく。

 この噛み傷、おそらくユキちゃんが付けたもの。

 当のユキちゃんはと言うと、僕の布団の上でうつぶせになりながら、震えていた。

 こちらも、今は話を聞ける状態では無いだろう。

「腐って落ちれば……っ」

「ん?」

 突然春香ちゃんは、声を漏らした。泣き声交じりなので、上手く聞き取れない。

「何か言った?」

「腐ってぇ……落ちればいいんだぁ……」

 目から涙、鼻から鼻水を大量に垂らした、とても情けない表情で、春香ちゃんはそう言った。

「え? なんで?」

 僕は当然の疑問を投げ返す。

 すると春香ちゃんは僕の目を見て、より一層、顔をゆがめた。まるで、幼い子供が泣き始める瞬間をスローモーションで見ているよう。

「だって私……これ……左腕ぇ……」

 春香ちゃんは左腕を僕に差し出した。そして、ゆっくりと着ていた黒いパーカーの、袖をめくる。

「こんな腕っ……要らないもん……」

 彼女の腕には、無数の生々しい傷跡があった。恐らくカッターか剃刀で、自ら傷つけたものだろう。おびただしい量。腕の隙間を無くすほどの量。昨日今日つけたばかりの傷らしく、かさぶたの隙間から血がにじみ出ている傷もあった。

「汚い腕だね」

「……ううぅっ……! うぅっ!」

「駄目だよ」

 僕は春香ちゃんの手をとり、水道の水を当てる。キンキンに冷えている水道水だ。冷たいし、傷に染みるだろう。その上で僕は、彼女の傷口ひとつひとつを、丁寧に洗った。

 痛いのだろう。春香ちゃんは「うぅっ」という声を出している。

「傷つけてもいいけど、放置しちゃ駄目。傷は化膿して、悪くなっちゃうから」

「……うぅう」

「それなのに、一ヶ月も放置しっぱなしで、ごめんね」

 僕は、謝っていた。心からの謝罪かどうかは、わからない。だけど僕の頬に、三日ぶりの涙が伝っていた事は、間違いじゃなかった。

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